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【短編小説】キスマークの男

 起き抜けにつんと鼻に入ってきた煙草の匂いがガラムの甘い香りだったので、ミキはぼんやりした頭の片隅で、あ、またアミが部屋に入ってきているな、と思った。枕許に置いてある目覚し時計を掴み顔の前に持ってくる。八時四十分。指先でまぶたを擦りつつあくびをし、首だけ起きあがらせて足許を見ると、思った通り、部屋の入口にアミが胡座をかいて座っていた。
「や、おはよう」と彼女は片手を上げて言った。
「おっはー」ミキも答えた。
 薄暗い部屋にカーテンの隙間から指し込む細い光が伸び、アミが吐き出す煙草の煙を揺らしている。ミキは布団から手を伸ばしてカーテンを全開にする。そして「ねえ、二人は?」とアミに尋ねた。
「いないよ。もう滑りに行ってるんじゃない?」
「まさか? 昨日も二時まで飲んでたよ」
「ユージが迎えに来てたもの。六時くらいかな。国際の朝イチのパウダー狙うって言って二人で飛び出していった」
「昨日、降ってたっけ?」
「どうだろうかなあ。このへんじゃほんの少しだけど、山なら膝ぐらいまで積もったんじゃないの?」とアミは煙草を灰皿にもみ消した。「で、どうする?」
「何日滑りに行ってない? 私たち?」
「それほどでもないよ。月曜の午後にちょこっと滑ってきたじゃない」
「今日水曜だっけ?」
「木曜だよ」アミは言い、次の煙草を取り出している。「それなのにあんまり疲れが取れてない気がするのは何故なんだろ」
「飲み疲れ、遊び疲れだよ」
「じゃあ、今日はどうする? 滑りに行く?」
「行かなきゃね。じゃなきゃせっかく北海道まで来ている意味ないもんね」
 二人がそれぞれの彼氏と一緒に北海道にやってきたのは先月、十二月の中旬のことだった。知り合いのつてを頼りに部屋を探し、札幌の郊外に安くて広い物件を見つけ、ダンボール四箱の荷物とともに移り住んだ。最初はスキー場での住み込み勤務、または近くのホテルやペンションで働くことを考えていたが、夏の間に働いて稼いだ資金に余裕があったので仕事はせず、滑ることだけを考えた数ヶ月限定の移住にした。
 ミキはもともと三歳の時にスキーをはじめた。スキー好きの両親に毎冬ごとに滑りに連れて行ってもらっていた。それなりに上手くなったし、ジュニアのレーシングチームにも入っていた。しかし住んでいるのが東京では、地元の子供たちとの差は開くばかりだった。それでも中学三年の時に国体出場まであと一歩のところまで行ったのは、生来の負けん気の強さによるところが大きい。そんなミキがスノーボードと出会ったのは、高校二年の冬だった。同級生の女の子と日帰りで向かった雪山でのこと、スキー場は初めてというその子にスキーを教えるつもりだったのだが「ボードがいいよ。こっちのほうが格好いいじゃない」という言葉にそそのかされ、初めてのスノーボードに挑戦してみた。今まで培ってきた技術はまるで役に立たず、最初の日はその初心者の子と二人、ひたすら転びまくった。以来、一枚の板に両足を固定し、横向きに乗るスノーギアが新しく征服されるべき対象になった。同時にはじめた初心者の子がめきめき上達していくのもミキを刺激した。その初心者の女の子というのがアミで、彼女も雪の上ではビギナーだったが、中学高校とソフトボール部で鍛えられていたから体力には自信があった。二人は競い合うように滑りの腕を上げていった。高校卒業後は二人ともスキー場のリフト係やチケット売り場のアルバイトを冬の間の定職にして過ごしてきた。夏は派遣会社に登録し、約半年、OLの真似事をして冬の資金にした。
「朝ご飯なにか食べた?」とミキは聞く。
「まだだけど、部屋にまだパンが残ってる。うちで食べる?」
「じゃそうする」ミキはやっと布団を跳ね上げた。「着替えてから行くね」
 二人がそれぞれの恋人と共に暮らしているのは札幌郊外、南区の住宅街の外れにある3LDKのアパートだった。都内だったら狭苦しいワンルームしか借りられない家賃だ。広い敷地に三棟並んで建っていて、二人が借りているのはそれぞれ別棟だった。ミキは一人残った部屋でパジャマを脱ぎ、下だけボード用のパンツを履き、ロングコートのダウンを羽織って部屋を出た。北向きの玄関に直射日光はないが、光に溢れている。冬の低い陽射しはあたり一帯に積もった雪に乱反射し、ひさしの裏側にまで明るい太陽光を届けている。北国の冬が暗く陰鬱だなんて大間違いだな、と彼女は思う。サングラスが欲しいほどのまばゆい輝きの中、ミキはとなりの棟の二階、アミと目下のところ彼女の恋人であるマサユキが暮らす部屋に入っていく。中の構造はミキとユージの部屋とまったく一緒だが、散らかり様は比較にならないほど凄まじい。引っ越してきた最初の一週間は毎晩のように友人たちが集まってパーティーだったから、ほどなくしてゴミ溜めと化した。ミキは背もたれが壊れて座布団の役目しか果たさなくなった座椅子に座り、トーストと缶詰のツナの朝食を食べ始めた。
「電話してみた?」ミキはトーストを頬張りながら聞いた。
「圏外だった。多分、奴らまたパウダーを求めて外に出てるんじゃないかな。そっちは?」
「ドコモで駄目なら、Jじゃ無理でしょ」
「だね」
 二人のそれぞれの恋人であるマサユキとユージも高校時代からの友人で、越後湯沢での住み込みスタッフの時に知り合った。最初、アミとマサユキが出会い、あっという間に恋人になった。ミキは言い寄る男は多かったが、どれもピントの外れた男にばかり好かれる運の悪さにうんざりしていた。シーズンが終わった四月、東京でマサユキから北海道の篭りから帰ったばかりのユージを紹介された時も、実のところピンとこなかった。しかしユージの一日と間を空けない電話と一時間と置かないメール攻勢に根負けし、付き合うようになった。その頃には彼の子供じみた茶目っ気にも気を許せたし、そうした彼が時折見せる、しっかりしたものの考え方にも共感できるようになっていた。スキー場にいない時にはだらしなく、悪戯好きの小学生みたいな二人だが、ブーツをビンディングに装着し、雪の上にすっくと立ち上がった瞬間から、いっぱしのライダーになった。本当はハーフパイプやワンメイクの大会出場を念頭に置いた今シーズンの北海道移住も、いつしか二人はコース外の新雪滑走に目覚め、シーズン券を買った真駒内よりも札幌国際やニセコにまでパウダースノーを求めて遠征することのほうが多くなっていた。そんなわけで一月中旬のまさにパウダーシーズンの今、アミとミキの二人は置いてきぼりをくっていた。
「山ちゃん、今日は休みだっけ?」ミキが聞く。
「知らないな。でもしばらくはずっと夜勤だから昼間は空いてるって言ってたような。電話してみようか?」
 山ちゃんとは本名を山崎渉といい、マサユキとユージの後輩だった。二人に良くなつき、舎弟を自称しているほどだ。マサユキたちが北海道行きを決めるとすでに働くことになっていた志賀高原のスキー場でのリフト係をキャンセルし、北海道まで追いかけてきた。とはいえ、住む家まで近所にするほどデリカシーのない男ではなかったから札幌の中心部に部屋を借り、ススキノの居酒屋でアルバイトをしながら近場のスキー場に通っていた。練馬ナンバーの古いカローラワゴンを運転してフェリーで津軽海峡を越えてきた彼は、アミたちがちょっと遠出をしたい時に運転手に借り出されることが多かった。北海道では車がないと話にならないな、ということに気づいたのは引っ越してきた翌日だった。二十万円の安い中古の軽自動車を五万づつ出し合って手に入れたが、それでは四人に一台だった。先にマサユキたちに出かけられると、山崎渉の株が上がる仕組みだった。
「どうもー、山崎です。どうもです、どもども」
 ミキが携帯を鳴らすと、すかさず彼の声が返ってきた。
「ミキだけど、山ちゃん今どこ? 今日休み?」
「今ですか? えーとですね、中山峠を越えてます」
「何? どこ? 峠? どこに行くの?」
「だから中山峠です。今日はルスツで検定なんです。ととと、うわああああ!」
 ミキが思わず携帯を耳から離すほどの大声で山崎渉は叫んだ。
「どうしたのー? 大丈夫?」ミキが呼びかけたが、電話の向こうはしばらく無言だった。
「うわー、びびった」ようやく声が返ってきた。「カーブの途中でブレーキ踏んだら一気にタイヤが滑っちゃって、あーびびった」
「ぶつけた?」
「大丈夫でしたー! 危ないとこでした。センターラインはみ出しちゃって対向車がいたらドカンだったけど、いやー、運がよくていなかったあ」
「ご免ねー、私が運転してるところにかけたから」
「すいません、で、何でしたっけ?」
「ううん、別になんでもないの。また今度ね。検定がんばって」
 将来、真剣にスノーボードで生計を立てることを考えているのは仲間うちでは山崎渉くらいだったから、彼の長期計画を邪魔するわけにはいかない。しかしこれでミキとアミの今日の選択肢は限られたものになった。歩いて五分のバス停からバスに乗ってもう何度も通った真駒内まで行き標高差の小さなゲレンデのパークで遊ぶか、それとも……
「ヒッチしてみようか」とアミが言った。
「近場は飽きたしね」ミキも同意した。「どこに行く?」
「そんなのその時まかせでいいじゃない」
 北海道ではまだなかったが、アミもミキもそれなりにヒッチハイクの経験者だった。自分で車を持たないのに、山奥のスキー場を主な活動場所にしていると自然にそうなる。駅まで戻らなきゃならないのにバスに乗り遅れた、オフピステを冒険していたらリフト乗り場とは遠く離れた山の反対側に降りてしまった時など、突き立てた親指を掲げた。しかしあくまでもマサユキかユージが一緒の時だ。二人だけで道端に立ったことはない。
「まあ」とアミは食後の煙草をふかしながら言った。「なんとかなるんでないの? 駄目だったら、それはそれでいいし」
 結局、二人が着替えて家を出たのは十一時を過ぎていた。全身すでにスノーボードウェアを着込み、ブーツも履き、ミキはヘルメットまで被っている。ゲレンデに着いたらそのままリフトに乗り込める格好だった。ボードもエッジ部分を覆うカバーをかけただけで、ハーフパイプの横を歩いて昇る時のように背中に抱えている。郊外とはいえまったく平坦な札幌の住宅街では奇妙な姿だが、振り返ってじろじろ見る人の姿はない。交通量の多い国道まで歩いてすぐだった。
「なんかドキドキしない? 遠足に行く時みたい」
「うん、そんな感じ。でもさ、変な人が運転する車が停まったらどうする?」
「そしたら東京まで行きたいんですけど、って言っちゃいなよ」
「あーそれ名案」
 走り過ぎていくドライバーから見ても、何のために道端に立っているか分かり易い二人だったから、数台の車が通り過ぎていったあと、妙にがらんとしたワゴン車が停まった。アミが万国共通のサインを掲げてから三十秒も経っていなかった。
「お姉ちゃんたち、どこに行くんね?」
 車のドアには建設会社の名前が書いてある。助手席には書類が詰めこまれて分厚く膨らんだ封筒が無造作に積まれ、崩れかかっている。声をかけてきた男も四十前後、クリーニングから返ってきたばかりのような小奇麗な作業服を着て、眼鏡をかけている。車内には彼の姿しかない。アミは振り返って素早くミキと視線を交わした。これ以上はないくらいの安全牌を引き当てた。
「えーと、あの、どちらに行かれるんですか?」アミは尋ねた。
「蘭越だけどね」
「それって、えーと」アミは言葉に詰まる。「ごめんなさい、私たち北海道に来たばかりで……」
「ニセコの隣だけどね」
 期待以上の成果だった。二人は荷室にボードを積み、並んで後部座席に座った。中年の男は蘭越の会社から朝一番で札幌まで出て来て道庁に申請の手続きをした後、戻るところだった。夏はよく旅行者の若者を乗せるのだが、冬は滅多にいない、ましてや女の子の二人連れも初めてだ、としきりに感心した。そのあと、アミたちが自分たちのことを話していると車は峠に差し掛かった。快晴だった空から雪がぱらつき、太陽は雲に隠れたり現われたりとせわしない。定山渓温泉に来たあたりで男は降り返り「国際には行かなくていいんかい?」と聞いた。ユージたちが札幌国際スキー場にいるらしいことを話していたからだ。
「いいです、遠回りになるし、真っ直ぐ行って下さい」とアミは言った。
「別に急がないからいいんだけどな」
「ニセコで滑ってきたほうが自慢になるし」ミキが言う。「国際って意外に小さいですよね。見返すにはニセコでないと」
「そんなもんかね」
 中山峠を越えている間は中年男の娘の話しでずっと盛り上がっていた。現在、高校一年の彼女はぜひ東京の大学に行きたい、と話しているのだが、俺はあまり賛成できない、それでよく口論になるんだ、そんな内容だった。
「でもねでもね、おじさん」とアミは身を乗り出して言う。「彼女が本当にやりたい事があって、それで東京に行きたいって言うんなら、行かせてあげなきゃ」
「それはわかっているんだあ」と男は言う。「しかしな、本人もどうしても何かやりたいことがあるかと思えば、ないっていうんだ。それじゃあしょうがなかんべ」
「うーん、それじゃあねえ」
 車は倶知安の街中を過ぎてたあたりで5号線を右に道を折れ、スキー場に向かう。ニセコひらふのタウンの真ん中で降ろしてもらった。走り出す車に二人は「おじさん、どうもありがとうねー」と手を振った。
「ねえ」とスキー場に向かう坂道を昇りながらアミは言う。「私たちのおかげであのおじさんの女の子は家を出れると思う?」
「どうかなあ、私たちみたいになったらまずいと思って絶対に許さないかもよ」
「んなわけないじゃない」
 平日のニセコひらふスキー場は意外なことにかなりの混み具合だった。同じ黄色のウェアに身を包んだ集団が初心者コースに列をなしている。雪など降らない、南の地方からの修学旅行生たちは、ゲレンデだけでなくゴンドラ乗り場にも長い列を作っている。彼らだけではない。ウェアはばらばらだが、同じ中学校名の入ったゼッケンを付けた集団もいた。近場の学校のスキー遠足なのだろう。アミとミキはそんな中高生の黄色い声が飛び交うゴンドラ乗り場の列に並び、スキー場の上部を目指した。
 ゴンドラとリフトを乗り継いだ上部エリアにも揃いのウェアは多かった。まるで週末の越後湯沢あたりを思わせる混雑ぶりでミキとアミはフリーランでスピードに乗って流すのをそうそうに諦め、場内の外れたエリアにあるボードパークを目指した。さすがにそこには修学旅行生たちの姿はなく、十人ほどのボーダーが入口の斜面に座って順番待ちをしていた。一ヶ月近く通いつめた真駒内ではパークにいるボーダーとはほとんど顔見知りになったが、ここではよそ者、大きな顔は出来ない。上から眺めただけでここのパークは整備が不足しているな、というのがわかった。小さなローカルゲレンデでしかない真駒内ではそれぐらいしか売りがなく、また地元の常連たちによってしっかり守られていたから、アミやミキが多少乱雑な滑りをしてもびくともしない。が、どうもここは違うようだ。ローカル達よりツアー客が圧倒的に多いせいだろう。ウォールは崩れかけていたし、掘られて滑りにくくなった溝も放置されている。三回ほど滑り通しただけで、もうこのパークのコツは把握してしまった。
「ねえ、少しお腹空いてない?」パークの入口で待機しながらミキは尋ねた。
「少しね。あと一本滑ったら休憩しようか」
「そうしよか」
 休憩に入ったレストハウスの中でも、顔見知りはいないから隅っこの席に腰掛けた。缶コーヒーで身体と指先を温める。
「ねえ、ところでさ」とミキは言った。「帰りはどうする?」
「またヒッチでいいんじゃん」
「うまくつかまると思う? 札幌まで帰る車だよ。休みの日ならともかく……」
「心配性だね」
「駅までバスで行って、電車でも帰れるからどっちでもいいんだけど」
「そんなの遠回りじゃない。絶対にすぐ見つかるってば」
「だといいけどね」
 滑りはじめが遅かったから、レストハウスでぼやぼやしていたら時間はすぐに過ぎていった。空には朝とは正反対の厚くて黒い雲が覆うようになり、ゲレンデにはナイターの照明がぽつりぽつりと灯りはじめていた。いつのまにか修学旅行生たちの姿も消え、人の数も減ったゲレンデに二人は戻り、滑り出す。ゲレンデを高速で飛ばす。気温が下がって雪は締まり、ターンするごとに撒き上がる粉雪は自分の顔にかかるほど軽い。上のエリアのリフトの営業を終了します、というアナウンスが流れる頃には、アミもミキも半日券分の金額は充分に取り戻せた、と思えるくらいに堪能していた。フードのないリフトに繰り返し乗ったせいで寒さがかなり身体にこたえた。芯まで凍え「上がろうか」という一言を合図に二人はゲレンデを抜け、下の駐車場まで一気に滑り降りた。
「かなりみっちり滑ったね」ミキはヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭いつつ言った。
「ていうか、最近、少し適当に滑りすぎてたな、そう思う」アミは答える。「今日はなかなかいい半日だった。やっぱりニセコにまで来た甲斐あったよね」
「でもね、来たのはいいんだけど、これから帰らなくちゃだし」
「すぐに見つかるってば。私が探すよ」
 札幌まで向かう人はニセコひらふの駐車場にはもういなかった。帰り支度をしている車に近づき「すいません、もしよかったら……」と手当たりしだい声をかけていったが、倶知安、小樽、室蘭といった方向がほとんどで南区まで帰る車はいることにはいたが、四人乗りのセダンに四人いっぱいだったりと、うまくいかない。
「札幌から来てる人はもう帰っちゃったんじゃない?」ミキは言った。「私たち、ぼやぼやしすぎてたんだよ」
「んなこと今さら言っても」アミは言う。「そうだ、山ちゃんは? 今日はルスツで検定って言ってなかった?」
 ルスツスキー場は札幌からみれば同じ中山峠の向こう側だ。ここニセコからだと羊蹄山をあいだに挟んでいてすぐ近くというには遠い。「掛けてみるね」とミキは彼の携帯を鳴らしたが、現在、電波の届かない所に……のアナウンスが聞こえてきただけだった。ミキはもうっと呟く。「ユージたち呼ぼうか? 国際からここまで迎えに来さそうよ」
「何かそれも悔しいな。あ、ちょっと、あの人見てよ」
 二人の十数メートル先に、ミニバンのリアハッチを開けて、ボードを積み込もうとしている一人の男がいた。他に連れの姿はない。
「あの人、いいんじゃない?」
「うん、分かってる。でもちょっとね……」とミキは言った。今さっきアミの背後を歩き過ぎていった時も、気づいてはいたがあえて声をかけなかったのだ。
「ちょっとって何? 何かまずい?」
「大したことじゃないんだけど」ミキは言う。「全身キスマークづくめだった。ウェアからブーツから板まで全部」
「だから何よ? 別にお友達になろうってわけじゃないし」
「それは分かってるんだけど」
 二年前、今のユージと付き合う前、バイト中の越後湯沢でしつこく言い寄る男がいた。誰かから携帯の番号を聞き出したのか、執拗にデートに誘われた。断ると待ち伏せされたりした。何度となく強く拒否したのだが、その気がないことが伝わらないようだった。最後には「君のほうがそんなそぶりを見せたんだろう」と言い出す始末だった。東京に戻り、携帯の番号を変えてやっと逃げとおおせた。その男が全身キスマークだった思い出など、今、ニセコひらふスキー場の駐車場で寒さに震えながら回想することではない。ましてや何の関係もない話だ。ミキはそう思うことにした。今は帰りの車を見つけ出すほうが先決だ。
 夕方になってから雪の降りが激しくなっていた。跳ね上げたリアハッチを屋根代わりにし、その下でグローブをはめた手でビンディングの隙間の雪をこそげ落としている男に二人は近づいていく。
「すいません、ちょっといいですか」アミが話しかけた。
「はあ?」とキスマークの男は顔を上げて答えた。まだ十代の後半か、二十歳になったばかりのような若者だった。小柄だった。アミたちとそう変わらない背丈に見えた。
「どこまで帰るんですか? 私たち、仲間とはぐれちゃって……」
「札幌だけど」とキスマークの若者は答えた。「豊平区まで」
「あ、すごい偶然、私たちもそのへんなんですよ」アミは小さく叫ぶように言った。「よかったら乗せて貰ってもいいですか? 私たち二人」
 若者はすぐには答えなかった。思案するように視線を宙に泳がせている。「あ、じゃあ、いいけど」
「ありがとうございます!」二人は同時に叫んだ。
 無口な若者だった。走り出してしばらくは互いに何も声を出さずに黙って座っていた。アミたちも山崎渉に運転手を押し付けてる時みたいに「浜崎あゆみの曲をかけてよ」と勝手な注文をするわけにもいかず、大人しくしていた。キスマークの若者は、突然に押しかけたアミたちに興味があるような素振りは何一つなく、大粒の雪が激しく降っているフロントガラスの向こうを注視している。そんな雰囲気に最初に耐えられなくなったのはアミだった。
「ニセコにはよく来るんですか?」
「週に一度くらいかな」
「どういう所を滑るの? パークとかは?」
「ほとんどフリーランかな。パークはあまり……」
「そうなんだ」アミは言った。もう手詰まりになったのか、横に座るミキを見た。
「お幾つですか?」ミキが聞く。
「二十二だけど」
「じゃ、私たちと一緒だ」
「そうなんだ」とキスマークの若者は言った。「君たち、すごく上手いよね」
「え?」二人は言った。
「パークでバシバシ飛んでたよね。滑りながら何度か見たから」
「見られてたんだ。少し照れるな」
「すげー上手いから多分篭りの女の子かと思ってたんだけど、違うんだ」
「今年は違うけど。去年まではずっと篭りだったし」
「そうなんだ、やっぱり」
 そしてまた会話は尻すぼみに途切れた。ミキは何かもっと、乗せてもらった礼は必要だと思えたので、彼を気分よくさせてあげたかった。かといって見てもいない彼の滑りを誉めることは出来ないし、全身にまとっているブランドには触れたくもなかった。仕方なく「この車っていい車ですよね。荷物もたくさん積めるし」と言ってみたが、
「いや、あまり」と醒めた返事しか返ってこない。「燃費も悪いしね。もともと無理やり買わされたようなもんだし」
「無理やり?」
「中古車屋に勤めてる先輩に強引に。断れなくて」
「そうなんだ」
 そしてまたしばらくの沈黙。ミニバンは気詰まりの三人を乗せたまま、快調に田舎道を飛ばしていく。ニセコから離れると雪は小止みになった。土地勘のないアミとミキにはどのあたりだか分からない。峠を少し昇り始めたところで、左側にセイコーマートが見えてきた。
「コンビニ寄りたいんだけど、いいかな」若者は言った。
「どうぞ」二人は言った。「私たちも買い物する」
 ミニバンを降りた三人は店内に入ると、別々に歩き出した。ミキは缶コーヒーを手に、菓子パンを物色しようと棚の前に立ち止まる。アミが顔を寄せてきた。
「なんかさ、退屈な奴じゃない?」
「別に友達になるわけじゃないからいいんでしょ」
「なりたいと言われても困るよ」アミは眉間に皺を寄せる。「ねえ、携帯の番号を聞かれたりしても教えないでおこうよ。じゃなきゃ、でたらめ教えるか」
「オッケー」
 買い物を済ませて見まわすと、キスマークの若者の姿は消えていた。棚の間を眺め渡してみたが、見当たらない。外に出ても、車は停めたままあったが、運転席は無人だった。
「トイレかも」
 アミは店内に戻る。ミキは車に近づいてみた。道路を走り過ぎる車が途切れてあたりが静まると、さっきの男の声がした。ミニバンのそばまで行って中を覗き込んだが誰もいない。「本当に偶然なんですよ、たまたまっていうか」明かにキスマークの若者の声だが、口調は全然違う。「向こうから寄ってきて、俺は何もしてないっすよ、いや、本当にマジで」ミキは声のしてくる方向が分かった。コンビニの建物の横、ミキが今立っている位置からは死角になっているあたりからだ。明かに誰かと携帯で話している。「何だか、軽そうなねーちゃん二人ですよ」ミキはそっとコンビニの横に歩み寄っていった。「いや、それはどうかわかんねえけど……」これは盗み聴きなんだろうか。しかし誰かの家に忍び込んでいるわけでも、盗聴器を仕掛けたわけでもない。「それはどうかわかんねえすけど、はい」心臓の鼓動が高まるのが、どうしてなのか自分でも分からない。「じゃあ、やってみますけど、上手くいくかどうかは……」曲がり角まできたミキの耳は、キスマークの若者の携帯の話し相手の声まで、「つべこべ言わずに言うこと聞けってんだよ、コノヤロー」というしゃがれた声まで聞き取った。
「分かりました、分かりましたよ、はい」
 キスマークの若者が電話を終えたことを知ってミキは気が動転した。なぜ自分が慌てているのか、その理由も分からなくて余計に狼狽した。とにかく、今ここに突っ立っているのをキスマークの若者に知られたくない。コンビニの中に戻ろうと走り出したが、滑って転びかけた。ちょうどドアから出てきたアミと鉢合わせになった。
「なんだ、彼いるじゃない」とアミは言った。
 ミキが振り返ると、キスマークの若者はもうミニバンの横に立っていた。「用済んだ? じゃ行くよ」と朗らかな声で言った。
 ミキは何も言うことが出来ず、黙って二人と共にミニバンに乗り込むしかなかった。いま耳にした内容を何とアミに説明したらいいのか。車は中山峠をぐんぐん登って行く。エンジンの音がぐおーっと唸っている。ミキは気が気でなく、隣に座るアミにこっそり耳打ちしようかとも思うが、前で運転している男に怪しまれたくもなかった。ミキが悩んでいる間もミニバンは峠の頂上を目指して標高を稼いでいく。アミは窓ガラスに顔を押し付け、眠そうな顔だ。何をどう伝えればいいのだろう。何か変な事を企んでるかも、でも、どこにそんな確証があるのだろう? 分かるのはただ一つ、もしかしたらヤバイことになるかもしれない、それだけだ。
 ミニバンはようやく峠の頂上を越え、一息ついたかのようにエンジンの唸りを抑えて下り道に向かっていく。
「ねえ、君たちの家はどのあたりなわけ?」
 いきなりキスマークの若者が尋ねてきた。
「近くまで送ってくれるの?」アミが言う。
「いや、そうじゃなくて」と若者は言う。「俺の知り合いの人の家がもう少し行ったところにあってさ、すげー上手い女の子と一緒だって話したら、是非知り合いになりたいって。会いたいんだってさ、つまり」
「え? その人って男の人?」
「だから女の人だよ。あー、この車を買わされた先輩の彼女の人でさ、その人もかなり上手いんだ。でも女の子で上手い子ってあんまりいないから大変らしいいだよね」
「大変て何が?」
「だから、こう、話しが合う人がいなくて……」
「ごめんなさい、もう時間も遅いし」ミキがすかさず言った。「家で私たちの彼も待ってるんだ、悪いけど。別に送ってくれなくてもいいから、もう少し先でこのまま下ろしてくれればいいから」
「いや、でも、ぜひ君たちもさ」
「すいません、お願いします」
 ミキの口調が強まったのを、アミは意外そうに見ていた。
「あー、ごめんもう連れて行くって」
「私たち、別に行くなんて言ってないでしょ」とミキはさらに語気を強めた。「ねえ、いつあなたの先輩の家に行くなんて言ったの?」
「いや先輩の彼女だよ。すごくいい人なんだ。俺も世話になってて」
「だから関係ないじゃないっ!」
「ねえ」とアミが言った。「どうしたの?」
 ミキの腕を掴んで「そんなに興奮しなくても」とアミは言い、それからキスマークの若者へ身を乗り出すようにして「ねえ、今日のところは悪いけど、途中でいいから降ろしてよ。また次、国際か真駒内かどこかでまた……」
 とアミが話している最中、ミニバンの速度は遅くなっていく。左のウインカーがチカチカ鳴る。ミニバンは国道から外れて左折した。
「ねえ、ちょっと!」ミキは声を張り上げた。
「うるさいって言うかさ、君さ」キスマークの若者はぶつぶつ言った。「俺の車の中なんだからさ、やかましいっていうか……」
 ミニバンは別の峠を登り始めたかのようにきつい坂道を駆け上がっていく。中山峠はほとんど終わりかけていたが、まだ札幌の街中ではない。人家はない。真っ暗な道だ。
「降ろして、ねえ、お願いだから」ミキは叫ぶように言った。アミのウェアの袖をぎゅっと掴んだ。「ぜんぶ嘘、こいつの言ってることみんな嘘だよ。さっきコンビニで話しているの聞いたんだから。わけのわかんない先輩のところに連れていこうとしてるんでしょ。ふざけないでよっ!」
「何それ? どういうこと?」
「何か勘違いしてると思うんだけど」
「降ろして、今すぐ降ろしてっ!」ミキは携帯を取り出した。ユージの番号をアドレスから呼び出す。左上のボタンを素早く押す。しかしプツンと切れた。表示を見た。圏外だった。
「このあたり、全然繋がらないからさ」
「ねえ、あんた、一体どういうつもり?」アミも切れかかって言った。「ちょっと、もういいから、ここで停めて、ちょっと」
 腕を伸ばし、キスマークの若者の肩を掴んだ。
 若者はアミの手を払いのけ、振り向きざまに「おい、触るなよ」と小さく叫んだ。凄みを効かせている、というより自分の口から出た言葉に怯えているのか言葉尻が震えていた。「運転してるんだからな、おいっ。変なとこ触ったりするとガードレールを突き破って谷底にまっ逆さまだろ」
「あんた頭おかしいんじゃないの? これって犯罪だよ。りっぱな誘拐」
「別に無理やりお前たちを乗せたわけじゃないだろ」
「だからってどこにでも連れていっていいわけないでしょっ!」
「うるさいよ、お前ら」とキスマークの若者は言う。「とにかくついてくればいいんだよ。だいいち、もう着いたからな」
 ミニバンは道を外れ、車一台分の狭い私道に進入し古びたフェンスの横を過ぎる。さらに進むと広場のようになっていて、奥に一軒の家が建っていた。どんな家かは伺い知れない。光の漏れる窓が二つ見えるだけだ。ミニバンのヘッドライトは、家の前に停まった三台の車の姿を浮かび上がらせ、コンクリートの門を過ぎたところで停まった。
「ちょっと待ってろよ、ここで」キスマークの若者は言い、エンジンをかけたまま車を降りた。
「もういいよ」と叫んだのはアミだった。「いいよ、ここでやっちまおうよ」
 二人の間だけで通じるセリフ、この一言を合図に二人は完璧なタッグチームになる。連携の良さを世界に誇る最高のパートナーだ。アミが身を乗り出して座席を乗り越え、男の後を追って運転席から外に飛び出そうとしているのを見て、ミキも自分が何をするべきか分かった。素早くヘルメットを被り、スライドドアを力を込めて静かに半分ほどこじ開け、車外に転がり出ると走り出した。キスマークの若者は背後の動きには何も気づいていなかった。アミは雪に足を滑らせて転びかけていたから、先に追いついたのはミキだった。彼女は小柄な若者に飛びかかり、首の後ろに垂れ下がっていたフードを掴んで一気に引っ張った。
「うがっ……」
 滑りやすい雪の上だから簡単に引きずり倒せた。ミキも反動で弾き飛ばされたが、尻餅をついただけ、すぐに起き上がった。
「ちょっと、お前ら、一体何を……」
 ミキは振り回す武器を求めて視線を飛ばしたが暗すぎる。何も見つからない。もう次は頭をぶつけるしかない。そのためのヘルメットだ。
「どういうつもりなんだかな、本当に……」
 キスマークの若者は戸惑いを苦笑でごまかすようにぶつぶつ言っているだけだったが、いつまでも倒れていてくれるわけではなかった。膝をつき、立ち上がろうとゆっくり身体を起こした。が、そこに背後からアミが突進した。
「りゃああああ」
 レスリング選手のような低いタックルが立ち上がりかけていた男の腰に決まり、キスマークの若者は吹っ飛ばされて頭から転がった。雪を蹴散らしつつ、坂になっていた庭を二転三転し、体勢を立て直す暇さえなかった。ミキが彼の姿を最後に見たのは、片足で踏ん張ろうとして腕をぐるぐる回している所だったが、次の瞬間、ふいに男の姿は見えなくなった。「ああぁぁぁ」という悲鳴とともに木の枝が折れるようなポキポキという音が耳に届き、あたりは静まり返った。
「どうした?」アミが言った。
「この先、崖だよ」ミキが言った。「落っこちたんだよ。殺しちゃった?」
 二人は足許に注意しながらキスマークの若者が姿を消したあたりに近寄る。いきなり地面がなくなっている。下を覗き込むが、真っ暗な穴の底のように何も見えない。星明りがかろうじて雪の白さを照らしているだけ、落ちていった若者の姿はどこにもない。
「何かやばくない?」ミキは言う。
 真っ暗な崖の下から物音がした。木の枝が擦れる音、雪の塊が崩れるどどどという気配。そして「ちっくしょう」という悪態。「痛ってえ、おい、このヤロー!」
 キスマークの若者は威勢良く叫んだ。しかし彼の姿は見えない。光は届かないし、強力なライトで照らし出したところで、半分は雪に埋もれているのだろう。
「ああ、生きてたじゃん」
「とっととずらかろうよ。まったく、自業自得よね」
 この崖をキスマークの若者が今すぐ這い上がってくるとは到底思えなかったが、いつまでもこんなところに長居したくない。だがここからどうやって逃げる? 車を奪って逃走? それしかないから、小走りでミニバンに駆けよった。アミが運転席にミキが隣に飛び乗った。しかし二人には大きな問題が残されていた。二人とも免許をとって四年、ずっとペーパードライバーとして過ごしてきたいうことだ。
「何これ、駄目だよ」アミは両手を上げて叫んだ。「レバーがないもん、無理だよ」
「ギアはそれだよ、多分、ハンドルの左」ミキが言った。「ワイパーのレバーみたいな奴」
 アミはレバーを掴みつつペダルを踏み込んだ。サイドブレーキが解除され、ミニバンは斜めになりつつずり下がった。「うわああー」悲鳴と共に四、五メートル後退し、コンクリートの柱にリアハッチが激突してようやく停まった。
「動かせないよ、無理無理」
「いいよ、大丈夫、車なんかなくても」ミキは言った。「下まで滑っていこう」
「あんた本気?」
 ミニバンはちょうど門を塞ぐ形で停まっているから追っ手の車も阻止できる。ミキは念を押すため、車のキーを引き抜いてキスマークの若者が落ちているあたりの崖下に、力いっぱい投げ捨てた。二人は荷室から自分たちのボードを引きずり出し、たっぷり雪の積もっている私道に並べた。崖下からはまだキスマークの若者が怒鳴っている声がするが、発情期の猫のような虚しいうめき声にしか聞こえない。バートンのステップインを使うアミの用意は素早かった。「先に行くね」と言い残し、暗い道路に対してボードの向きを縦にすると、すっと消えていった。
 次にビンディングを買い換える時は絶対にステップインにしなきゃだな、と思いつつミキも座り込んでカチカチとビンディングのラチェットを装着していく。そして立ち上がった瞬間、背後の家のフードの引き戸がガラガラと音を立てて開いた。誰かが出てきた。ざっざと雪を踏みしめる足音。
「おい、どうなってんだ?」野太い男の声。「いったいどうしたってんだよ」
 何年か前のミキが何度か聞いたような低い調子の声。あたりを窺い、威圧する主張が込められた声。両親とうまくいかなくなっていた高校生の頃、友達の家を泊まり歩いて何日も帰らなかった夏休み、ファストフードの店の中か、店先にたむろして意味もない時間を過ごしていた頃に何度か耳にした声だ。どこだった? 池袋の地下道か、サンシャインに向かう目抜き通りか、あるいは西口の広場だったかもしれない。もうあそこには二度と戻らないと決めたのだった。ミキはふいに湧き上がった思いを振り払うように滑り出す。そうだ、早くここから立ち去らなくちゃ。
 せまい私道はいきなり傾斜がきつく、ミキのスノーボードは一気にスピードに乗った。公道に接続すると勾配は緩まったが、硬く圧雪されているから速度は落ちない。真っ暗だった。ほとんど何も見えなかった。かろうじて分かるのは、左は山肌が露出した壁になっているのと、右にはガードレールがあるな、ということだけ。ガードレールの向こうは本当に谷になっているのだろう。先に行ったアミの姿はまったく見えない。ゴーグルをするとサングラスでなおさら何も見えなくなるから裸眼で滑る。涙がぼろぼろこぼれた。
 耳元で風が唸り、ソールは数センチ下に隠れたアスファルトの硬さを感じて振動しっぱなしだ。何度も通った道なら勘も働くが、さっき一度ミニバンの座席から見ただけの道だ。途中、二つか三つのカーブがあったような気がするが、覚えていない。スピードは余裕でコントロールできる範囲にとどめておきたいが、この緩い斜度では一度でもエッジを立ててしまったら、再びスピードに乗せるまで時間がかかるのは目に見えている。追われているかと思うと、無謀とは分かっていつつもエッジは立てられない。スピードは殺せない。
 だから目の前が真っ暗だな、と思った時は、急な右カーブに突っ込もうとしていた。ミキはとっさにフロントに体重をかけた。が明かにスピードが出すぎていた。ミキはカーブの外側に膨らみ、山側の壁に向かって突っ込んでいった。悲鳴も出ない一瞬のことだった。ミキは猛スピードのまま、弾かれ、跳んだ。
 道路と壁の間にガードレールがなかったのが幸いした。猛スピードの女子スノーボーダーは斜面を駆け上がり、立ちはだかる壁をボーダークロスのコースに造られたバンクのように疾走し、カーブを曲がりきったところで道路の上にストンと戻った。
「いやあ、もう、勘弁してえー」
 奇跡的に身体が反応して無傷で済んだが、自分でも何があったのか良く理解できていない。一息つく暇もなく次は左カーブが迫っていた。白いガードレールが曲がっていたので、今度は事前に察知できた。スピードを落としてカーブを抜けると、道の先に走り過ぎるいくつものヘッドライトが見えた。どうやら終点だ。アミが手を振りつつ飛び跳ねていた。
 ミキは道路の真ん中に雪を蹴散らして停まり、尻餅をつくとそのままへたり込んだ。
「大丈夫だった? 転ばなかった?」アミが駆け寄ってくる。
「何とかねー、少しやばかったけど」
 二人とも冒険のような大滑降をした直後で息も弾んだままだったが、今ここに追っ手の車が現われてもおかしくない状況なのは良く分かっていた。
「またヒッチしかないってわけ?」
「それしかないよ。変な奴らじゃないことを祈るしか」
 札幌に向かう車の列に手を振った。二人揃って、深刻な表情で大きく腕を交差させた。ヒッチハイクなんかじゃない、緊急事態だと思ってもらいたい。まったくその通りだけど。
 二人の祈りが通じたのか、車はすぐに停まった。高級そうなセダンだった。アミたちが追いすがるように駆け寄ると、助手席の窓ガラスがするすると降りて白髪頭の品の良さそうな老婦人が顔を出し「どうかしたの? あなたたち?」と言った。
「あの、あの、すみません、よかったら札幌まで」
「あら、ここも札幌よ。何か事故でも?」
「そうじゃないんですけど、とにかく二人……」
 反対車線の流れが途切れていないから、一台が停まっただけで後続にすぐに渋滞がおきた。老婦人の車の後ろに四、五台停止した。
「ミキさんじゃないいですか! ミキさーん!」
 どこかで聞いた声が響いて振り向くと、二台後ろに停まった車からドライバーが半身乗りだして叫んでいた。「何やってるんですかー、こんなところで!」
 山崎渉の声だった。
「ああ、山ちゃーん!」ミキは愛しい人の名前を呼ぶように叫んだ。
 老婦人には「すいません、何でもないです」と言って行ってもらうと、二人は山崎渉の古いカローラワゴンに走り寄った。渋滞した車からはクラクションが鳴らされていた。二人はとにかく大急ぎで、ボードを身体の前に抱えたまま、ミキは助手席に、アミは後ろに飛び乗った。
 走り出したカローラワゴンの中でも、二人はまだはあはあと息も絶え絶えで「何やってたんですか? 一体あんな所で」という山崎渉の質問にもすぐには答えられなかった。ミキは後ろの座席のアミと視線を交わした。そしてゆっくりと、言葉を選ぶように喋り出した。
「今日はね、ニセコまで行って滑ってきたのよ。ほら、あさ山ちゃんに電話したじゃない。あのあと二人で出かけて……」
「二人でってアシはどうしたんですか?」
「うん、あの、一度駅まで行ってバスでね」
「バス? じゃあ時間かかったでしょう?」
「うん、あーあの、そうね、二時間ぐらい?」
「バスだととろとろ走るから遅いですよね。向こうで滑る時間なんてそんなになかったでしょう?」
「そうね、でも四時間はあったかな」
「帰りはどうしたんですか?」
 山崎渉はさらに聞く。まったく他意はなく、会話の流れでそう聞いているのだ、と分かっていつつも、今日は苛立たせる。
「ニセコで仲良くなった女の子がいたのよ」後ろの座席からアミが言った。「それで途中まで乗せてくれるっていうから乗っけて貰って来たの。でも、家まで送るって言ってくれたんだけど、すごい遠回りになるから悪いから降ろしてもらったの、あのあたりで。歩いてもすぐかな、と思ったんだけど、やっぱり凄い遠いってことに気付いて、でも歩いてたら、変なおばさんがどうしたのって聞いてきて良かったら乗っていくって言ってくれたんだけど、そしたら、そこにあなたが現われたのよ、山ちゃん、あなたがっ!」
「凄く慌ててなかったですか?」
「寒くて寒くて、死ぬかと思ったのよっ!」
「はあ、なんか」と山崎渉は言う。「大変だったみたいですね」
 完全に納得したような素振りではなかったが、アミの強い口調に気圧されて山崎渉はそれ以上の詮索は止めた。
「そういえば、山ちゃん、検定どうだったの?」ミキが聞いた。
「落ちましたよ」
「またかよー」とアミ。
「途中まではかなりうまく行ってたと思うんですよね、でも最後の総合滑走で二回ぐらいバランスを崩したところがあって。それくらいなら合格かなーって思ってたんだけど、結局だめで。点数聞いたら全然合格ラインに届いてなくて」と山崎渉ははあーっと深いため息を洩らした。「なんかねー、凄いがっくしですよ。先生にも二級に五回も続けて落ちる人は珍しいよなんて言われちゃうし……」
「ドンマイドンマイ、次があるよ」ミキは言った。「気長に考えようよ、今シーズンのうちに受かればいいや、みたいにさ」
「てゆうかさ、ねえ、山ちゃん」とアミが言った。「この音楽何よ?」
 今までは気が動転していたから気付かなかった。カローラワゴンの中に流れているのは、アミもミキも嫌いな女性歌手の歌声だった。何年か前までは冬になると必ずTVから流れて来た例の曲。耳障りな高音がミキもアミも聞くに耐えられなくて、CMが流れるたびにチャンネルを替えていたほどなのだ。
「ねえ、悪いけどさ、あゆの曲かけてくんない?」とアミは運転席のヘッドレストをバンバンと叩いて言った。
「すいません、今日持ってきてないです」
「どうして?」アミは言った。「こないだもMDに録るって言って私のCD持っていったでしょ。あれはどうしたのよ?」
「MDに落としましたよ。でも今日は持ってきてないです。もともと今日はお二人を乗せるつもりなんて全然なかったから、家に置いてあります。今日は一人で滑りに行くつもりだったから。あのー、俺、一人で滑りに行く時の、行き帰りの車の中は広瀬香美って決めてるんです」
「んまっ」ミキは思わず声を洩らした。「山ちゃんファンだったんだ」
「秘密にしてるつもりなんて全然なくて、でもお二人が嫌いなのは知ってたから、言わないでいたっていうか……」
「ねえねえ」とミキは後ろの座席のアミと目を合わせて言った。「山ちゃんてこんな人だったんだ。ゲンメツだよねー、一体どうしちゃおうか?」
「決まってるじゃない」とアミは答えた。「崖の下に突き落としてあげなくちゃね」

                        (了)

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