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【エッセイ】パソコンの中の巻物

 私は以前、とある巨大な通信会社でインターネットサーバーの故障対応というネットワーク系の仕事に従事していたことがある。ちなみに通信系の知識はゼロだった。
 
 しかしそれがまったく非常識かといえばそうでもなく、やることといえば、顧客から掛かってきた「サーバーが故障しました」という電話を受けて、修理業者に「故障したので修理に向かってください」と電話をかけるだけの仕事だったのだ。ただ24時間対応だったので、深夜にもずっと電話が掛かってくるのを待つという苦行にも似た緊張を強いらされた。
 
 しかしさすがにそれもまずいだろうということで、自分なりに勉強してみた。当時、というか今もそれほど変わらないけど、私のIT系の知識とは「そこそこパソコンを使える」という程度であった。エクセルの関数とかほぼ解らないし、コマンドでパソコンを操ったり、プログラミングで自分でソフトを作るとか、夢のまた夢なのである。しかし一般的な事務仕事なら、それで充分のはずだ。例えば、トラックの運転手を例に考えてみよう。走行中にトラックが壊れたからといって、彼が自分で全部直さなければいけないことはない。専門業者に修理を丸投げでも彼の職務は充分に果たせるはずである。それでも「五百キロ走ったけど動かなくなったぞ、なぜだ?」では困る。週百キロごとにガソリンスタンドに寄って給油をしなくちゃトラックは走らない、くらいの常識は必要だ。私が持っていたのはその程度の知識だった。

 当時のその職場で私たちが保守を受け持っている範囲内には、もともと監視体制が整えられていなかった。違う部署は遠隔監視ができる体制になっていて「通信が途絶えた? じゃあAまでpingを打ってみよう。返ってきた。じゃあBは? 返ってこない。なら壊れているのはBだな」なんて故障の切り分けをしていたが、私たちの部署にはそのようなシステムは構築されていなかった。なので「ping? なにそれ、ペンギン?」という程度の私でも、ネットワークサーバーの故障受付なんて部署で働けていたのである。

 そんなわけで自分なりに勉強してみたのだけど、やはり分からないことだらけであった。新卒で入ったわけでもなくただの派遣社員だったので、念入りな研修などない。ただいきなりの現場投入である。とはいえ、先輩社員が研修してくれたのだが、その男の言うことがまたまた意味不明だった。私にも問題があるのだろうけど、その彼とは「教え方の下手っぷりには定評があるが、皆がリーダーをやりたがらないのに、ただリーダーをやりたがったので、その位置にいる」という、なかなか香ばしい人物であった。さすがに私も、一、二ヶ月もすれば、仕事の手順は覚えて一人っきりの深夜勤務も任されるようになったが、肝心の「インターネットとは何か?」という根本的な部分が分かったようで分かっていなかった。

 今でもだが、当時もネット系の資格としてCCNAがあった。まわりの人も「資格を取らなくてもいいから勉強だけすれば」というので、すこし齧ってみた。ちなみにCCNAとは・・・

CCNAとは、ネットワーク関連機器の世界最大手と言われる「シスコシステムズ社」が実施する資格試験のひとつです。CCNAの資格を取得することで、基礎的なネットワーク、シスコシステムズ社の製品(Ciscoルーター、Catalystスイッチなど)に関する知識や技術を持つことの証明になります。

 ということである。当時、私も少しは勉強したと思うのだが、すっかり忘れている。ただインターネットと言っても、一言ではとても言い表せない。そこには茫漠とした海のような得体の知れない巨大な何かがあり、浅はかな考えで足を踏み入れようなものならとたんに飲み込まれて脱出不可能となる。そう、ちょうどそれは、覗いたら向こうもこちらを覗いていたという深淵ではなかろうか・・・

 まあ、それはいくらなんでも大袈裟だが、単純な話として私は「サーバー」が何であるのかよく分かっていなかった。ここまででも気軽に「インターネットサーバー」と書いているが、私はそれが一体何者なのか、正確に、根本的に、理路整然と、理解していなかったのである。

 本を読んだり、ネット上の辞書のようなものを読み漁っても、よく分からなかったが、あるネット百科事典にこう書いてあったのを読んでやっと理解できた。そこにはこうあったのだ。

「サーバーとはハードディスクの中身を公開したコンピューターである」

 私はこの一文でやっと理解した。すっと、意味が身体に収まった。そうか、そういうことだったのか、と。インターネットの世界にはハードディスクの中身を皆に見てほしい人がいる。普通の一般人は当然、見られたくないものだが、ハードディスクに書かれた内容を見てもらって成り立つサービス、仕事もあるのである。つまりそれがインターネットの姿だったのだ。

 結局、二年半ほど携わった仕事で私が学んだのはそれだけであった。私のIT系スキルはまったく向上していない。そこそこパソコンが使えるというレベルのまま、永遠に足踏み状態である。IT系のエキスパートになりたい、と勉強しているなら別だが、普段からただ漫然とネットサーフィンしているだけならスキルの向上などあるわけないのである。

 ところで、私の母はそれ以上にパソコンが使えない。それ以上と言うかまったく使えない。携帯電話を渡しているが、使えるのは通話機能のみで、メールさえも使いこなせない。メールぐらい使えた方が便利だからと何度か丁寧に教えたのだが、無理だった。どうしても理解してくれないのである。親戚から母宛にメールが届いた時のことだ。母はこう言ったのである。「下が途切れてて読めないんだけど」
「下の矢印のボタンを押せばいいんだよ」と私は言った。そこでハタと気づいたのである。母は画面をスクロールする、という概念がなかった。携帯電話の小さな画面には、メールの全文は収まらない。なのでスクロールする。表示されていない範囲にも文面は続いていて表示する枠をずらしていけば文面が動いて読めるようになる、それがスクロールという仕組みだ。しかし戦前生まれの母にはそんな概念自体が存在していないかったのである。

 年寄りでもメールやスマホを自在に操る人がいる。おそらくだが、そんな人はパソコンをいじっていなくても、スクロールという概念があるのだろう。例えばファミコンだ。マリオなどのアクションゲームは画面が左右にスクロールする。テレビの枠の外側にもゲームの画面が広がっているという暗黙の了解を理解していれば、説明されなくてもメールの画面もスクロールできる。そんな年寄りは、きっと子供と一緒にファミコンで遊んだ経験があるのだろう。しかし私の家にはファミコンがなかったので、母は一切、体験していない。(私が子供の頃にファミコンを買わなかったのは、ちょっとしたタイミングの違いだ。私が初めて買ったゲーム機はメガドライブであり、その後、スーファミは買った)。

 私の母が理解できるのはテレビの画面をリモコンで切り替えることぐらい、あと、銀行のATMを操作することぐらいだ。どちらもスクロールはしないので、すんなり操作できる。私がIT系の勉強をしようと思っても一切身につかなかったのは同じような原因だろう。インターネットや通信系のエキスパートの世界には、ハードウェアにしろソフトウェアにしろ、私の想像外の概念があり、身体的に身についていないのだ。それはちょうど、テレビをまったく見たことのない、テレビ放送などがまったくされていないアマゾンの奥地で暮らしている人に、視聴率の仕組みを説明するようなものだ。

 スクロールとは元々、巻物のことである。本のページをパラパラめくるのとはまた違う概念で、くるくると巻取りながらめくっていかないと、内容は掴めない。詰まるところ、世の中にはまだめくっていない巻物だらけである。概念さえも掴めないまま、またいで素通りしている。しかしそれも仕方ない。めくったところで、それはそれで、掴みどころのない深淵なのであろう・・・・


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