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ザッツ・ニッポン・ミュージカル! モダン・東宝・ミュージカル映画史


 文・佐藤利明(娯楽映画研究家) イラスト・近藤こうじ

 映画のためのミュージカル。いわゆるシネ・ミュージカルが始まったのは、トーキー開始の1927年。ブロードウエイの人気者、アル・ジョルスンの『ジャズ・シンガー』は、記念すべきトーキー第一作にしてミュージカル映画の祖でもある。映画が音を持った瞬間に、シネ・ミュージカルの時代が幕を開けた。 

 ハリウッドは最初の三年間に、二百本以上のレビュー映画を世界に発信。それは様々な影響をもたらした。ドイツは『会議は踊る』『ガソリンボーイ三人組』『狂乱のモンテカルロ』などのオペレッタ映画を製作。映画を通じてアーヴィング・バーリンや、ジョージ・ガーシュインなどのリトルソングがスタンダード・ナンバーとして世界的に流行。もちろん1920年代後半から30年代にかけて、ダンス音楽としてのジャズが浸透していたことも大きいだろう。

 そして我がニッポンでも、オペレッタ華やかなりし昭和初期。浅草の舞台では喜劇王・エノケンこと榎本健一が人気絶頂。小柄で抜群の運動神経の持ち主でもあったエノケンは、ハイカラな時代に相応しくジャズやミュージカルを好み、エノケンの劇団「ピエルブリヤント」には専属のジャズバンドまであった。

 エノケンの舞台にはジャズソングがあふれ、昭和モダニズムの象徴的存在でもあった。なかでも、エノケンが意識していたのは、ブロードウエイで人気のコメディアン、エディ・キャンター。1930年代はじめ『フーピー』や『突貫勘太』などのミュージカル・コメディ映画に出演。そこで歌われていた「Yes.Yes」や「My Baby Just Cares for Me」などの挿入歌は、エノケンの舞台でも歌われて人々に親しまれていた。

 そうしたジャズソングが街に溢れていた1932(昭和7)年、新しい映画会社P.C.L(後の東宝)が誕生。翌33年に公開された記念すべき第一作『ほろよひ人生』(本木荘二郎)のタイトルバック明けには、前述の「Yes.Yes」のメロディが流れる。ピカピカのアールデコでしつらえられたセットは、まさに昭和モダンの香りがする。『ほろよひ人生』はビール会社とのタイアップで作られたオペレッタ映画だが、歌と笑いが満載。特に、エノケンと人気を二分していたコメディアン(元は評論家であり声帯模写の達人でもある)古川緑波がゲスト出演するシーンが印象的。

 夜の公園。「セントルイス・ブルース」を歌いながら歩いてくるレビューガール。暇を持て余しているロッパが「からかってやれ」と、「♪一目見た時、好きになったのよ〜」歌いかける。するとレビューガールがその歌に答え、「君恋し」などのヒットソングの応酬となる。やがて二人は腕を組んで去ってゆく。歌が出会いのきっかけとなり、二人は歌うことで親密になる。これぞミュージカルの呼吸。

 続いてP.C.Lは、松竹専属だったエノケン一座に映画出演を持ちかけ、かねてからハリウッド式のミュージカル映画を目指していたエノケン主演の『青春酔虎伝』(34年・山本嘉次郎)を製作。ヤマカジさんこと山本監督は、エノケンの指名で監督として抜擢された。その理由は譜面がわかるから。『青春酔虎伝』は、前述のエディ・キャンターが出演していたハリウッドのカレッジ・コメディを意識して作られている。万年落第生のエノモトと悪友の二村定一、如月寛多の学生生活が描かれる前半。アウトドアで、楽しげに遊ぶ女子学生たちとエノケンたちが歌う「Yes.Yes」のナンバー。映像の魔術師と云われたバズビー・バークレイが振付・演出したオリジナル『突貫勘太』の同曲を、巧みとはいええないまでも微笑ましく取り入れて、まるでハリウッド映画のようなミュージカル・シーンを展開した。

 やがてエノケンはP.C.L映画のドル箱となり、ジャズソングをふんだんに取り入れた音楽喜劇は、『エノケンの魔術師』『エノケンの近藤勇』と連作され、1936(昭和11)年には、ミュージカル・コメディの最高作の一つ『エノケンの千万長者・前後編』が作られる。エノケン十八番の「洒落男」で始まるタイトル。「私の青空」「セントルイス・ブルース」「ユカレリ・ベイビー」「ミュージック・ゴーズ・アラウンド」などなど、エノケンと二村定一(日本初のジャズ・シンガー!)によって次々と歌い踊られる。黒塗りのミンストレル・スタイルによる音楽ショーなどもあり、ハリウッドに最も近いモダンなコメディとなった。

 一方、エノケンの良きライバルだったロッパも、P.C.L=東宝映画の顔として『歌ふ弥次喜多』(36年・岡田敬・伏水修)では「モンパパ」を歌い、『ロッパの新婚旅行』(40年・山本嘉次郎)ではアービング・バーリンの「世紀の楽団(アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド)」の替え歌を披露するなど、戦前の音楽映画にはジャズソングが溢れていた。

 そうした人気コメディアンの音楽喜劇だけでなく、人気歌手やヒットソングをフィーチャーしたいわゆる歌謡映画のモダンな傑作も作られている。藤山一郎の『東京ラプソディー』(36年・伏水修)は、P.C.L、日活、テイチク提携作品。同名曲はもちろん「青春の謝肉祭」など藤山のヒットソングがふんだんに盛り込まれ、山本嘉次郎と並ぶ音楽映画の名手・伏水修による音楽場面が素晴らしい。特にラスト、出演者全員が次々とバトンタッチしてメドレーで歌う「東京ラプソディー」のナンバーは4分14秒にも及ぶ名シーン。歌詞に折り込まれている「神田のニコライ堂」などのロケショットがインサートされ、映像的な快感もさることながら、歌が次々とバトンタッチされていく手法は、おそらくルーベン・マムリーアン監督のオペレッタ『今晩わ愛して頂戴ナ』の「ロマンチックじゃない?」を意識してのことだろう。

 伏水修監督は、江戸川蘭子と岸井明、灰田勝彦による『たそがれの湖』(37年)というミュージカル・コメディの佳作も作っているが、その早逝が惜しまれてならない。もしも、伏水監督が戦中、戦後も生きていたらニッポン・ミュージカルの流れが変わっていたかもしれない。

 こうしたP.C.L=東宝の音楽喜劇が主流だった時代。ディック・ミネが拠点にしていた日活が、1939(昭和14)年に発表した『鴛鴦歌合戦』(マキノ雅弘監督)は、あらゆる意味でエポックな作品となった。片岡千恵藏、志村喬といったおよそミュージカルとは無縁な俳優たちが、歌い踊るその姿! 娯楽映画の天才・マキノ雅弘によるリズミカルな演出と朗らかなユーモア。まさにニッポン・ミュージカルの祖とも云うべき作品のインパクトは今も色あせない。

 ジャズソングにナンセンス。ハリウッド・スタイルの演出と、かくもモダンだった戦前のニッポン・ミュージカル。やがて太平洋戦争が開戦し、適性音楽が禁止され、派手な歌舞音曲も自粛といった時代の波の中で変容を余儀なくされることとなる。とはいってもエノケン映画には歌がつきもの、一本の映画におけるナンバーの量は激減したものの、黒澤明脚本の『天晴れ一心太助』(45年・佐伯清)などの歌の場面は楽しさに溢れている。

 そんな時局に、大胆にもハリウッド式のミュージカル『ハナコさん』(43年)を完成させたのはマキノ雅弘監督。オープニングからバズビー・バークレイを意識しての俯瞰ショット。次々と登場するナンバー。特に「お使いは自転車に乗って」の明るいメロディは、戦時下の大ヒットソングとなった。そのラスト、いよいよ出征することになった夫(灰田勝彦)と最後の日を過ごすハナコさん(轟夕起子)がおどけてかぶるお面の下で流す悲しみの涙。この場面が当局の逆鱗にふれ、マキノ監督は呼び出しを受けたという逸話も残っている。

 やがて敗戦。戦後の映画界はまず音楽喜劇の復活を試みた。戦後初の正月映画『東京五人男』(45年・斎藤寅次郎)で、疎開から帰ってきたばかりの息子とドラム缶の風呂に入りながらロッパが歌う「私の青空」は、戦後の解放感と良き時代への郷愁に溢れた名シーン。エノケンも後輩のシミキンこと清水金一と共演した『幸運の仲間』(46年・佐伯清)で、焼け跡の廃バスで暮らしながら楽しく伸びやかに歌っていた。

 そのエノケンとロッパが夢の共演を果たした『新馬鹿時代・前後編』(47年・山本嘉次郎)は、闇屋のエノケンとそれを取り締まる警官ロッパの追っかけを描いたコメディ。オープニングで「♪何から何までウラがある〜」と歌うエノケンとロッパが印象的。『新馬鹿時代』で闇屋の親分を演じていたのが新人の三船敏郎。そのヤミ市のセットを生かそうと山本嘉次郎監督の愛弟子・黒澤明監督が企画したのが傑作『酔いどれ天使』(48年)だという。

 『酔いどれ天使』のなかで、ゲスト出演したブギの女王こと笠置シヅ子が、キャバレーで、黒澤作詞・服部良一作曲の「ジャングル・ブギ」を歌うシーンのインパクト。激しいリズム。ダイナミックな笠置。そして黒澤の大胆なカッティング。まさにミュージカルの呼吸にあふれた名シーンだった。

 戦前のニッポン・ミュージカルが舶来音楽中心だったのに対し、戦後はオリジナルの流行歌をフィーチャーしたものとなる。ブギウギ・ブームの仕掛け人である偉大なコンポーザー服部良一の音楽は、戦後を象徴する明るいメロディであり、日本映画にもその服部メロディが溢れることとなる。

 エノケンと藤山一郎が共演した『歌うエノケン捕物帖』(48年・渡辺邦男)の主役はなんといっても服部メロディ。笠置シヅ子とエノケンの夫婦が、大喧嘩をするミュージカル・シーンの楽しさ。『ほろよひ人生』での緑波とレビューガールの歌の応酬が洗練されて、ブギのヒットメロディのソング・バトルへと発展しているのだ。ブギのリズムに合わせて動く二人のアクションが、そのままダンスのようになる。ここには戦後の解放感が息づいている。

 『新東京音頭・びっくり五人男』(48年・斎藤寅次郎)で、笠置シヅ子の物まねをして「ジャングル・ブギ」の替え歌を唄う少女が出演。まだあどけない少女は、おそろしく笠置に似ていた。その少女の名前は美空ひばり。天才少女・美空ひばりは、数々の喜劇映画にゲスト出演し、ラジオや映画を通じてたちまち全国的な人気者となる。

 昭和20年代中盤から後半にかけ、その美空ひばりをフィーチャーした作品が松竹で次々と作られる。『東京キッド』『悲しき口笛』『陽気な天使』・・・。笠置シヅ子=服部良一に続いて、ひばり=米山正夫コンビによるメロディが銀幕にこだました。そして第二のひばりを目指して、続々とデビューをしたのが少女歌手の雪村いづみ、江利チエミだった。雪村は新東宝で『娘十六ジャズ祭』『東京シンデレラ娘』(54年・井上梅次)で「ブルー・カナリー」「セントルイス・ブルース」などジャズソングを唄い、チエミも日活の『裏町のお転婆娘』(55年・井上梅次)で「サイド・バイ・サイド」などの洋楽を抜群のリズム感で歌唱した。これら井上梅次監督によるミュージカル喜劇は、戦後続々と上映されていた『雨に唄えば』『バンドワゴン』などのMGMミュージカル的な良い意味のバタ臭さに溢れており、当時の日本のショウビジネスの水準の高さがしのばれる。

 こうした井上梅次によるミュージカル喜劇には、ジャズマン出身のフランキー堺、高島忠夫が共演しており、雪村も含めて『娘十六ジャズ祭』に共演した三人が、1964(昭和39年)に誕生するニッポン・ミュージカルの一つの頂点ともいうべき『君も出世ができる』(須川栄三)の主演トリオだというのも興味深い。

 さて美空ひばり・雪村いづみ・江利チエミの三人を共演させてしまおうという夢の企画を実現させたのが東宝映画『ジャンケン娘』(55年・杉江敏男)だった。それぞれが主演クラスであり、レコード会社も異なる三人の共演は映画だけ。まさに映画黄金時代ならでは。しかもイーストマン・カラーの大作。クライマックス、後楽園遊園地のジェットコースターで三人が「ジャンケン娘」を唄うシーンには、戦後のニッポン・ミュージカルの主役がジャズソングでもコンポーザーでもなく若き女性スターであるということの証でもあった。

 三人娘映画は『ロマンス娘』『大当たり三色娘』と三部作として作られ、共演にも宝田明、山田真二などフレッシュな若手が起用され大ヒットを記録。しばらく後の64年には同窓会的な『ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば』(杉江敏男)も作られている。
 『ジャンケン娘』で始まった昭和30年代の東宝音楽喜劇は、団令子・中島そのみ・重山規子の「お姐ちゃんシリーズ」(59年〜64年)、加山雄三の「若大将シリーズ」(61年〜81年)など明朗青春喜劇へとシフトされていく。「お姐ちゃん」の重山規子(日劇ダンシングチーム所属)のダンスと、中島そのみの歌はシリーズの名物となり、加山雄三=若大将がシリーズ第四作『ハワイの若大将』から披露することになるオリジナル・ソングの数々は日本の音楽シーンを塗り替えることになる。

 昭和30年代はまたテレビの黄金時代と呼ばれ、お茶の間の人気者がスクリーンに登場している。ハナ肇とクレイジーキャッツの「スーダラ節」などの無責任ソングをスクリーンにフィーチャーした『ニッポン無責任時代』(62年・古澤憲吾)に始まるクレージー映画は、東宝映画らしい豪華なセット、突撃演出と呼ばれた古澤演出による植木等=無責任男のイメージの醸成、青島幸男作詞・萩原哲晶作曲による無責任ソングなどのエレメントが巧みに融合して、9年間に30本も作られる「クレージー映画」というジャンルを形成。村木忍による吹き抜けの会社のセットデザインなど、良い意味での60年代のゴージャスな雰囲気は、今見ても楽しい。

 こうして娯楽映画の重要なエレメントとなったミュージカル場面だが、東京オリンピックに沸き立つ1964年、日本映画に突如として「作品としての」ミュージカル映画ブームが巻き起こる。
 その背景には、60年に公開され異例のロングラン興業を果たしていた『ウエストサイド物語』に始まるミュージカル・ブームがあった。東宝の舞台でも菊田一夫による「東宝ミュージカルス」、そして江利チエミの「マイ・フェア・レディ」などブロードウエイ・ミュージカルの日本版上演。またテレビのバラエティ番組のミュージカル志向など・・・。
 東宝の藤本真澄プロデュサーは鳴り物入りでフランキー堺主演の『君も出世ができる』を製作。大映もブロードウエイの振付師を招聘して『アスファルト・ガール』(島耕二)を公開することとなった。大映vs東宝のミュージカル映画対決は、メディアでも華々しく取り上げられたが、いずれも興行的には満足の行くものではなかった。特に『君も出世ができる』は、作詞・谷川俊太郎、作曲・黛敏郎のソングライター・チームが楽曲を作り、ナンバーの振り付けは関谷幸雄が担当。ハリウッド式の製作体制で作り上げられた快作。
 クライマックス、丸の内で数百人のサラリーマンが唄い踊る「男いっぴき」のテンションは、まさしくニッポン・ミュージカルの頂点でもあった。フランキー堺、雪村いづみ、高島忠夫。戦後のショウビジネスを生きてきた三人のパフォーマンスは、94年のレーザーディスク化やニュープリント上映などで再評価がなされるようになった。

 こうして振り返ると、かつての日本映画には歌があふれ、踊りが満ちていた。モダンな作風で知られる東宝映画。そのモダニズムを支えたのは、エノケンでありロッパであり、そして幾多のジャズソングだった。日本にはミュージカルというジャンルが根づかないとは、よく云われることだが、実は70年にも及ぶ東宝娯楽映画には「ニッポン・ミュージカル」のマインドが綿々と息づいているのだ。

よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。