生きるとは何か(虚構としての経済と、実体としての愛の狭間で思う)

漠然とした不安と発見のなかで、自分の頭を整理する為に書き始めている。
(今のところ壮大なタイトル「生きるとは何か」をつけている。)

この約1年で自分には大きな変化が立て続けに起きた。
入籍し、結婚式を挙げ、子供を授かり、子供が産まれ、東京に家を買い、金沢3件目の家も買った。そして今(今後悪化されることが容易に想像できる)大きな金融危機が起きている。
怒涛の変化の中で、人生について今まで以上に深く・今までより多角的に考えるようになったと感じている。考え事のテーマとしては、「愛」と「経済」に集約されると思う。(壮大過ぎるので細分化させる必要はあるけども・・・)

愛とは、結婚を機に妻について というよりも、結婚式を機に人対人全般について考える機会が出来た。
結婚式で自分の人生を振り返って、相手の人生を知って、新しい夫婦としての未来を想像して、ということを繰り返した時に、自分と他者の引力(何を相手に渡せて、相手から何を受け取っているのか)という事実の積み重ねを少し紐解けた気がする。
田舎の片隅で、学区と偏差値に従って学生生活を送った人が、こんなに運が良いと感じる人との出会いを繰り返せた裏には絶対に引力があった。「実態としての愛の話。」
引力を持ってくれた、愛を持ち関係を継続してくれた結婚式に参列してくれた友人・親族に対して、今後自分なりのかたちで必ず・継続的に・等身大で恩を返していきたいと強く思った。
何も根拠が無いが、"人間が繋がり合うための愛の往来"が人間が行動を起こす動機の大きな一つだと感じた。(経済活動以前に、人は、そういう目的の活動をするのだと思う。)

一方で、環境の変化に伴い、2019年12月に東京と金沢に借金をして家を買った。
借金する決定に至るまでに色々と考えたり体験して、借金とは現在に至るまでの信用に対して未来を約束・期待し、経済を託すことだと思った。つまり「虚構・幻想」の類いだと思っている。

今、大きな金融危機があり、金融経済が急激に小さい数字へ収束している。
”バブルが弾ける”などと表現されるが、金融経済とは実体以上に膨らんだ幻想だ。対義語として実体経済という言葉もある。
金融・経済という共通言語の中で、同じように幻想を抱けた者同士が約束をし、毎月・毎日経済を循環させ、バブル(幻想)を壊さないように成立させ続けている。
金沢に買った家は、実需も見越しながらも投資(街への実験)も視野に改修を行って、売却も試みる予定だが、これに利益を追求した際に自分もバブル構築の一員になれる。なのですごく金融経済を身近に感じれられる機会となっている。
また、街への実験という観点でも、バブル(幻想)を感じられる機会になっている。活動を取り上げてもらった以下リンクにわかりやすくまとめてもらったが、「(地方都市が郊外スプロール化によって)"衰退した中心部”がこれから面白い場所になる」というのは、情報をある視点で組み立てることができたた一定の知識人達(笑)の幻想に過ぎない。そういう意味では経済でいうバブルと似ている。
ただし経済バブルと違って「建物の集合としての街」なので実態の性格が強い。そこに根付いた生活は、前述の引力や愛に近い。経済テクニックと掛け合せれは、このバブルは弾けない(実態そのもの)と思っている。

少し昔の感覚を思い出すと、「お金こそ現実で、愛とは幻想」のように逆の印象の方が持ち易いような気もする。しかし直近の体験からそうでは無いと思ってる。

・実態は小さく、幻想が大きいものなのか?
・幻想は実態の一部ではないのか?
そういった点はここから更に進めていく興味であり、答えはこの文章を売ってる中ではスムースに浮かばない。
少なくとも実感として、経済の循環が止まった時、人と肩を寄せ合う実感(愛)が無いと人は一気に不安になるように思う。逆に言えば、”この人達がいる・ここに自分がいるならなんとでもなる”という関係や感覚を持てているということが生きる上で必要だと感じている。
そしてそれが、令和や2020年代のような分かり易いこの時代 に見直され・求められる価値なのだと思う。そのためにお金を使い、知識を付けて、技術を身につけ、人間性を磨く時代にきっとなる。

不要不急の外出を禁じられた週末に、家で一人つらつらと書いた文章がこれだ。
里帰り出産のまま、妻と子供は東京から離れたままだ。私は来週会いに行けるんだろうか。