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恋と学問 第8夜、本居宣長は文献学者か?

明治維新以来、本居宣長についての学問的な研究は、なかなか現れませんでした。

西欧列強に対処することが国家の最優先課題とされ、ことさらに実用の学が重んじられたために、恋だの文学だのと、浮わついた話題は後まわしにされたのかも知れません。時代が、国民が、学問界が、ただならぬ緊張の中にありました。心に余裕がない者に芸術は楽しめません。加えて、学問にかぎりませんが、西欧の模倣こそ正義と思えた時代です。日本のことを考えぬいた思想家は、もはや過去のものとみなされていたふしもあったでしょう。

明治の終わる年(1911)に初版が出た村岡典嗣(1884-1946)の「本居宣長」は、そうした緊張状態が少し和らいだ、日露戦争後の日本にふさわしく多くの読者を得た本です。宣長に関する本格的な研究書としては最初期のものであり、宣長研究の必読文献として、後に続く研究者たちに良くも悪くも決定的な影響を与え続けています。

良い影響とは言うまでもなく、時代遅れとされた宣長の学問の、現代にも通用する価値を示したことで、一方の悪い影響とは、西欧の古典文献学(Philologie、単に文献学とも言う)との類似を強調し過ぎたことにありました。

村岡氏の議論は次のとおりです。宣長の学問は、17~19世紀に主にドイツで発展を見た文献学とよく似ている。とりわけアウグスト・ベックと比較されるべき学問である。

※ ベック(1785-1867)は先駆者ヴォルフの学問を発展的に継承した文献学者で、同時代のヘルマン(1772-1848)が形式派と称されたのに対して、内容派と呼ばれた。古代ギリシア社会の経済実態についての業績がある。

しかし、宣長学は「不完全な文献学」、もしくは「文献学の亜種(変態)」である。なぜなら、文献学なら自制するはずの、思想の表現や理念の表明を平気で行っているからである。これでは宣長を真正の文献学者と呼ぶことはできない。宣長は「文献学的思想家」である。

客観的、帰納的、説明的主義は、同時に、主観的、演繹的、規範的をなしてゐる。換言すれば、古代の客観的闡明がさながらに、主観的主張をなしてゐる(中略)彼が闡明した、上古人の意識的内容たる古伝説が、そは、彼自らの理性の判断によれば、当然幾多の背理、妄説を含んでゐるにも拘らず、そのままに、換言すれば没批評的(kritik-los)に、承認され、尊信されて、あまつさへ、さらに、吾人の生活の規範を示すものとして主張せられた(中略)これ即ち、彼の学問が、全体として、文献学的思想と考へらるべき所以であって、宣長学を、本質的に文献学となす立場からは、かくの如き、関係は当然、変態である
(村岡典嗣「増補本居宣長2」東洋文庫、2006年、39-41頁)

なんとも微妙な言い回しです。宣長の著作のなかに、文献学者以外の顔が見え隠れするのを、どう説明したらよいものか困り果てているかのような口ぶりです。

ですが、村岡氏の苦悩はそもそも、宣長を文献学という小さなワクに押し込めて説明しようとしたことに由来するのではないでしょうか?それを試みて数多くの「例外」が発見されたのですから、その説明枠組に無理があったと認めるのが普通の考え方でしょう。それをしないのは、文献学という氏の理想とする学問像が事前に設定されており、その基準に合致していれば善、ズレていたらば悪という風に、宣長の「成績」を採点しているからであり、はっきり申し上げて傲慢です。  

ありのままの姿をまっすぐに見ようとする私たちからすると、宣長の学問は文献学の要素を含むものですが、それは大きな宣長学の全体に内包されている小さな部分でしかありません。反対に村岡氏は、文献学という、氏が大きいと信じているワクに、宣長の学問は内包されるものだと過小評価しているので、それに収まらないものは「単なる例外」に数えられるのです。


さて、以上は今夜のメインテーマである、紫文要領の序論部分を読むための、長い前置きでした。ここで改めて目次を見てみましょう。

序論 源氏物語を読む前に知るべきこと
   第1章  作者のこと
   第2章  執筆の動機
   第3章  成立の年代
   第4章  作者の系譜
   第5章  紫式部という呼び名
   第6章  準拠のこと
   第7章  題名のこと
   第8章  様々な論点
   第9章  源氏物語研究の歴史

たしかに、この序論は一見すると、文献学的な実証研究の見本と言っても良いような姿をしています。

源氏物語の作者が紫式部であることを論証し(1)、彼女の系譜を調べ(4)、紫式部と呼ばれるようになった由来を推論し(5)、執筆の動機にまつわる諸説を検討し(2)、成立年代の妥当な範囲を定め(3)、源氏物語という題名が本当に正しいものなのか再考し(7)、巷に流布する俗説の真偽を確かめる(8)。・・・・これらの作業は、西欧の文献学者たちがホメロスやプラトンの著作に対して行ったことと完全に一致します。

だとしても、です。宣長は決して文献学者ではない。文献学の方法を使いながら同時に、文献学のむなしさを知っていた人である、ということを今夜はお話したいのです。そのために、第6章と第9章を取り上げてみたいと思います。

第6章は「準拠のこと」というタイトルが与えられていますが、この「準拠」とは何を指すのかと言えば、「作品の元になったもの」という意味です。作品に描かれた出来事ならば参照した歴史上の事件、作中の登場人物ならばモデルとなった歴史上の人物のことです。準拠の研究は、あらゆる文芸作品について、江戸時代の日本でも盛んに行われ、西欧の文献学でも当然議論の対象でした。

これに宣長は異論を唱えます。そんなことを知ったところで何になる?いや、それ以前に知りようがないことではないか。

およそ準拠といふ事は、ただ作者の心中にある事にて、後にそれを、ことごとく考へあつるにも及ばぬ事(作品世界が何に準拠して創られたかということは、ただ作者の心中にしかないことであって、それを後世の人々が、アレかコレかと全部推定しているのは無益なことです)
(本居、前掲書、19頁)

きわめて大胆な発言です。準拠の詮索など、したってしょうがなく、無駄であると言い切っているのですから。なぜ無駄かと言えば、それを知ったところで、それによって作品の魅力が増減することはないからだと、第9章「源氏物語研究の歴史」で述べています。

右古来諸抄、のこる所なく註解こまやかなりといへども、文章の意味、まことの跡をつくして、これを解したることなし。みな一わたり聞こゆるを詮として、其の上の深きあぢはひを求めず。この故に学者あやまること多し。猶別に委しくこれを論ぜり(同27頁)

翻訳します。

以上に見た過去の諸注釈はいずれも、ささいな言葉の隅々まで細やかな注解をしているとは言え、物語のまことの姿を得ようと力を尽くして、文章の意味を探ったものではありません。どの注釈書も、ひと通り意味が通じるようになることを目標に据えており、その先にある深い味わいを求めていないのです。このゆえに学者は誤ることが多いのですが、この点は後に詳しく論じます

引用文の直前まで、宣長は源氏研究史について、詳細かつ正確に整理していました。その手際のよさは村岡氏の言うとおり、客観的で帰納的な文献学者を思わせるものでした。しかし、それをふまえて宣長は、一語一句を緻密に読むことは、作品の魅力を十分に味わうこととイコールではない、と語り始めるのです。

細かな解釈ばかりに拘泥すると物語の姿を見誤る、という重要な論点について、「後に詳しく論じます」と述べているので、これを追いかけて見ましょう。本論の末尾に「過去を想像する力」について述べた補説がありますが、そこからの引用です。

物語は其の時の風儀其の人の境界をよく心得て、其の人の心になりて見ざればあやしき事もあり。又ひとわたり聞こえても深き意味の知れぬ事もあれ(文芸作品は、それが書かれた時代の風習や、その時代を生きた人間の置かれた境涯をよく心得て、その人の心になってみなければ、呑み込めないことが多々あります。字句の意味をひと通り分かるようになったとしても、その人の心になっていないのだったら、深い意味までは知り得ません)
(同160頁)

宣長以前の源氏研究者たちは、この作品世界が淫乱な男女関係に充ち満ちているのに我慢がならず、幸いにも紫式部が仏の教えのことを随所に書き込んでいたので、それらを拾い集めて必要以上に細やかに解釈し、作者の真意はじつは淫乱の戒めにあったのだと主張し出す始末でした。いま引用したのは彼らの見解にたいする、宣長の反論です。

これは文献学者の言葉でしょうか?むしろ、文献学者が往々にして、本人は価値を離れて純粋に科学的に研究しているつもりでも、実際は無意識のうちに、彼が生きている時代の価値観を、研究の対象である古代に投影してしまっているという実態を、知り尽くした人間の言葉ではないでしょうか?先に述べた、「宣長は文献学のむなしさを知っていた」とは、このことです。

ふと、思い当たる気がして、西尾幹二の「江戸のダイナミズム」を引っぱり出すと、次の文章を見つけました。

ヴィラモーヴィッツをはじめ多くの学者たちは、古代人を扱う際に、近代人に対するのと同じ意識で扱っていました。近代世界からは及びもつかない生の形式が古代には存在することを考えようともしない。過去を単に認識するのではなく、哲学的に過去の中へ思索することで、初めてその秘密のヴェールが剥がれるという方法意識が彼らにはまったくありませんでした。近代世界の意識を延長させて古代を判定しています
(西尾、前掲書、170-171頁)

ヴィラモーヴィッツ・メレンドルフ(1848-1931)は、文献学の完成者と名高いドイツの学者で、あの「悲劇の誕生」を批判して、ニーチェを学会から追放したことでも有名な人です。彼のような文献学者には、完璧に文献を考証すれば、文献の意味は自ずから明らかになるものであり、しかもその明らかになった意味は、解釈者の価値観が付加されていない科学的な真理だと、素朴に信じて疑わない無邪気さがありました。

宣長もニーチェも、そんな浅はかな歴史観に身を置いていません。おのれの価値観を捨てて、過去に没入してみなければ、とうてい古代の真実は掴めない。そのように悟ったうえで文献学の破壊に歩を進めた点で、ふたりは同志でした。

源氏物語を読む準備として、こういった文献考証の作業は大切なことではあるが、そうすることによって作品の魅力が特別増すわけではない。この物語を本当の意味で味わうには、文献考証とは別の工夫が必要なのだ。それを伝えるための紫文要領なのだ。そんなことを思いながら書き進めている、宣長の姿が感じられてはじめて、この序論は正しく読まれたことになります。

今夜はこのへんで。

それではまた。おやすみなさい。




【以下、蛇足】




今回は、紫文要領の序論についてのお話でした。筆者としては、村岡典嗣氏のことを良い風に言わなかったのをもって、名著の価値を損ねてしまったのではないかと恐れます。今回述べたような限界(宣長学を文献学の範疇に納めようとしたこと)は認めざるを得ませんが、学説から人生、交遊、師弟の影響関係に至るまで、宣長のことをトータルに論じた本としての「村岡版・本居宣長」の価値を、筆者はいささかも否定していません。

問題はひとえに西欧文献学との比較にありました。ちなみに、文献学の方法論を日本に輸入したのは、村岡氏の少し先輩になる芳賀矢一(1867-1927)ですが、彼は源氏物語を評して「これほど淫乱な書物が我が国の古典とは情けない」と言っています。筆者は、明治を代表する大学者とされている氏に悪いのですが、「これほど浅い理解しか持たない人間が我が国の近代国文学の創始者とは情けない」と言ってやりたい。あまりにも源氏物語が読めていない。この程度の学者と比べれば、村岡氏はよほど公平な学者です。

まあ、蛇足もほどほどにしましょう。次回から「本論」に入ります。本論とはすなわち、「もののあはれ論」です。お楽しみに。

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