見出し画像

 円谷英二は、明治34(1901)年7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に、糀屋の長男として生まれた。本名は円谷英一(つむらや・えいいち)。3歳で母・セイを亡くし、祖母・ナツのもとに引き取られた。5歳年上の叔父・一郎を兄のように慕い、その思いからのちに「英二」と名乗るようになる。須賀川町立尋常小学校では成績優秀、自宅の蔵の二階の私室で水彩画に没頭する。

 英一が9歳となった明治43(1910)年、代々木練兵場で陸軍の徳川好敏、日野熊蔵の両大尉が日本初の公式飛行に成功。この様子が大々的に報じられ、英二に深い感銘をもたらす。「いつか本物の飛行機で大空を飛んでみたい」。大空への憧れを抱いた英一は、模型飛行機の製作に没頭。明治時代ゆえ木工材料から全て手作り。一つ一つの部品を製作して組み立てていた。

 その手製の飛行機を持って近所の神社の大銀杏に登り、大空への飛翔に思いを馳せていた。やがて、六年生になると、金属製飛行機の発動機を製作。新聞に掲載された飛行機の写真をもとに、精巧な模型飛行機作り、地元紙「福島民友」の取材を受けている。

 また明治44(1910)年、10歳のとき、巡業でやってきた活動写真に出会う。映画は、鹿児島の桜島噴火の記録『桜島爆発』。見知らぬ土地の風物を、居ながらにして体感できる映像もさることながら、光と影が生み出す映写のメカニズムそのものに興味を持った。小遣いを貯め、子供用の映写機を購入。巻紙を切った紙製フィルムで、手製の映画を作り、家族や友人に披露した。飛行機と映画、少年時代に出会った二つのエレメントが、円谷英二の将来に繋がってゆくこととなる。

 尋常高等小学校卒業の大正5(1916)年、アメリカ人飛行家アート・スミスが来日、東京で曲芸飛行を行った。新聞でその記事を読んだ英一の飛行機への熱はピークに達する。「どうしても東京へ行きたい。飛行機学校に入りたい」。10月に「仕事に就く」と上京、京橋区の月島製作所に見習い入社するも一ヶ月で退社。11月、家族の猛反対を受けながらも、自分の意思を押し通し、8月に開校したばかりの日本飛行機学校に入学。入学金は600円(現在では約250万円)と破格だったが、兄と慕う叔父・一郎が工面した。

 これで大空への夢が果たせたかに思えたが、翌大正6(1917)年、日本飛行学校が東京日日新聞の記者を乗せた帝都訪問飛行に失敗。たった一機の飛行機とともに、教官・玉井清太郎と記者が犠牲となり、学校は閉鎖。

 夢破れた英一は、そのまま神田工科学校(現・東京電気大学)の夜間部に入学。学費稼ぎのために、内海玩具製作所で商品開発を手がける嘱託考案係となる。そこで足踏みギアのついた三輪スケーターや、通話が可能な電池式の玩具電話(インターフォンの原型)など、卓抜したアイデアで次々にヒット商品を生み出していった。なかでも自動スピード写真ボックスは、現在でも証明写真用として世界中に普及している。

 18歳となった大正8(1919)年、これらの玩具の爆発的人気により、500円の特許料が入り、玩具会社の職工たちを連れ、飛鳥山で花見をした。その時、仲間が隣の者と酒の上で大喧嘩、若い英一が仲裁に入った。

 その相手が天然色活動写真株式会社の映画監督・枝正義郎だった。枝正といえば天活の技術部長でもあり、大正6年の連続活劇『西遊記』のトリック撮影で高く評価されていた。その枝正は、初対面で英一を気に入り、映画界入りを勧めた。

 こうして英一はこの年、映画界での初仕事をする。天活作品『哀の曲』タイトル部分の撮影だった。大正9(1920)年、19歳となった英一は、前年に天活を吸収合併した国際活映(国活)巣鴨撮影所に、キャメラ助手として入所。ところが飛行機による空中撮影に恐れをなして、誰も引き受けなかったので、英二が立候補して成功させ、キャメラマンに昇格。

 ここで少年時代の「大空への夢」と「映画への憧れ」が実現。そこから英一の映画人生が本格的に始動するかに思えた。ところが大正10(1921)年から2年間、兵役につくことになり、会津若松歩兵連隊で通信班所属となる。軍隊時代も射撃訓練よりも銃の構造や通信機の仕組みに興味を持っていた。

 大正12(1923)年、兵役を終えると、家業の糀屋を継いで欲しいという祖母の願いを振り切り、再び上京して国活に復帰。関東大震災直後だったが『延命院の傴僂男』(内田吐夢)の撮影を担当。

 翌年、震災の影響でほとんどの映画撮影所が京都へ移ったこともあって、英一も京都の小笠原プロダクションに所属。大正15(1926)年、英一は衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画聯盟に参加、傾向映画『狂った一頁』の撮影助手を務めている。ここでも創意工夫の撮影を展開。そして25歳となった大正5(1927)年、のちの長谷川一夫となる林長二郎の初主演作『稚児の剣法』(犬塚稔)の撮影を手がけ、オーバラップを多用する特撮手法を使って映画はヒットした。

 英一は様々な技術革新をもたらし、セットの奥行きを出すためにミニチュアセットを組むなど、日本ではまだ定着していなかった場面転換のためのアイリスやフェードを多用して、映画技術の向上を図った。

 ついには自費を投入して移動撮影車や木製クレーンを製作して、映像表現の幅を広げた。昭和5(1930)年、29歳の英二はこのクレーンから転落、大怪我を負ってしまう。その時に看病してくれた19歳の荒木マサノと結婚。それを機に円谷英二と名乗るようになり、翌昭和6(1931)年、ホリゾントを考案、日本で初めてのホリゾント撮影を行った。この年長男・一が誕生。

 この頃、技術開発や生活費を捻出するために、四条河原町の大丸百貨店二階に「30分写真ボックス」を設置。スピード写真の元祖となり、自ら現像にあたった。

 英二が日活に入社した昭和8(1933)年、RKO映画『キング・コング』を観て、衝撃を受ける。「いつか、こういうトリックを駆使した映画を撮りたい」。フィルムを取り寄せ、一コマずつ分析するほどの熱中ぶりで、これが21年後『ゴジラ』へと結実することとなる。

 そして昭和9(1934)年、円谷英二の創意工夫の特殊技術を高く評価していた大沢商会の大沢善夫の紹介で、東宝の前身となるJ.O.スタヂオ(後の東宝京都撮影所)に入所。12月公開の音楽映画『百万人の合唱』(富岡敦雄)の撮影を担当。この時、劇場での歌唱場面のために、鉄製クレーンを製作してクレーン撮影を成功させる。

 さらに、昭和10(1935)年、海軍練習船・浅間に5ヶ月間乗船、二万三千マイルに及ぶ太平洋への航行と訓練の記録映画『赤道越えて』を演出、これが初監督作品となった。この年、次男・皐が誕生。

 そして、昭和12(1937)年、英二の特殊撮影が、日独合作映画『新しき土』で世界に知られることになる。ドイツの山岳映画の父・アーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督、16歳の原節子が主役に抜擢され、話題となった。このときファンク監督が、英二開発のスクリーン・プロセス技術を高く評価、装置を譲って欲しいと申し出たという。

 同年、JOスタヂオとP.C.L.映画撮影所、東宝映画配給が合併して、株式会社東宝が誕生。映画の技術革新に熱心だった同社は、特殊技術課を新設。英二は課長に抜擢された。ところが名ばかりの部署で、部下もいなかったが、英二は日夜新しい撮影技術に研鑽を積み、国産初のオプチカル・プリンターを設計開発した。

 昭和14(1939)年には、陸軍航空本部の依頼で、教材映画『飛行理論』を、一人で飛行機を操縦しながら空中撮影。さらに国策映画『皇道日本』(40年)を撮影。同年の『海軍爆撃隊』で初めて「特殊撮影」とクレジットされる。この頃、特殊技術課には、のちに「マグマ大使」を製作する鷺巣富雄、「ウルトラQ」の特技監督となる川上景司、『ゴジラ』の合成技師・向山宏など人材も増えていった。

 やがて、英二の創意工夫が最大限に生かされたのが、昭和17(1942)年の海軍記念日に公開された『ハワイ・マレー沖海戦』だった。機密事項とゆえ資料提供は一切なく、ハワイの平面地図だけで、真珠湾のセットを手探りで再現。観客の中には、実際に撮影されたものだと思い込んだものもいたという。このとき42歳。

 昭和19(1944)年に三男・粲誕生。この年『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』(山本嘉次郎)など戦意高揚映画の特撮を手がける。同じ国策映画でも、昭和20(1945)年に作られた戦地慰問のためのオールスター映画『勝利の日まで』(成瀬巳喜男)では「ウルトラマン」を思わせる特撮が見られる。博士(徳川夢声)が慰問のための笑慰弾を開発、助手(古川緑波、高峰秀子)に命じて、戦地に向けて発射すると、次々と人気スターが登場して歌や笑いを披露。南の島の砂漠で巨大化した岸井明が現れ、気持ちよさそうに歌う。足元で小さくなった川田義雄が驚く。その対比が笑いを誘った。

 戦局は厳しくなり、米軍機の空襲が本格的となった頃、世田谷区祖師谷の自宅の庭の防空壕の中で、英二は子供達に「いつか、巨大なタコが船を襲う映画を撮りたいんだ」と語ったという。英二は常にキング・コングのような巨大生物が暴れる映画にしてみたいと考えていたのである。

 やがて敗戦、戦時中に国策映画に「加担した」理由で、公職追放となった英二は東宝を退職、特殊技術課も解散。昭和23(1948)年、自宅の庭に「円谷特技研究所」を設立。新東宝『富士山頂』(佐伯清)、松竹大船『颱風圏の女』(大庭秀雄)や、大映京都作品の特撮を請け負う。昭和24(1949)年、大映が復帰作として用意した『透明人間現わる』(安達伸生)や『幽霊列車』(野淵昶)の特撮を担当。

 昭和25(1950)年には、東宝撮影所の中に「円谷特殊技術研究所」を移設して、合成処理を手がけることになる。この頃、のちの特技監督・有川貞昌、特撮キャメラマン・富岡素敵らが所員となり、映画のトップに出る「東宝マーク」はこの頃の仕事である。

 51歳となった昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和條約が発効され、英二の公職追放が解かれ、東宝へと正式に復帰。その頃、企画部に「クジラの怪物が東京を襲撃する」映画企画を持ち込む。昭和28(1953)年にも「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という、防空壕で子供たちに語った企画を出している。この年、弟子の川上景司に協力して松竹大船『君の名は』(大庭秀雄)の東京大空襲の場面の特撮を手がけ、続いて東宝の戦後初の戦争大作『太平洋の鷲』(本多猪四郎)を手がけ「特撮の神様」健在を証明した。

 昭和29(1954)年、プロデューサーの田中友幸により「G作品」のプロジェクトがスタート。『キング・コング』のような映画を創りたいという、英二の思いは『ゴジラ』(本多猪四郎)として結実することになる。この時、円谷英二は53歳。

 「特撮の神様」は、『空の大怪獣ラドン』(1956年)、『モスラ』(1961年)、『キングコング対ゴジラ』(1962年)など次々と、空想特撮映画を創意工夫で作り上げ、大ヒットさせてゆく。

 62歳を迎える、昭和38(1963)年、円谷特技研究所は東宝との独占契約を解除して、テレビの特撮番組を手がけるべく、英二は東宝の出資とフジテレビのバックアップを受けて、株式会社円谷プロダクションを設立することとなる。


よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。