Report / FUKUSHIMA Vol_1 今野秀則 (全文)


Report / FUKUSHIMA

Vol_1 今野秀則 (浪江町下津島 65歳 元福島県職員)

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地震があった3月11日は勤め先、勤務先にいました。県の社会福祉協議会に。
ボランティアセンター立ち上げるとか、そういう話をしていて。センターが立ち上がったあとに、じゃあそろそろ明日もあることだしということで、私が勤務先を出たのは20時ごろでした。
福島市街地は幸い電気灯いていました。渋滞もなかったのは私の帰る時間が遅かったせいもあるんでしょうけれどもね。途中、川俣町が真っ暗で、まあ星明かりがきれいでしたけれど、もう真っ暗闇の中をライトだけが道を照らすんで、なんか本当に非現実的な感覚でしたね。これはまいったなあ、うちに帰っても電気も灯いてないんだあと思いながら帰ったら、114号の、川俣町から浪江町に入る郡境を超えると同時に明かりが見えた。
ああ、こっちは幸い電気灯いてるなあと思って。うちに帰ったら電気、灯いてましたね。いやあ、ほっとしましたね。
第一原発の情報というのはテレビでは入ってましたよ。けど、自治体からの情報はなかったです。自治体経由、政府経由の情報っていうのは全然入ってこないから。浪江町などの役場からの情報も全然なかった。

翌日、12日はね、朝方早く、朝7時、もっと早かったかな、浪江町の総務課から連絡があったんですよ、下津島の集会場を使わせてくれって。町の中心部(浜通り)の人、原発の関係でみんな避難しなくちゃならないので。テレビでも11日の段階から、3km圏避難とか、2km圏避難とか、たしか言ってましたからね。部落の集会場を使わせてくれないか?って、町から連絡があったんですよ。我々のいる津島地区っていうのはけっこう離れているでしょ?(注:第一原発からおよそ30kmほど)

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最初、総務課から電話があったときに、津波の被害でやられたとか、そういう人たちが津島地区に来るんだなと、そういうふうに思っていた部分があります。まあでもとにかく、その要請がある以上は、地区集会場を開放しなくてはいけないということで、我々の地域にある集会場を、掃除しに行ったんです。私一人じゃ大変なんで、部落の庶務をやっている佐久間くんという人がいるんだけど、一緒に行って掃除したんです。で、それと同時くらいに、町から114号を通って沢山の住民が押し寄せてきました。ものすごい人でしたよ。人と車。1万人って言われてますけどねぇ、町に言わせると。浪江町の町民だけでなく、双葉の町民だとか中には入ってますよね、あと大熊だとか。私らの地区にいるのが1,500人くらいですから。だからこの狭い地域に一時的にですけれども、1万人を超える人数が、元々の住民と一緒に避難していたという状況。それが12日の朝。午前中。旧道とかバイパスとか、人も車も溢れかえって。聞く話によると114号はもうほとんど動かなかったって。車、数珠つなぎになって。
本当はね、12日は、私は福島市に出勤するということにはなってたんです。県の社会福祉協議会のほうでね、ボランティアセンターを立ち上げてますから。けれども、なにせ車のガソリンが残り少ないんですよ。昨夜の途中ね、給油しようと思ってスタンドに寄ったんだけど、20リッターしか入れてくれなかった、ほとんど空っぽだった。20リッターしか入っていなかったところ、さらに福島市から津島まで帰って、5リッター近くは使いますから、残りもほとんど少ないです。で、あの状況で一旦行けば、今度は帰れなくなるかも分からない。そういうこともあって、今日は悪いけれども出られないということを県社会福祉協議会に連絡したんですよ。私はとにかく、ガソリンの不安もあるし、今日はちょっと出られないから申し訳ないということで、代わりに私の部下の人に出勤をお願いしたんですよ。
で、私は家にいて、震災の後片付けだとか、それから、私のうちはタバコを売ってますから、旅館とか旅籠(はたご)をやってましたから、タバコも売っているんですよ。吸うタバコね。避難している人たちっていうのはほとんどもう、何一つ持たないでとにかく逃げて来ただけ、身一つで来ていますから、タバコも何もない、食い物も何もない、そういう状況の中でやっぱり店に来ますよね。タバコちょうだいとか、水分けてくれないかとか、トイレ貸してくれとか。そういう人たちの相手をしたんです。で、なおかつ、うちの中もめちゃくちゃですから。11日の大地震で、ほとんどの食器なんかは飛び出して、ガッチャンガッチャン割れて、壁は落ちてるし。旅館として、避難場所の提供はしていなかったです。逆に、泊めてくださいという人が来て、泊めて差し上げた方もいました。あ、避難所としてではなくて、お客さんとして扱いました。それは中学校の恩師の先生だったんです。いやあ先生、申し訳ないけれども、うちん中めちゃくちゃで、もう泊めてくださいって言われても、泊められる状況じゃないんで、申し訳ないって言ったんだけど、私の中学校時代の恩師なんですよ、女性ですけれども。もう既におばあちゃんですけれども。で、その先生の家族、何人だ?先生と娘さん夫婦、お孫さんと、4人かな。あと犬1匹。まあでもそういう状況でもかまわないから、犬連れでは避難所に入るわけにはいかないからというんで、部屋を大急ぎで片付けて。トイレも壊れちゃったんですよ、浄化槽が機能しなくなちゃったんです。で、やっぱりあれ、こう揺られたんでしょうね、中で回転する羽根とかが水圧で揺られて壊れたんだと思うですけれども。機能しなくなっちゃった。風呂は井戸水だから支障はなかった。ガスはプロパンガスだから、支障はなかった。ライフラインは、そういう意味ではね、大丈夫だった。トイレ以外はね。電気は当然通じていたし。電気が通じていれば、ポンプは動きますから、地下水をポンプアップして使っているんで、それも大丈夫だし、ガスはプロパンだから大丈夫だし。風呂も入れるし、ご飯も食べられるし、電気もつくし。そういう意味では特に支障はないんだけど、トイレがちょっと困った。
そうは言ってもね、うちの中を片付けたり、タバコの客が切れずに来るんですよ。そのためにほとんどもう、なんというのか、次々と来るからその対応もしなくちゃなんないし。私らとしては、本当は避難している人たちの世話なんかもしなきゃならないんだけど、そういうのが全然出来ないんですよ。ただそうは言っても、地区の集会場を開放しているんですから、だからどんな状況なのかなと思って、合間に、昼前に集会場を見に行ったんです。そしたらすでに30人、もっといたかもわかんないけど、着の身着のまま避難してきていましたね。町会議員さんも同時に来て、「炊き出しも間もなく届きますから」なんて言っていましたけど。とにかく、そんな状況。
正直この時点(3月12日)では、私はそんなにね、深刻な状況だとは思ってなかったですね。
テレビの情報は入ってましたよ、原発がおかしくなってるって。だけど枝野官房長官のあの一言、「直ちに影響はない」ってね。30km離れているので、ここはまだ、ひょっとすればひょっとするかもしれないけど、12日の段階ではまだ大丈夫だろう、というふうには思っていましたね。

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翌13日、第一原発の3号機ね。爆発の映像が放送されたの、テレビで。夕方。
私らは、家の中を片付けながら、まあ相変わらず避難してくる人たちを手伝いながらね、いたんです。
コクブン商店っていう、商店があるんですよ。そこにはお客がもうひっきりなしに来るんですよ。みなさん、たとえば身の回り品だとか、食料品だとか、水だとか。コクブン商店は私のうちから100mくらい離れたところ。私の親父の生家ですけどね。そこがもうお客さん、ごった返しているから、娘にとにかく手伝いに行けって言って、手伝いに行かせたんです。で、あっという間に店内の品が売り切れちゃいましたけどね。
もう物資はほとんどなかったです。ただ田舎だから、農家ですよね、ほとんどみんな、自分のうちで米、作っているうちがたくさんあるので、そういうところからお米を調達できるので、だから食料には事欠かなかった。ただ、肉だとか魚だとかいうのはね、それは陸送されないと、なかなか難しい面があるんですけれど。おにぎり作る米なんか、たとえば、大和田さんなんかは随分提供したって言ってましてね。元区長さん。私の前任者だけど。そういう人たちの支援とかそういのもあって、避難所が維持できたんですね。もちろん、消防団だとか地域の婦人会だとか、そういう人達も炊き出しなんかやりましたけど。私は正直そこまでは手が回らなかったですね。ただ13日の段階ではもう原発が危ないっていうことで、来ている人たちも話しているし、テレビでも爆発したって出てますから。
なんというの、白い防護服、着ている人はけっこう見ましたよ。日にちはちょっと覚えてないんですけれども。12か13日か、どっちかだった。11日ではなかった。12か13、多分13日かな。うちでタバコを売っているときに、ゆっくり走り過ぎていくワゴン車があって、中に乗っている2人か3人だったと思うけど、真っ白な防護服着て、マスク付けて、ゴーグルも付けていたような気がするけど。そういう姿をしている人が通り過ぎるんですよ。えー、すごいなって。見てましたけど。

14日は、通常の勤務日ですから。だから、出勤したんです、14日は。
テレビでは原発が大変だという状況がけっこう出てくるし、爆発の状況はテレビでは放映されていますから、それは分かるんですけれども、具体的にこの津島地域にね、どういう危機が迫っているかっていうのは何の情報もないわけですよ。町も知らないし、私らはましてや知らないし。なおかつ距離的には30km離れてますから、ここまで放射能が押し寄せているとか、そういう情報は全然知らない、誰も知らない。多分その時点ではかなり高い放射能が来ていたはずなんですけれども、私らは知らないから、まだ大丈夫だ、距離も離れているし、と。

汚染については、この段階では一切、情報ないし、我々は知らない。浪江町の町長さえも知らない。ただ中央(政府)は、どうでしょうね、情報、持っていたでしょうね。(後に)福島県にも連絡をしましたって言っていましたからね。だから、きちんとした情報を出してくれていれば・・・ねえ。
双葉町や大熊町や浪江の町から避難して来た人、まだ1万人からの人が留まっていたわけですから。12、13、14、15日まで。ここまで来れば大丈夫だということで、なおかつ皆さんは情報知らないから、今回避難したというのは万が一のことを考えて、念のために避難している。2~3日で帰れる、と。皆、着の身着のままで来ているわけですよ。2日くらいで帰れるんだろうね、まあ長くても3日くらいでうちに帰れる。ということでたとえば、財布とちょっとした身の回りの品を持つだけで避難してきているわけだけれど、まあそういう状況ですよね。
そういう意識が私らも頭にあるから、出勤しても取り立てて支障はないだろうと、私は思って14日は出勤したんですよ。

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で、この日、ちょうど普通通りに定時に退勤したはずだな。川俣通って114号をずっとこう帰ってくるでしょ?津島に入ってきて、私のうちの少し手前、バイパスのほうで、検問をやってたんです。その検問している警官が、これからどこに行くんですか?っていうから、オレはそのすぐ先が家だから通してちょうだいって言ったんです。もうこの時点で検問がありましたね。白い格好(防護服)だったかな。警官だった、自衛隊じゃなくて。いや・・・白い格好ではなかったな。
んん、警官は、白装束だったような記憶もあるね。忘れてるな。
14日の夜、6時くらいですね。3月だから暗いですね。まあそういう状況でしたね。

15日は、さきほども言ったように、ガソリンがもうとてもじゃないんですけど、ないんですよ。で、しょうがないからこの日は、スタンドに行ったんですよ、給油に。給油と一緒に灯油を買いにいったんですよ。とにかく、寒いから。寒かったんですね、この頃。かろうじて灯油だけは買ったんです。でも、ガソリンは給油できなかった。丸福商店というところ。スタンドが2軒あるんですよ。農協は開いていないんでね、で、丸福商店のほうは民間だから、日曜日でもやってて。行ったんだけど、売り切れ。
で、もうガソリンも残り少ないし、申し訳ないけどこの日は福島(勤め先の県社会福祉協議会)には行けないと。で、なおかつ、こういう緊急事態でもあるし、申し訳ないけど出勤をとりやめたんです。この辺になると、3号機爆発、(その前、12日に1号機が爆発)、2号機、4号機も、爆発や変な事態が起こっていて、もうメルトダウンが現実のものとなりつつ・・・いや、もうなっていたんでしょうけれどね。私自身としても原発が最終的に冷却できないとなれば、メルトダウンして、チャイナシンドロームじゃないけれども、放射能をこう巻き上げて、吹き上げて、ひょっとすればこの辺も危ないね、というふうにはなんとなく感じ始めました、このころになると。一切の情報はないけどね。おそらく、この頃は(汚染も)来ていたんでしょうね。
まあそういう状況なもんだから、ひょっとして避難せざるを得ないことになるかもわかんないなと思って、スーツケースに万一の避難指示に備えて・・・万が一の避難指示が、ひょっとして我々にもあるかもわからない。そういうことも考えて。
ですけど、30km離れているここ(下津島)が放射線量で具体的に高い放射線量だから危ないよっていう認識は我々には全然ないですから。ないの。ないんですけど次々と、1、3、4(号機)だっけか?1、3、4って爆発してるでしょ?15日までは。テレビで見てますから。バーンって衝撃波が大気中に広がる状況も見ていますから。ひょっとすればひょっとするかも分かんないなとは誰しもが思いますよ。私らもそう考えて、スーツケースに持ち出すもの、まとめたんですよ。たいしたもんじゃないけどね。だけどなかなか具体的にいざ持ち出すとなると、正直なところ、何を持ち出すんだって。進まないんですよ。

で、町から連絡があって、区長会を開く、と。具体的には、町の災害対策本部会議。浪江町の災害対策本部会議ね。それに合わせる形に区長会を開くので、出席してくれという要請があったんですね。
朝の10時から、町の災害対策本部会議が開かれたんです、津島支所で。その場で対策会議で町長も出席しましたけれども、町長から、「こういう状況だからとにかく、避難しましょう」と。馬場有(ばばたもつ)さんがね。町独自の判断です。
(正確な情報は)何も来ていないんじゃないですか?大熊町はすでに避難していますからね。双葉町もすでに避難しています。富岡も避難しているはずだな、川内もたしか避難してたと思ったな。楢葉もしてると思う。残っていたのは、多分浪江ぐらいでしょう、おそらく。
双葉と大熊は別じゃないかな。原発から直接連絡行ってたみたいです。本来は浪江町当局と第一原発、第二原発もそうだと思うけど、有事の場合の連絡協定みたいなものは結んでたはずですから。
でも、浪江町にはないの。連絡はなかったの。繰り返しになるけど、浪江町当局は何にも知らされていないの。どこからも連絡が入ってこない。
政府からも国からも、東電からも。どこからも、何も連絡がない。そんな状況だから、浪江町として判断するしかない。大熊も双葉も避難した、富岡も避難している、で、我々はどうする?というときに原発の状況を見れば、これはもう避難せざるを得ないでしょうと。町独自の判断で、自主的な判断で、とにかく30km圏より外に避難しましょうと、その場で、災害対策本部会議の席上で馬場町長が避難指示を出した。避難先は二本松。二本松にとにかく逃げましょう、と。
15日の午前10時から会があって、だいたい1時間半くらいで終わって、その席上、津島地区で暮らしている人も避難してくれと。全町民避難だから当然の話なんですけど。それについては行政区長さん方、申し訳ないけども、各住民に知らせて、避難するように広報してくれないかということで、戻ってから避難を呼びかけるチラシを配ったんですよ。
午後から一軒一軒歩いて、チラシを配りながら避難を呼びかけた。50軒。私が、一軒一軒。2時間くらいかかったなあ。
この段階で、だいたい半分以上はすでにうちにいなかったですね。(爆発した時点で自主的に避難していた)
東電関係の仕事をしていた人は新潟に逃げたみたいです。なぜかは分からないけど。まあ、向こうだと仕事があるから。
いや、正直ね、50戸のうちを回って歩くのも、距離的にはそんな距離じゃないけど、やっぱり3~4kmは車で走りますから。いつでも1人で回覧を配ったり文書を配ったりしているから馴れている道だからどうってことないんだけど、ガソリンがいつなくなるかね。11日に20リッター入れたっきり、入ってないわけだから。
地区内全戸回るんだけど、ガソリン残量が目に見えているんですよ。で、大半の家は留守なんです。玄関が施錠され、カーテンが引かれているので、自主的に避難された後なんだろうなと。2/3とは言わないけれども。ほとんどいなかった。でもたまたま留守なのかも分からないし。オレが行ったときはたまたまいなかったのかも分からない。それはなんとも判断しようがないのですけど。15日はとにかくみんな一斉に避難したんですよ。15日。たいした混乱もなく避難しましたね。バスも出た。町が手配して。二本松市の体育館って指示されていましたけれど、実際そこにみんなが行ったかどうかは私はわからない。
私は、先に妻と娘を福島市内にある妻の実家のほうに避難させました。

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この時点で、戻れなくなるとか、住めなくなるとか、まだそこまでの危機感は持ってなかったんです、正直。具体的に放射能の状況がどうなっているのかというのはまだ私は全然知らなかったからね。避難指示も出たし、原発がこういう状況だから、万一ということはある、だから避難しなくちゃならないのは当然だ、ということで、避難のための準備をして、妻と娘は先に避難させて、地域の人々には避難を呼びかけて、後に私自身も当然避難はしましたけれども、でも、もうこのまま戻れない状況になるとまでは考えてなかった、私自身はね。
この段階では、まだ。ちょっと、認識が甘かったんですけど。
でもね、不安だった、たしかに不安だったんです。
実際上、まだ避難していない人はいたんですよ。たとえば牛を飼っている農家とか、あと、子どもがたくさんいて、避難って言ったってねえ、簡単にできる家庭じゃない世帯だとか。やっぱり地域に残っているうちは何軒かありました。あるけど、まあほぼ無人の状態になって、その中で私だけがうちにポツーンと下津島に残って、独り過ごしたんですよ。

そのときに、リリィ(ラブラドールレトリバー)は・・・リリィ、犬ね、我々の避難先に一緒に連れていくわけにいかなかったんですよ。避難先では飼えないから。
だから私はその晩、リリィと一緒に過ごしたんだ、15日の夜ね。
リリィを避難先に連れて行けないし、と思ったんだけど、ちょうどその50軒まわった中に、先に一旦避難していた近所の大和田さんが下津島の自宅に再び戻って来ていたの。で、会って「大和田さん、とにかく避難してください」と言ったら、「いやオレはこうこうこういうわけで・・・」・・・奥さんがね、身障者なんです。「とてもじゃないけど、体育館でなんか生活できない、うちだと、風呂もトイレもそれから玄関口も車いすで生活できる、全部改造したんですよ。だから、妻もこういう状態だし、とてもじゃないけど、体育館じゃ生活できないからうちに戻って、何事があろうともここでオレ、死ぬんだ」って。帰ってきてたんです。「いやあ、そうは言っても避難しなくちゃ」と言ったけれど、「いいよ、オレはここに残る」って言うから、「じゃあ悪いけど、明日から私の犬を預かってくれませんか」って言って、リリィを預けることになったんですよ、大和田さんに。というのは、大和田さんの家の犬は、うちの犬と一緒に保健所からもらってきた犬なんです。兄弟じゃないんですけどね。二匹とも仲いいんで。
そういうこともあるもんだから、大和田さんに申し訳ないけど、オレたち避難するし、大和田さんが残るというなら、と、うちのリリィを預かってもらうことになったの。

で、15日のその晩から雨が降ってきてね、夕方から。夕方の早い段階から。3時過ぎか4時くらいかな。3時過ぎか4時くらいから雨が降り出して、けっこう・・・煙るような雨だったな。で、夕方から降り始めた雨が、夜にかけて雪に変わったんです。
わっさわさと降りましたね。翌朝真っ白でした。

(注:第一原発の爆発で空に舞い上がった放射性物質は、この雨と雪により津島地区へ降り注ぎ高レベルの放射能汚染地域となった。文部科学省の発表によると、モニタリングカーによる2011年3月16日の計測結果は、津島地区で最高330μsv/hという非常に高い数値だったことが確認されている)

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翌16日は、もう一回、午前中、同じくその50戸を歩いたんです。ようするに、前の日は留守だったけれども、ひょっとしてたまたま留守にしていただけのうちってあるかも分からないじゃないですか。だから、そういう人達に連絡漏れしてもいけないし、とういうことで、もう一回50軒全部、歩いたんです。実際、前の日に会えなかった人に会えたしね。漏れがあったかどうかは分からないけど、とにかくその人たちにも、「わかってるでしょ?避難してください」というふうに呼びかけて。3、4軒あったかな。
そして、その後私も避難したんです。

16日の、3時ごろか、4時くらいかな、夕方に、福島市内の妻の実家に着いたのね。
で、夕ご飯いただいて、風呂に入って、ようやく一息ついてホッとしたときにね・・・
・・・いや待てよ、ひょっとしたら帰れない、もう金輪際そこに二度と再び帰れないかも分からない。そのときになって初めて危機意識が出て来たの、明日急にブロックされるかもわからない。ここはもう立入り禁止だ、って。チェルノブイリと同じようにね。立ち入り禁止だ、ってね、戻っちゃいけないというふうな区域に、ひょっとして今夜そうされてしまうかもわからん。バリケードどころか、軍隊が守るくらいに閉鎖されちゃって、こっからこっちにはもう30年?、100年?、期間はわからないけど、もう帰れない。そうすると、たとえば大切にしているものさえも手が届かない。そういう状況になるかもわからない。そういう懸念が頭をよぎったんです。
そうすると、そういう恐れもあるしと思ってね、家内と相談して、その日の夜9時過ぎだな。

アルバムをね、子どもたちの記録。これは財産だもの。
あのアルバムだけは持ち出そうということで。
他のものは買うことはできます。アルバムだけは買えないんで。
再生がきかないアルバムだけはとにかく取りに行くぞということで、再び取りに戻ったんです。子どもたちの成長記録、作っていたんで。他のものは全部買い替える事が出来るけど。

夜9時ごろね、雪降る中を車で再び下津島に戻って、アルバムを持ち出したの。
子供と家族のアルバムね、普通一般とはちょっとかけ離れたくらいの分量があるんです。車の後部座席倒して、ほとんどいっぱいになるくらいだから。でも、全部は持ち出せなかった。
私はこの段階で懸念したのは、もう金輪際立ち入れないかもしれない、と。ひょっとして立ち入れなくなる、もう帰っちゃいけないってね。

3月16日に避難した後、妻の実家に3月いっぱい、そこにいたの。
正確には3月27日くらいか?28日かな。2週間くらいかな。たしか28日だったと思うけれど。そこから仕事にも行きました。
ようするに、ざっと言えば3月いっぱい妻の実家にいて、今度は娘がね、福島県に就職したんですよ。ですから福島市内の公舎に入れるようになって、まあ私らは居候させてもらったてたんだ、娘のところに。上司の方が、お父さんとお母さんが避難中であって、世帯向けの3部屋ある部屋を斡旋してくださったんです。6畳+6畳+4畳半。3DKだな。3LDKまでいかないな。部屋が3つと小さなダイニングキッチンね。そこに4~5月と2ヶ月ほどいたんです。
その後、6月1日から原町勤務を命ぜられたの、娘は。南相馬市の原町区に勤務が決まったもんだから、今度はそっちの公舎に入ることになったんです。娘と一緒に私ら夫婦もそっちに移動したわけ。原町の。
で、そこには11月いっぱいかな、震災の年の11月いっぱいまで。
ここ(本宮市)に住むようになったのはそのあと12月から。
最初が妻の福島市内の実家で、次が同じく市内の公舎で、そのあと南相馬の公舎で・・・今ここ本宮が4カ所目だね。

あ、リリィね、(3月16日に)大和田さんとこに預けたでしょ。で、預けてその後、数日後だったようですけど、いよいよ大和田さんが再び避難するってなったときに、大和田さんがね、リリィを、悪いけど置いていくよって言われて。連れて行けないし、と。やむを得ないし、こっちも、はい、いいですって言って。
その時の話をあとから聞いたんだけど、大和田さんが避難しようとしていたら、そしたらリリィも大和田さんの車に乗りたがったんですって。自分も乗るんだって言って。かわいそうだった、って。乗せて連れて行けないから。やっぱ、この異常事態って犬も分かるんだろうね。
その後しばらくして、福島市の離れたところに住んでる親戚のおばさんがリリィを一時的に預かってくれることになって、4月のたしか15日だと思うけど、私らがリリィを(下津島へ)迎えに、探しに行ったの。
そしたらば、リリィ、大和田さんの家のところにちょこーんといたんです。いやぁもう涙の再会でした。あの犬、小心者だからあそこから離れられなかったんだね。
12月に今のこの家(本宮市)を借りられて、ここならばリリィと一緒に生活できるなってことで、預けている先へ迎えに行って、ようやくリリィと再び一緒に暮らせるようになりました。

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そういえば、下津島を離れて避難してしばらくした頃、2011年の6月かなぁ、まだ地域的な規制は、計画的避難区域になったあとだったかな。知り合いに、これ(線量計)貸してもらったんですよ。時々下津島に戻った時に、私のうちの目の前で測ると、6とか8μsv/h(μsv/h=マイクロシーベルトパーアワー)とかぐらいはあったんですよ、玄関前は。あーかなり高いんだっていう。半年も過ぎないうち。たしかに高いね、とは思いつつも、下津島から赤宇木(あこうぎ)の峠を越えて、飯館村の長泥に入る国道399号線があるんですよ。で、赤宇木を外れた脇道に、手七郎(てしちろう)という名前の集落があるんです。そっちを走ったら、もう30μですよ。場所によっては50μくらいあったようです。で、その友達から借りた線量計、30μになると、音がビビビビビーと鳴るように設定してあったんですよ。運転している最中に、もう鳴りっぱなしっていうか、初めて鳴ったときに、えーっ、何よ、この音って。30μしか計測できない線量計だから、30以上いくらあるかっていうのは分からないんだけれど、30μは確実に超えてて、警報がビーーーーって鳴る。あんときはさすがに背筋がゾクっとしたね。あれはほんと、さすがにね、ビックリした。
あれですよ、例えば、ある方の玄関口で、12とか18μあるわけですよ。その家は山をしょっているわけですよね。で、後ろにまわって測ると、玄関口ではたしかに18かもわかんないけど、後ろにまわって測ると30μだとか50μだとか。1mの高さでですよ。地上で測れば200や300μは今でもいきますね。地上のこの高さで測れば。雨樋の部分で測れば。
通常はね、原発事故前は、0.01、0.02とか0.03μとか、ぐらいのレベルの話でしょ。それから見れば、0.2μで通常時の10倍でしょ。2.0μでさらに10倍でしょ。だから、10×10で100倍でしょ。それが2.0μじゃなくて20μなんだから。1000倍ですよね。
だからそういう状況だから・・・まあね・・・本当に悲惨ですよね。
(注:放射線量を示す数値表記の単位は、全てμsv/h=マイクロシーベルトパーアワーです)

先日(2013年4月1日)、区域再編されて、もう下津島への114号線は検問が設置されてしまったので、普通に通れない。家にも自由に帰れない。
検問には人がいて、通行許可書を示さないと入れない。その通行許可書は、役場に毎回申請しなければいけない。しかもひと月に一回のみ。
普通に通れない、帰れないんですよ。もう完全に。

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私は昭和22年生まれの65歳。いわゆる団塊の世代です。

長男は結婚して埼玉に。勤め先は東京の大崎かな、大崎まで通勤していますよ。50分くらいかかるんですかね。次男は仙台。長女がさきほど言った南相馬市。小高のちょっと上のほう。昔は原町って言ってた、そこにいます。
福島第一原発ができたころは、私は高校生だったかな。いや、作られている最中かな、多分。浪江町はいわゆる立地町ではないので、少なくとも意識にはあんまり上らなかったですね。
県庁には大学卒業後から勤め始めました。
結婚前は、勿論下津島ではなく福島市に住んでいました。福島市ばっかりじゃないけど、福島市に県庁があるから、近い所に。もちろん親父お袋は田舎(下津島)にいましたよ。まだ元気だったから。結婚後、私の家族はしばらくは福島市にいたの。次男が生まれるくらいまでは。ただそうこうしているうちに、親父お袋もだんだん年とってくるし、私は長男だから、親父お袋の面倒をみないといけないしということで、今から25、6年前に田舎に帰ったんです。うちのかみさんと一緒に子ども達も連れて。だけども、私の勤めは県庁だから、一家をあげてうちに帰ったとはいいつつも、私は福島市に下宿、アパート借りて。
やっぱり県庁に勤めていると、予算だ、議会だって、時間が不規則なんですよね。で、いなきゃならないときっていうことのほうが多いんですよ。5時で帰れるっていうもんじゃないから。だから退職するまでは福島市でアパート借りていたんです。
で、退職後は県の社会福祉協議会が福島市にありますけれども、そちらに再就職する形になったんですが、その段階で私は家族のいる田舎(下津島)に引っ込んでそこから通ったんです。県の社会福祉協議会に。というのは、時間がきちっと5時になったら退庁できる、8時半に行けばいいという規則性があるんで。車で走れば1時間もかからないですからね。

私は県のほうに勤めてたからよく知っていますが、原発を誘致すると原発立地交付金が入ってきますよね、電源三法で。それは市町村にも入るけど、同時に県にも入るんですよ。県の収入にもなるんです。ウラン燃料に課税する税金もありますからね、県税もありますから。だから県にとってもけっこう大きな収入なんですよね。県税収入のかなりの部分を占めていたし、そのことによって、たとえば立地町の道路なんていうのは非常に立派になるし、体育館とか公共施設がどんどん立派になっていきますよね。だからある意味で地域振興に繋がっている面もあって、雇用の面でもかなりな人数が雇用されますよね。定期点検のときなんかは3,000~5,000人、トータルすると10,000人くらいが雇用されるわけです、収入になるわけです。だからなんというのか、正面切って反対とはなかなか言いにくい雰囲気というのは当然あるんです。

だからね、ほんと、反対の声はあげにくいんです。だってそうでしょ?みんな電力会社やその関係会社に勤めて給料もらって、地域が潤って町も立派になって、道路も立派になって、公共施設も立派になって。そのために生活が豊かになっているわけでしょ、現実には。そんな中で「原発反対!」って声をあげようとしてもやっぱり隣近所とか、親兄弟だとか、親戚だとかに対する、まあ遠慮って言ったらおかしいけれど、そういうこともあって、声を非常にあげづらい。
原発に関しては、福島第一と第二は出来ちゃいましたけれど、あれは目立って反対運動っていうのは起きなかったんですよね。原発が何たるやってわからないうちにできちゃってんですね。そのうちみんな、雇用だとか、経済的な要因に巻き込まれて、正面切って、反対だって言いにくい状況になって、しまいには、双葉町なんかは、大熊町側に、1、2、3、4、って出来て、双葉町に、5、6、って出来たんですよね。でもまだ建設出来る敷地の余裕が双葉側にはあるんですよ。だから、5号機、6号機できてもなおかつ、余裕がある。双葉町は、まだ立地できる余地があるからここに増設してくれという要望を直前までしていたんだから。事故の直前まで。ようするに、麻薬なんですよね。
効率性とか経済的な潤いだとか、地域振興だとか総合的に考えれば、その点だけを見れば、原発はいいんです。だから正面切って反対運動って起きてないし、それほど地域経済なり、雇用状況というのは、原発に依存する体質に変わりきっちゃってたというか。
ましてやこれまでは安全神話が原子力ムラを中心に形成されてきて、その宣伝しかしないわけだから。事故の心配なんて一切ない、って、そういうのをずっとしてきたでしょ。
そんな中、浪江・小高原発というのを東北電力で新たに計画していたんですよね。福島第一、第二は東京電力ですけど。浪江・小高原発は、これは東北電力。予定地は、請戸漁港の、すぐ北側に小高い土地があるんです。そこが立地予定地だったんです。そこの地権者は何人いたかな、100名前後はいたでしょうね。そこでやっぱり反対する人たちがいて、原発は絶対に立地させないって頑張った人達がいたんです。だけど、どんどんどんどん切り崩されて。最初20か30人いたのが、最終的には2人か3人になっちゃった。その中の1人が、舛倉(マスクラ)さんていう有名な人がいて、頑張ったんですね。そういうことがあって、あそこには原発ができないまま、つい最近(2013年3月)ですけれど、東北電力は立地を諦めましたけれどね、こういう状況ですし。
そういう舛倉(マスクラ)さんを初め、原発に、波江・小高原発に反対している方々が少数ですけれどもいたんですけど、私はね、本当に勇気ある人たちだと思っています、今でも。当時も思いましたけれども、やっぱり我々だって本来はそうすべきだった。ただ、できなかったというのは忸怩たる思いですね。
浪江・小高の原発立地の話が出たころ、実際私は反対運動をしたことはなかったけど、気持ち的にはやっぱり作られてほしくないなという、嫌だな、という感じはありましたね。反対運動はしなかったんですよ。今は反省してますけれど。
本来やっぱり反対運動やっておくべきだった。

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現段階で、賠償される基準には違いがあるの。今、3種類の区域の違いがあるんですけど、「帰還困難区域」と、「居住制限区域」と、「避難指示解除準備区域」と。
避難指示解除準備区域っていうのはだいたい2年間くらいかなと。居住制限区域は4年だっけかな。帰還困難区域は最低でも5年間は帰れない。

財物賠償に関してうちの場合(注:今野さん宅は帰還困難区域に該当)、旅館の方は明治30年前後に出来た建物ですけど、100年も経てばもう価格なんかゼロだと言われました。いやあ、それ、おかしいでしょう?と。どう考えても。
私らは、原発事故がなければここ(下津島)で向こう100年間、平穏に暮らせるんですよ。一銭も出さないで。うちがあるんだから。ところがここに住めなくなればどっかにうちを建てて、住むしかない。で、じゃあそのためにうちを建てるための賠償をしてくださいと言ったら、お宅は100年経ったうちだからゼロです、と。ゼロ円の賠償をもらって向こうに、どっかにうちを建てられるか?って言ったら、建てられないでしょ?
細かく言えば、例えば、平米17,000円だかなんぼだかは出るんですよ。でも、そんなんでは家は建たないですよ。まあ正直、あんな賠償基準ではとてもじゃないけど。ましてや、土地の価格だってそうでしょ?福島市内で1坪買えば10~20万くらいしますからね。郡山市内だと、ちょっといいところだと20~30万するでしょう。普通に考えても10万円以下での坪あたりの単価の宅地は求められないですよね。この辺り(下津島)は評価ではせいぜい2万とか、坪ね。場合によっては1万くらいだから。その賠償をもらって、たとえば100坪の坪数があるとして、坪2万だとしても200万でしょ?200万で郡山市内で土地求めて何坪買えますか?10坪くらいしか買えないですよ。一坪20万くらいするんですから。
だから、常識的な基準で保障すべきだと主張し続けているんだけれど、まあ政府も東電も聞く耳はもたないですね。
こっち(旅館の裏の自宅)は4000万かな、ざっとね、4000万円くらいで建て替えましたけど、13年も経てば半分ですよね、1/3かなあ。1000万くらいの保障しかされないんじゃないかな。おかしいでしょ?常識では考えられないよ。
いや、オレらがね、売りたいって言って、「しょうがないね、じゃあこれは10年も経ったから4000万かけたのかもわかんないけど、1000万ならばオレ買うよ」
って言うならさ、それは分かるんですよ。だけども、こっちは売りたい訳じゃないですからね。
他の賠償の話で、例えば、牧草地、一般的に牧野(ぼくや)って言うんだけど、そこでワラビを作ったり、ゼンマイを採ったり、山菜を採りますよね。それを商品として売るんですよ。そういう組合があるわけ。牧野組合というのが。たとえばその人達が、売り上げが年間150万円くらい毎年あったと。ところが原発で避難して、もちろん山菜は採れないし、採ったにしても売れないですよね。食べられない。ベクレル測ると、5万とか3万とか。だから、本来入るべき収入が、全く入んないわけですよ。毎年平均すれば150万円くらい売り上げあったはずなのに、原発事故で収穫さえもできない、もちろん収入がない、おかしいんじゃないんですか?ということで、「営業上の損害賠償」として請求するわけです、東電に。それは当然賠償してもらわないとおかしな話でしょ。
私らの場合は旅館。他の人だと商店やってた人もいるし、農業やってた人もいますよね。当然そうやって営業やれば収入があがりますよね。あがるべき収入が今あげようがないでしょ。だから、過去3ヶ年の確定申告。その確定申告で、たとえば100万、150万、120万てやっぱり変動がありますから、ざっくばらんに言えば平均で。
ちなみに、今まで請求したのは、原発事故があった2011年の3、4、5、6月分だけを請求した。それはもらった。
で、他に、精神的賠償というのがあって、受けている精神的苦痛に対する目に見えない損害ですよね。たとえば本来ならばお盆とか正月にみんな帰ってきてお墓参り一緒にしたり、お正月をみんなで祝ったり、お盆にはみんなで先祖を供養したり、いつでもお墓に行ったりとか、そういうことができない、隣近所と話もできない、バラバラだからね。
そういうことの精神的な苦痛に対する賠償として一人当たり、月10万円。私らは夫婦で二人だから20万円。毎月ね。

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東北の人は口べただからね。私なんかも含めて。自分の思いの半分も言えないでじっとガマンするというタイプが多いので・・・その分わりを食っているというか、損している部分が大いにあるんでしょうけれども、今回の原発事故だと、本来は暴動が起こったっておかしくないくらいの被害を我々は受けているんだけれども、でもきちんと秩序正しい行動をして本当に我慢して、もうみんなそれなりに、なんというか顔にあんまり出さないでいますけど、本当にみんな苦労しているんですよ。我々なんか恵まれているほうなんですよ、これだけのうち(本宮市の借り上げ住宅)を借りられることができたし。

私たちは賠償金なんてほんとはいらないんですよ、地域を元に戻してもらえばね、ほんとはね。ですけど、まあ、それはかなわない望みだから・・・だからきちんとした賠償が少なくともされるべきだというふうには思いますけどね。まあねぇ、それだけの地域の人の生活が奪われて、これほど徹底的に痛めつけられている状況っていうのはほんと、異常もいいところですよね。
だから精神的損害が10万なんていうのは、ほんとはちゃんちゃらおかしい。まあ誰でも、起こったときになって初めて気がつくんでしょうけれども。何かが起こって初めて分かることってある・・・私らもそうですけどね。

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我々の立場から言わせれば、何不自由ない生活をしていたわけです。決して金銭的に豊かな生活じゃないですよ。田舎ですから、収入は低いです。農業収入だって低いし、出稼ぎして働いたって知れたもんでしょ?
豊かさはお金で計れるものじゃない。そういうものじゃないんですよ。そういうもんじゃなくて、地域の人々が交流を通じてお互いにやりとりして、なおかつ自然の中で生活できるわけですからね。
みんなが顔見知りで、私なんか野菜はほとんど自分で買ったことないんだから。隣近所から大根もらい、白菜もらい、山菜もらい、ワラビもらい、ね。買うのは肉と魚くらいですかね、極端に言えばですよ。もちろんニンニク買ったり人参をたまに買ったりはしますけど、ほとんどは隣近所からもらえるんです。お互いに作っているから。今の時期だと、山のものはどっさり採れますから。秋は秋で、たくさん実りがあるでしょ。そういうふうな生活が、あの地域の生活であり、まあ住民の幸せっていうのかな。みんな和気あいあいと老若男女そろってね。お互いに協力しあって年中行事だとか、地域の伝統芸能だとか、お祭りだとか、部落単位の行事もあるし、津島全体の行事もあるし。敬老会もあるし、運動会もあるし、体育大会もあるし、学芸会もあるし、子ども達の餅つき大会もあるし、色んな行事もある。盛りだくさんなんです。何かあればお互いに助け合ってね。そういうことの、地域の人々の絆、それから伝統とか文化とか民俗とか歴史とか、そういう一切合切が打ち壊されちゃったわけですよね、この原発事故で。それがなんと言っても私にとっては一番悔しいことですよね。

具体的には平成29年3月いっぱいが、帰還困難区域の、いわば期限だね。ただそこから先がどうなるかわからないわけでしょ?
私も含めて、とにかく地域の人達というのは、先の見込みもつかないまま、避難を強いられている、満足な賠償もでていないわけでしょ。とにかく宙ぶらりんな状態。前に行くのもできない、後ろに引き返すのもできない。ようするにふるさとに戻れない、避難した先で新たな生活を始めることもできない。
地域の繋がりこそ、田舎の生活だ。そういう代え難いものが一切壊されたっていう。壊されてしまったものは、戻らない。戻らないね。戻せない。

私の言うことも矛盾はしているんです。私はふるさとに帰りたいんですよ。
で、ふるさとに帰って、前と同じ、その地域の人たちと、地域作りをしながら、年中行事をしながら生活したいのです。それが満ち足りた生活だったわけだから。過不足のない生活だったから。金銭的には貧しいけど。
だけど、それができない。戻れない、ということを誰も言ってくれない、というか言わないですよね。いずれは帰れるんじゃないですか?計画的避難区域は、5年であり、居住制限にしろ何にしろ、年数で、2年とか3年とかしか見ていないですよね。しかも賠償はそれまでしか見ていない。一方では、ろくな賠償も出さない、将来の見込みもたてようもないほど、曖昧な政策しか国は出してない。だから少なくとも、避難民の立場に立った、避難して現に苦しんでいる住民、国民の立場に立った政策をきちんと打ち出してほしいんですよね。チェルノブイリと同じように、帰れないとなれば帰れないで、それはみんな諦めますよ、やむを得ない。だけど、そんなこと誰も言わないし、帰れるという幻想を振りまいているわけでしょ?除染を一生懸命したりして。
本当は帰りたいですよ、私だって。本当は帰りたい。
ですけど、私が望むのは、きちんとした住民が納得できる政策。帰る帰れないも含めてね。やっぱりそこを示すべきだろうというふうに、思いますね。

政治の責任というのは、私は大いに政治家に考えてほしい。なんというか、これだけの大事故が起こったわけでしょ?現に避難している人も県内だと、何人だ?15~16万人?いますよね。津波はまあちょっと話は別だけれども、少なくとも15~16万人が、本来自分のいるべきところに帰れない状態、いつ帰れるのかも分からない状態でいる。起こった原因が原発事故なのだとするならね。そういうことを再び起こさないようにするのが、私は政治だと思うのね。ところが政治というのは、経済的な効率性だとか、まあそれが大きいんでしょうけれど、そのために原因をきちんと確かめもしないままにね、だってあの、国会事故調にしろ民間事故調にしろ、あとなんだっけ、もう一つありますよね、政府事故調か、あと東電の事故調もありますけれども、少なくとも東電は除くにしても、3つの事故調が調査して原因がこうだと。特に国会事故調は、原発は地震が原因でなおかつ、きちんとした対策も取らないで起こるべくして起こった事故だって、人災だったと言っているわけですよ。そのきちんとしたフォローもしないまま、原因をきちんと押さえないまま、それを起こさないようにするにはどうすればいいのかっていうのを対策もしないまま、原発を再稼働させようなんて言っている政治でしょ。収束なんてとてもじゃないですよ。そういうことをきちんと踏まえて、少なくとも二度と再び同じ事故が起きないというね、まあ私は確実に起こると思うんだけど、人間のやることだから。機械には必ず故障が付きものだし。少なくともこれまでにチェルノブイリが起こっているわけだし、スリーマイルが起こっているし、JCOの事故だって起こっているし。細心の注意を払っていたはずです、これまでだって。だけども事故は現実に起こっている。で、なおかつ福島でこれだけ過酷な事故が起こったんですから、再び同じ事故が私は必ず起きると思いますよ。うん。しかもなおかつ対策を取りもしないで再稼働するっていう政治がね、日本のありようが、国のありようが、まあおかしいとは思いますよね。考えられますか?私ら原発避難民から言わせれば、言語道断もいいところですよ。
事故調は事故調できちんとした仕事をやったと思っているんですけど、そのきちんとした仕事に国が答えてないんです、国会も、政府も。
で、その一方で、原発をまた再稼働をするような動きを見せていますよね。あれってなんなんでしょうね。経済優先で済ませられる話じゃないでしょ?国民の命と健康ですよ。
だから、せめてもの、なんというのか、最後のつっかえ棒というのか、他の原発の地元の人たちがね、再稼働はオレたちは反対だって言ってくれればいいんだけど、なんかそうでもないみたい。
そういう意味では私らも、やっぱり反省しなければならないところもありますよね。地域で原発ができて、そういうものに無関心というわけではなかったが、正面切って反対っていう声をあげるまではいかなかったですからね。

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私は、声には出して反対運動をしてこなかったですけれども、今後はするつもりです。ただ声には出さないまでもいずれ原発は止まるだろうと思っています。だってそうでしょう、どこにも核のゴミを持って行きようがないんだから。だれも引き受けないですよ、日本全国探したって。六ヶ所村だってあそこは、仮の場だしね。最終的には青森県からどこかに持っていってくださいって青森県は言っているんだから。そうすると持っていきようがない。そうすると溜まるのは原発の敷地内にどんどん溜まっていくわけですよ。現に使用済み燃料プールなんてもう7割か8割が、平均すると埋まっているんじゃないですか?それが100%埋まっちゃうと、おそらくそれの置き場所がないから、新たな核燃料さえ装填できなくなるから、そのときに、オレ、原発は止まるだろうって思うんだけど。
その前にこんな事故が起きちゃってね、ちょっとあれだなぁ、もっと早く声をあげるべきだったなぁ。

単に経済の問題じゃないっていうことをわかってほしい。みなさん、原発を動かさかなくてはいけないっていうのは、生活を維持するために、経済的な生活を維持するために、雇用の場を確保するために、家庭の収入なり生活の安定の基盤を築くために、原発は必要だって。だけど、いったん事故が起これば、経済なんて、そんなもんじゃないんだってことをわかってほしい。地域の歴史にしろ文化にしろ、細かい年中行事にしろね、すべて、一切合財含めて何もかもが吹き飛ぶんだっていうことなんです。そういう事態を伝えるしかないんだけれど、そこがなかなか伝わらないっていうもどかしさがありますよね。

ようするに地域を失った、生活基盤全てを失ったということは、そこに生活してきた地域の住民がね、長いこと紡いできた歴史なり、民俗なり、慣習なり、年中行事なり、その地域の親和性のある雰囲気だとか、その一切が消されてしまう、そのことに対する哀惜っていうのかな、その残念さっていうのかな。ご承知のとおり、下津島は本当に片田舎で、山間の一集落にしかすぎないでしょ。でも地域の人たちは一生懸命がんばって、私なんかもそうでしたけれど、どうしたら活性化して幸せな地域になれるかっていうことを一生懸命考えていた。
そういう努力さえも、まあようするに帳消しにされてしまった。で、そのことに対する、なんといえばいいのか、ほんと、残念さというか、うん。
それをね、是非分かってほしんですよ。再びこんな思いはね、味わってほしくない、日本全国どこの人にもね。


End

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Report / FUKUSHIMA

Vol_1 今野秀則 

校正済み最終版(2013/7/22)

Edit , Interview , Photographs
by NOJYO(Toshiyuki Takagi)



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