宇治十帖のゆかりを歩く 2022/12/30宇治
2022年12月30日。東京の朝は清らかに澄んでいた。早々と家を出る。今日から年を跨いで2日まで、4日間を関西で過ごすつもりだ。
こんどの旅は目的を一つに絞った。源氏物語の最終章「宇治十帖」の舞台をめぐること。流行りの言葉で言えば、「聖地巡礼」とでも言うのだろう。
新幹線に飛び乗り、駅弁屋で買った福井のカニ飯を食べる。2時間半の乗車時間は「古事記」を読むうちに過ぎた。
京都駅に着く。われながら不思議に思うくらい、感傷的な気分が湧いて来ない。10年前まで、私は京都の大学生だった。卒業から経過した月日は、すっかり元の東京人に私を戻していたらしい。普通列車に乗り換えて聖地を目指す。
宇治到着。なつかしい雰囲気だが、別になつかしみに来たのではない。宇治十帖のまぼろしを追い求めて来たのである。雑多な印象に構っている暇などない。
このへんで、あらすじを確認してみようか。
【宇治十帖あらすじ】
1.前夜
宇治十帖が展開する前提条件は、光源氏の晩年に起きた密通事件である。光源氏は異母兄である朱雀に頼まれて、彼の三女・女三宮と結婚する。それまで正妻の地位を保っていた紫の上は、この出来事に衝撃を受ける。逢って間もなく、光源氏は女三宮の至らなさが分かり、改めて紫の上の完璧さを思い知るが、もはや関係修復の見込みはなかった。
さらなる悲劇が襲う。光源氏が病床にある紫の上の看病をするあいだに、頭中将の息子・柏木が、女三宮のことを物にしたのである。その結果、生まれてきた「罪の子」が、宇治十帖の男主人公・薫であった。柏木は罪の意識に悩まされて帰らぬ人となり、女三宮は出家した。
2.宇治の俗聖と二人の娘
薫は幼い頃から風変わりなところがあった。異様に大人びていて、厭世家で、ごく親しい者には出家の願望があることを漏らした。そんな彼が、世に俗聖と称された宇治八宮のことを知ったのは必然だったが、彼の元で女房をつとめている女が、かつて柏木の女房として、柏木と女三宮の暗い恋愛の顛末を見届けた人物だったことは、偶然にしても出来すぎていた。彼女、弁の君から薫はおのれの運命を告げられる。本当の父親は光源氏ではなく柏木であること。母・女三宮が出家した理由。物心ついた頃にはすでに抱えていた憂鬱の由来を。
宇治八宮には二人の娘がいた。薫はそのうちの姉、大い君に恋心を宿す。ほどなく、宇治八宮が亡くなる。大い君は世を厭い、薫を遠ざけて、彼女の妹である中の君を、私の身代りと思って愛して欲しいと告げる。いかにも無理な注文だ。薫は親友の匂宮を案内して、強引に中の君と結ばせた。大い君の提案を拒み、言い訳を封じ、逃げ道をふさいで、おのれと結ばれるようにするのが、彼のねらいだった。
偶然の仕業か、運命のいたずらか、大い君は衰弱の末に世を去り、中の君は匂宮と婚約して京に引き取られた。ひとり取り残された薫は、天皇の次女と結婚する。名誉ある婚約を薫は喜ばない。いつまでも薫は宇治の幻影から離れられない。
匂宮も同じ頃に、光源氏の息子、夕霧の六女と結婚する。貴族の重婚は当時としては珍しくなかった。しかし、夫が他の女のもとへ通う時、中の君が抱いた悲しみは、今と変わるわけがない。彼女には夫の他に頼れる人が薫しかいなかった。宇治に帰りたいと相談すると、あろうことか薫は、彼女の弱った心につけこんで関係を迫った。中の君が失望したのは言うまでもないが、機転を利かして危険を回避するのに成功する。
宇治十帖の女主人公・浮舟は、こうして登場する。中の君にとっての、危険回避の手段として。薫にとっての、大い君の身代りとして。・・・この女は一体何者か?それを知るには少し時を戻す必要がある。
3.浮舟の来歴
浮舟は、男やもめになった父・宇治八宮が、亡き妻の姪にあたる、中将の君という女に生ませた娘だが、すでに遁世の意志を固めていた宇治八宮は、この赤ん坊を我が子と認知しなかった。中将の君は、先夫・宇治八宮と比べて身分こそ見劣りするが、なかなかの資産家ではあった常陸守と再婚する。母と継父と彼の先妻の子供たちに囲まれて、浮舟は東国の田舎でひっそりと育った。
転機が訪れたのは、浮舟に縁談が持ち上がった時のこと。中将の君も、「父無し子の不幸から脱して、ようやくこの娘にも幸せが訪れた」と喜んでいたところ、浮舟が常陸守の実子でないことを知るや、男は破談を申し入れて、常陸守の実子と婚約してしまう。
この娘はここにいるかぎり幸せになれないのだ。母・中将の君は思い切った決断をする。娘の異母姉に当たる中の君が、今をときめく貴公子・匂宮と結婚して栄華を極めていることを頼りに、そこへ浮舟の身を預けてもらうよう、取り計らったのだった。
4.二人の貴公子に愛されて
突然、匂宮の大邸宅に預けられた浮舟。むろん居心地がよいはずはない。中の君にとっても、異母姉妹とはいえ、この時はじめて見た女である。父の忘れ形見というから仕方なく預かったものの、どう扱ったらいいものか?とは言いながら、なつかしい気持ちには抗えない。この女は亡き姉・大い君によく似ている。そうだ。たまたま今、薫に言い寄られていて困っていたではないか。この女をあてがえば、あきらめてくれるのでは?・・・名案が浮かんだ。
折悪しく、匂宮が浮舟を見つけてしまう。稀代の色男が、これほどの美女を放っておくわけがない。言い寄られて、浮舟は恐怖する。いつまでもここにはいられない。母・中将の君に助けを乞うて、京の都は三条の、みすぼらしい借家に身を移す。
そこに薫がやって来る。浮舟の顔に大い君のまぼろしを見た薫は、浮舟を拉致して宇治の別荘に隠す。恋の夢を叶えた薫は安心し切って、たまにしか訪ねてやらない。油断しているすきに、匂宮が居場所を突き止める。親友の愛人とは知りながら、こらえきれず、ついに宇治を訪ねる。
はじめ、匂宮は薫のふりをして近づいた。薫の独特な体臭を再現した香を焚き染めて。別人と気付いた頃には、もう遅かった。
5.周囲の無理解
性格が対照的な二人の貴公子に身をゆだねてしまった浮舟。卑怯な手段で近づいた匂宮を嫌うことが出来れば、話はかんたんだった。しかし浮舟は、手紙を毎日のように寄越し、しきりに訪ねて来て、愛の言葉を伝えつづける匂宮の情熱的な人柄に、強烈に引き付けられた。そして、匂宮を知ったことで、薫の誠実な人柄の魅力も再確認した。
浮舟は選べない。いや、正確に言えば、選ぶという未来を選ぶことが出来ない。どちらの愛も受け取ってしまった以上、二人から一人を選ぶということは選択肢になかった。周りの女房は、二人のうちのどちらを選んだらよいか悩んでいるのだと誤解して、次のように助言する。「思った方にお決めなさいませ。今のようにどっちつかずの状態が一番よろしくありません」
浮舟の心が叫ぶ。違う。そうじゃない。どうして私の心が分からないのだ?
6.宇治川へ
事態は次第に最悪の局面へ向かってゆく。匂宮の手紙が宇治の家に届けられるのを目撃した随身の報告に、薫は怒りに任せて浮舟の不誠実をなじる内容の手紙を送りつける。浮舟はそれに対して一言、「宛先違いではないでしょうか」とだけ付け加えて送り返す。
薫は浮舟を京都に引き取る決断をする。別邸建築の工事が始まると、匂宮も対抗して工事を始める。
匂宮が宇治を訪ねると、厳戒態勢が敷かれていて、門前払いにされる。くじけない匂宮は、京都から愛の言葉を届けつづける。
私の存在が二人を不幸にしている。どう転んだとて、もう事態が好転することはない。浮舟は最後の心のよりどころである母に手紙を書いて、そちらに一時的に身を寄せたいと伝える。あいにく、常陸守の娘が出産を控えているから要望に応えられない、との返事を読んで、浮舟は天を仰いだ。
夜、浮舟は母と匂宮にそれぞれ手紙を書く。自殺の意志をそれとなくほのめかしておく。宇治川の流れる音が、いつもに増しておそろしく、浮舟の耳を領していた。
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宇治十帖のあらすじを、手短かに紹介した。浮舟が自殺してからも、しばらく物語はつづくのだが、宇治を舞台とするものとしては、以上ですべてである。(第45帖「橋姫」から第51帖「浮舟」まで)
私は宇治の雰囲気が好きだ。茶の老舗が立ち並ぶ商店街には何の興味もないが、何と言っても宇治川がいい。この急流が千年の昔と変わらないだろうことを思って感動する。宇治川は平安時代の宇治の性格を今に伝える貴重な風景である。
宇治橋の近くには紫式部像がある。隣にある案内板を読んでみる。
本居宣長がこれを読んだら、どんなにか軽蔑するだろうかと思いながら読む。太字にした箇所に注目してほしい。前半部分、当時の宮廷社会の実情をリアルに描写したこと。これは事実である。しかし、これを作品の特徴の筆頭に挙げるのは現代人の偏見である。写実性が求められる近代文学の標準に照らして、源氏物語が「合格」していることを真っ先に言わなければ気が済まない、私たちの視野の狭さと驕りに気づかなければならない。
後半部分、因果応報の人生観を有する人間性を追求したこと。これは単なる誤りである。因果応報の人生観を有する人間も含めた、多くの人間たちを描いただけだ。紫式部が描きたかったことは因果応報の思想(仏道)ではない。また、紫式部が自身の境遇から得た思想も、因果応報ではない。たったそれだけのことを発見したのなら、乱暴な言い方にはなるが、出家をすれば途端に解決したはずだ。そのくらいでは解決しない人間の心の問題を描きたかったから、源氏物語を書いたのに決まっているではないか。
平等院に向かう。藤原道長の子・頼通が建てた寺で、極楽浄土の世界を想像力で再現したものという。
平等院はいつ見ても立派だが、「極楽浄土の再現」という目的をふまえて眺めると、いつ見ても寂しい印象になる。空洞が目立つ外見のためだろうか?この建物からは、確信に囚われた信仰者にありがちな熱狂が感じられない。おのれの信仰の強度に疑いを捨てきれない人の作に思えてならない。作者の頼通は、すべては夢であることを薄々知っていた人なのかもしれない。なお、平等院の地は彼の父・道長の邸宅「宇治殿」を相続したものという。ならば、道長の娘に仕えた女房・紫式部がここを訪れた可能性も、そこで「宇治十帖」の着想を得た可能性も充分にありうる。
源氏物語ミュージアムに向かう。今回の旅の性格上、ぜひとも寄っておきたい場所だ。在学中に一度来たことがあるが、あの頃の私は哲学科の学生だった。ドイツ観念論やらフランス現代思想やらで、頭が埋め尽くされていたと言うと格好つけすぎだが、あまり記憶に残っていない。道の途中に宇治上神社が出てきたので拝んでおく。
さらに進むと、遠くにそれらしき建物が見えてきた。少し思い出す。そうそう、こんな外観だった。モダニズム建築の雰囲気を漂わす、わざとらしい建物だった。さて、展示はどんなだったっけか?
・・・ん?
入口まであと少しの所で、私は「あるもの」の存在に気づく。青のカラーコーンに貼り付けたラミネート加工のA4コピー用紙という、手作り感にあふれた姿で告げていたことは、どう反応したらよいものかと私を困惑させるのに充分だった。
いやいやいや。たしかに、開館状況を事前に確認しないのは私が悪かっただろう。それを差し引いたとて、「年末年始は休館します」ならば分かるが、空調工事って。しかも期間が長過ぎやしないか?大英博物館でもあるまいし、公立図書館に毛が生えた程度の規模で4ヶ月って。・・・平安貴族の時間感覚か。
すっかり調子を狂わされた私は、茶店に入って薄茶をすする。予定になかったことだ。
運んできたのが白人だったので珍しく思い、どこから来たかを尋ねるとスイスだという。スイス?宇治とスイス?・・・何だろうか、聞き覚えのある組合せのような気がする。私の想念は意外な方向に連れ去られていった。
小学生の夏休み、父とスイスに旅行した。今はどうか知らないが、当時はスイスへの直行便は関西国際空港からしか発着しておらず、しかも取れたチケットは夜の便だった。
私は宇治の平等院が見たいと言った。20年後の今思えば、ずいぶん「シブい小学生」である。
当時は今のように朱色が塗り直される前で、はじめて見る平等院は子供心にも荒涼とした印象を与えた。
ハッとして現実に返る。あの父の言葉は、今日の私が平等院を見た印象そのものではないか。
嗚呼、これはいけない。源氏物語のことだけを考えなければならないのに、幼い記憶から次々と感傷の霧が立ちこめて、私の視界をふさいでしまう。旅の継続をあきらめた私は、さらっと茶を飲み干し、足早に宇治をあとにした。友人と大阪で飲み、気を取り直して、明日の旅に備えた。
【つづく】
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