海外ミステリー映画史 PART1    1910年代〜1920年代

*1998年「カルト映画館 ミステリー&サスペンス」(社会思想社)のために執筆したものを加筆修正。(YouTubeリンクで実際の作品が観れます)

 映画が誕生して百二十年あまり、活動写真といわれた草創期から映画が総合芸術と呼ばれて久しく、優秀な作品は美術館に収蔵されるようになった現代に至るまで、映画は観客の眼や耳を楽しませ、五感を刺激し、サスペンスとスリルが観客の心を捉えて離さない、グッド・エンタテインメントであり続けてきた。映画の誕生したサイレント時代に戻ってミステリー映画の歴史について振り返ってみよう。

 映画史において、最初のミステリー映画といわれるのが、フランスエクレール社製作の『ジゴマ』(1911年・仏)だ。監督はフランス映画の草分けといわれるヴィクトラン・ジャッセ。原作は「ル・マタン」紙に連載されていたレオン・サジーの探偵もので、変装が得意な怪盗ジゴマ(アルキエール)が、秘密結社Z団を率いてパリに出没。銀行や劇場を襲撃するが、敏腕警部ボーラン(リアベル)が一味のアジトをアルプス山中に発見する。
 しかし、Z団の返り討ちにあって瀕死の重傷を負うことになる。やがて、警部の親友で私立探偵のニック・カーター(シャルル・クラウス)が、一味と対決をする。カーターのために、Z団を裏切ることになる美しいラ・ロザーリンにジョゼット・アンドリオ。ジゴマの情婦にオルガ・デミドフ。などど、ヒロインにヴァンプといったお色気要素もあり、登山電車のシーンには世界初と言われている移動撮影が導入され、湖上のモーター・ボートと飛行機を使った派手なアクション場面など、のちのアクション映画には欠かせない要素が盛り込まれている。

Zigomar contre Nick Carter(1911)本編

 アメリカで20年代から40年代にかけて数多く作られることになるシリアルと呼ばれる連続活劇の原点となり、探偵ニック・カーターはたとえるならイギリスのシャーロック・ホームズに匹敵するほどの知名度をもつようになり、『ニック・カーターの冒険』など多くの作品に登場。映画が生んだ最初のスーパーヒーローとなった。もちろん映画は世界的に大ヒット、すぐに二本の続編が作られることになった。

 日本では明治44年11月1日、浅草の金竜館で公開され大評判となり、『ジゴマ大探偵・正続編』、『日本ジゴマ』、『ジゴマ改心録』、『新ジゴマ』とブームに便乗した拙速映画が数多く作られた。それほどジゴマ・ブームはすさまじく、映画館で卒倒する観客、映画を真似た強盗や放火が相次ぎ、中学生がおもちゃのピストルで女性を襲ったりする事件も多発した。政府は大正元年十月二十日で<ジゴマと名のつく映画演劇のすべてを興行禁止>とした。

 フランスのパテ社は『ある犯罪の物語』(明治36年)、『放火殺人』(明治40年)などの推理映画を手掛けていたが、活劇は『ジゴマ』を製作したエクレール社が得意とし、世界の映画界をリードしていた。アメリカ映画はまだスタートしたばかりで、西部劇の父エドウイン・S・ポーター監督の『大列車強盗』(1903年)というアクション映画の祖はすでに登場していたものの、推理小説の映画化はバイオグラフ社製作のJ・スチュアート・ブラックトン監督の『紳士怪盗ラッフルズ』(1906年)まで待たねばならない。

 『ジゴマ』は、ハリウッドに多大な影響を与えた。それまでの興味本位で実写を捉えていた映画は、ドラマを語り始め、ミステリアスな謎・アクション・サスペンス・スリリングかつケレンのある構成が映画にとって重要な要素となった。凶悪犯を追う探偵はヒーローとなり、その超人的な活躍が観客を魅了し。サスペンスを高めるための、カットバックやアップの多用など、映像を効果的に見せるため映画の編集技術は飛躍的な進歩を遂げた。ハリウッドでは史上初のアクション・ヒロイン、パール・ホワイト主演の『拳骨』(1914年)、『ポーリンの危難』(1914年)が大ヒット。次から次ぎへとヒロインを襲う危機、クライマックスにはかならずピンチに陥り、次ぎの作品はそこを脱するところから始まるといった、いわゆるクリフ・ハンガー・タイプの連続活劇が大ヒットした。

ポーリンの危難(1914)本編

 本家のフランスではのちにリメイクされる『ファントマ』(1913〜1914年・ルイ・フィヤード監督)を製作。原作はマルセル・アランとエミール・スーベストル共作の冒険小説。『第一編・ベルタム事件』、『第二編・黒衣の人』、『第三編・不思議な指紋』、『第四編・仮面舞踏会悲劇』、『第五編・偽りの長官』と五部作が作られている。しかし、フランス流の耽美主義的な映像美は、アメリカ映画のテンポやアクションの飛躍的進歩にはかなわず、連続活劇の主流はハリウッドに移行することになる。が、フランスのアベル・ガンス監督の『チューブ博士の狂気』(1915年)という傑作も生まれている。

ファントマ(1913)本編

 第一次大戦が終結すると、ドイツ映画界から映像主義の表現派の監督たちが登場し、ミステリアスな作風の中に作家的表現をたくみに主張して数々の傑作が誕生している。中でもフリッツ・ラング監督の『ドクトル・マブセ』(1922年・独)は、世界犯罪映画史に大きな足跡を残した古典中の古典だろう。原作はノルベール・ジャックの小説で、脚本はラング監督のドイツ時代の全作品に協力した夫人でもあるテア・フォン・ハルボウとラングの共作。
 第一部『大賭博師』と第二部『犯罪地獄』の二部構成で上映時間四時間半のこの作品は、変装の名人で催眠術を駆使する犯罪者ドクトル・マブセ(ルドルフ・クライン=ロッゲ)が部下に司令し、列車内で乗客を殺し<ドイツースイス間の経済協定書>を奪わせるという事件から物語が始まる。協定書を失ったドイツでは株価が暴落し、マブセは株を買い占め、協定書を当局に提出する。株を売り払って大儲けをする。
 さらにマブセは、貧民街の秘密アジトで盲人を使って偽札を作り、カジノではカードでいかさま賭博をする。経済的知能犯ともいうべきマブセの犯行が緻密かつ残忍で、それを追う検事フォン・ヴェンク(ベルンハルト・ゲッツゲ)は変装して賭博場に潜入。白髪の老人に変装したマブセを追跡するが、マブセの部下に麻酔ガスを嗅がされて意識不明となる。
 マブセは催眠術を駆使してトルド伯爵(アルフレッド・アベル)にイカサマ賭博をやらせ、ついには伯爵を精神錯乱状態に陥らせる。検事とマブセは両者とも変装し、追いつ追われつを繰り広げるという点では連続活劇の味わいもあるが、『ドクトル・マブセ』がリアルだったのは、平気で人を殺してしまうような凶悪犯が主役だったということだろう。

ドクトル・マブセ(1922)本編

 1923年にロンドンとパリでオリジナル版が公開され、日本でも全十五巻に短縮されたヴァージョンが大好評を博したが、アメリカでは90分にカットされた版だったため、よくわからないと不評だったようだ。しかし、ラングはこの後すぐに、ワーグナーのオペラにもなった『ニーベルンゲン』(1924年)を発表。映像作家としての確固たる地位を築く。

 ドイツでは『ヨー・デブス』や『アスファルト』など探偵怪奇映画を作っていたヨーエ・マイ監督、『カリガリ博士』(1919年・独)のロベルト・ウイーネ監督など、表現主義派の監督が次々と問題作を発表。とくに『カリガリ博士』は後にドイツ、ウーファー社で世界的プロデューサーとなるエリッヒ・ポマーで、当初フリッツ・ラング監督が予定されていたが、ラングの推薦でウイーネが演出することになった。ポマーは製作費を抑えるために、すべてセット撮影、しかも表現主義の様式を採用することになった。
 大胆な斜めの構図、白と黒でまるで舞台の背景のように構成されたセットは、低予算という窮余の策からの誕生だったが、絵画や小説まで広がっていたドイツ表現主義の映像としての記録としても重要なものとなった。『カリガリ博士』には第一次世界大戦で辛酸をなめたドイツ国民の本音が隠されている。
 カリガリ博士(ウェルナー・クラウス)は、柩の中で眠り続ける眠り男のチェザーレ(コンラッド・ファイト)を操って殺戮を繰り返す。当初の脚本(カール・マイヤー、ハンス・ヤノヴォッツ)では、善良な市民を戦争に駆り立てる扇動者=為政者のイメージとしてカリガリ博士を設定し、眠り男チェザーレはこの扇動者に操られる兵士に見立てられた反戦映画でもあったのだ。
 しかしポマーは世界マーケットを考慮して、主役のフランツ(フリードリッヒ・フェール)を精神異常者に仕立て、物語はフランツが精神病院でみた幻想であるというプロローグとエピローグを付け加えている。が、かえってそれが作品の幻想性を高めているような気がする。

カリガリ博士(1920) 本編

 『カリガリ博士』以後のドイツでは、カール・ハインツ・マルティン監督の『朝から夜中まで』(1920年)、ロベルト・ウイーネ監督の『罪と罰』(1923年)、パウル・レニ監督の『裏町の怪老窟』(1924年)などの表現主義派のミステリーが連作された。さらにフリードリッヒ・W・ムルナウ監督はスティーブンソン原作の『ジキル博士とハイド氏』(1921年)の初映画化やフランスの連続活劇をリメイクした『ファントマ』を表現主義スタイルでリメイクしている。

 一方のアメリカでは、ルイス・ジョセフ・ヴァンス原作の『ローン・ウルフ』が1917年に登場。怪盗ウルフが活躍する連続活劇だが、初代のバート・ライデルを皮切りに、ジャック・ホルト、メルビィン・ダグラス、フランシス・レデラァ、ウォーレン・ウイリアム、ジェラルド・ムーア、ロン・ランデル、テレビドラマではルイス・ヘイワードと、半世紀以上に渡って、サイレント、トーキー、テレビと活躍の場を移して大活躍している。 

 ホラー映画の範疇に入るかもしれないが、サイレント末期におけるフランス映画の完成という点で、重要な作品といえるのが『アッシャー家の末裔』(1928年・仏)だろう。原作はエドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」に、ジャン・ウエブスタイン監督自らが、やはりポーの「楕円形の肖像」に「リージア」あわせて脚色をしている。
 後にロジャー・コーマンがリメイクした『アッシャー家の惨劇』(1960年)をエンタテイメント作品とするならば、こちらはポーが繰り返しテーマにしている<早すぎた埋葬>をモチーフに、三つの小説をウエブスタイン監督なりに再構成、耽美的な映像で描いたアーティステッィクな作品になっている。
 破れた壁、霧の立ち込める廃屋・・・シュールレアリズムの詩人サンドラルスの影響をうけた監督は、大胆なフラッシュバックを多用し、キャメラポジションとアングルを豊かに変化させて画面を構成し、トラックとパンも効果的にしようしている。
 怪奇幻想ムードを高めるために、シュールレアリズム的な演出で、独自の映像世界を創出。ドイツ表現主義後の、フランスのアヴァンギャルド映画として世界映画史に残る作品となった。

アッシャー家の末裔(1928)本編

怪奇色の強い初期映画

 エドガー・アラン・ポーの「告げ口心臓とアナベル・リー」をハリウッドで映画化したのは『イントレランス』で知られるアメリカ映画の父・D・W・グリフィス監督である。『恐怖の一夜』(1922年)と題されたこの作品は、青年(ヘンリー・ウォルソール)が、恋人との仲を伯父に引き裂かれ反対され、伯父をピストルで殺してしまう。

 恐怖の一夜(1922)本編


 グリフィスの演出は、追い詰められた青年の脅迫観念を丹念に描き、アメリカ映画のミステリー演出を格段に進歩させたといわれている。他には巨匠セシル・B・デミルの『囁きの合唱』(1918年)も心理描写に重点をおいた作品と知られる。殺人で逮捕され、断頭台に登る男(レイモンド・ハットン)とその妻(カスリン・ウイリアムス)を描いている。

囁きの合唱(1918)本編

 怪奇映画であるが、カール・ドライヤー監督の『吸血鬼』(1931年・独=仏)は、ルドルフ・マテの白日夢的なキャメラとドライヤー監督の耽美的な映像美によって、恐怖よりも美しさが際立った作品となった。青年アラン・グレイ(ジュリア・ウエスト)が古城を尋ねて、そこに住む美しい女(シビル・シュミッツ)と恋に落ちる。しかし女は吸血鬼だった・・・。
 ミステリアスな女の正体があばかれていく過程は、ミステリーの手法そのものであった。トーキー初期にヨーロッパで作られた傑作の一本である。

 第一次大戦後、スタジオ・システムが完備され、システマチックに映画が量産されるようになったハリウッドでは、娯楽映画としてアクション・ミステリーが数多く作られるようになった。ワーナーの『特別急行列車』、『仇敵めがけて』(1925年)、MGMの『魔人』、ユニヴァーサルの『怪力無双』『荒療治』『犯罪倶楽部』『ラジオ探偵』など、その多くは連続活劇ないしはその延長線にあるものだった。ハリウッドではエドガー・アラン・ポーのものを除いて推理小説の映画化は少なかった。

 ミステリー的手法で演出された人間ドラマ『グリード』(1924年)は、ハリウッド的なハッピーエンドに対するアンチテーゼ作品を作り続けてきたエーリッヒ・フォン・シュトロハイムの代表作。
 フランク・ノリスの小説の映画化で、サンフランシスコの歯科医マクティーグ(ギブスン・ガーランド)は、友人マーカス(ジーン・ハーショルト)の紹介できた患者トリナ(ザス・ピッツ)に魅せられて、妻を捨てて彼女と一緒になる。ある日、五千ドルの宝くじがあたってから、トリナは金の亡者と貸す。歯科医の免許を取り消されたマクティーグは酒に溺れるうちに、トリナの金に目が眩んで彼女を殺し、彼女がためこんだ金貨の袋を奪って逃亡する。「死の谷」の砂漠へ逃げ込んだマクティーグを追って、カナダへ行っていたマーカスがやってくる。
 格闘の末、マーカスはマクティーグに手錠をかけたまま力つきる。死体とつながれたままのマクティーグは砂漠の飢えと渇きに耐えられず絶命する。袋からこぼれた金貨が砂漠に埋もれてゆく。人間の欲望と貪欲さをテーマに徹底したリアリズムで描いた作品だが、当初は四十巻、上映時間四時間半という長さで作られたが、興行的配慮からMGMは二時間二十分に短縮した。映画史に残る名作だが、シュトロハイムはこの映画の製作中の浪費がたたってMGMを追われ、監督としてのキャリアも断たれることになる。

グリード(1924)本編

 推理小説の映画化では、昭和2年の正月映画として公開された『突飛大将恋の初陣』(1926年)がある。原作はアール・デア・ビガーズ。後に中国人探偵チャーリー・チャンを生む作家のデビュー推理小説「バルドペート七つの鍵」を映画化したもので、監督はワーナーのロイ・デル・ルースだった。同じ頃、ルイス・ジョセフ・ヴァンス原作のローン・ウルフもの『大盗恋の目覚め』(1926年)が公開されている。紳士怪盗ローン・ウルフにはバート・ライデルが扮した。

 オーストリアのパンフィルムからリリースされた『芸術と手術』(1926年)は、モーリス・ルナールの原作をロベルト・ウイーネ監督が演出したもので、列車事故で両腕を失ったピアニストが、手術で死刑囚の両腕を移植するが、その両腕は殺人の行動のみ反応するというホラータッチのサスペンスだった。

芸術と手術(1926)本編

https://youtu.be/zf9PKWJlzzE

 同じ頃、イギリスでは『街の恋人形』(1926年)なるミステリー・アクションが製作され、監督はグレアム・カッツ、原作はフランク・ストレイトンだったが、特筆すべきなのが、この映画の美術と脚色を担当したのがアルフレッド・ヒッチコック。チーフ助監督としてクレジットされている。

 1926年にはスコット・フィッツジエラルド原作の「偉大なギャツビー」の最初の映画化である『或る男の一生』(1926年)が登場する。ギャツビーにはワーナー・バクスターが扮している。社交界の花形ディジー(ロイス・ウィルスン)にふさわしい身分と富を得るために、第一次世界大戦から復員してきたギャツビーは暗黒街がらみの仕事で、ロングアイランドに大邸宅を構えることになる。ジャズ・エイジと呼ばれた世代の破天荒な生き方を描くドラマは後の映画化、1948年にアラン・ラッド主演の『暗黒街の巨頭』、1974年にロバート・レッドフォード主演の『華麗なるギャツビー』、2013年のレオナルド・ディカプリオ主演の同名作とほぼ同じ。ただフィッツジェラルドが原作を発表した(1925年)の翌年に製作されているだけに、時代の気分が伝わってくる。 

或る男の一生(1926)本編

 トーキー前夜、ハリウッドでは探偵小説の映画化がたけなわで、エドワード・フィリップ・オッペンハイム原作の『極楽トンボ三人連』(1926年)やオーエン・デヴィス原作の『ジャズの墓場』など、そのほとんどはパルプマガジンと呼ばれた雑誌に掲載された大衆小説の映画化だった。そんな中で、サイレント末期の傑作ともいうべきなのがジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『暗黒街』(1927年)だろう。シカゴを舞台に、気の良い一匹狼のブル(ジョージ・バンクロフト)が銀行強盗をしたときの、酔っ払いの目撃者を隠れ家につれて帰る。処分方法にあぐねるが、元弁護士のその男・ロールスロイス(クライブ・ブルック)と意気投合して、彼のアル中を直す。立派な紳士に戻ったロールス・ロイスはブルが逮捕されると、ブルの情婦とともに彼の脱獄に協力する。暗黒街に生きる男が得た真の友情を、名手ベン・ヘクトとチャールズ・ファースマンの脚本で描いた作品で、トーキー初期に連作されるギャング映画の嚆矢となった。娯楽映画の巨匠、ハワード・ホークス監督はサイレント末期に、E・C・ベントリー原作の「トレント最後の事件」を映画化した『トレント大事件』(1929年)を発表している。

暗黒街(1927)本編

 ドイツでは当時大流行だったフロイドの精神分析を初めて映画に取り入れたG・W・パブスト監督の『心の不思議』(1926年・独)が製作された。科学者(ウエルナー・クラウス)は、子宝に恵まれないことが原因となって悪夢をみるようになり、近所で起きた殺人事件の影響で、妻を殺害する夢をみる。精神分析医は「夢判断」で、彼がマザコンで妻と従兄の関係に嫉妬していると原因を究明する。「夢判断」に基づく精神分析をプロットに使用したという点では新しかったが、理屈っぽいところが難点だったという。

心の不思議(1926)本編

 トーキー時代に入ったハリウッドでは、本格探偵小説作家S・S・ヴァンダイン原作の名探偵ファイロ・ヴァンス・シリーズの映画化が始まった。最初の映画化は、小説の第二作『カナリヤ殺人事件』(1929年・ウイリアム・セント・クレア監督)だった。名探偵ヴァンスには『或る男の一生』でギャツビーを殺害する役など、悪役専門だったウイリアム・パウエルが扮し、パウエルの当たり役となった。ブロードウエイの人気ダンサー<カナリヤ>と呼ばれる美女(ルイズ・ブルックス)が絞殺死体として発見される。容疑者は四人、株式仲買人、彼女のファンの医師、踊り子(ジーン・アーサー)の恋人の青年(ジェームズ・ホール)、彼女に秘密を握られていた政治家だ。貴族趣味あふれるヴァンスは、ポーカー・ゲームから密室殺人事件のなぞを解く。ヴァンダイン原作はハリウッドでちょっとしたブームとなり、パラマウントでは『カナリヤ殺人事件』からわずか二ヵ月後に名探偵ファイロ・ヴァンス・シリーズ第二作の『グリーン家の惨劇』(1929年・フランク・タトル監督)をリリースしている。ウイリアム・パウエルの名探偵ヴァンスは、その後『ベンスン殺人事件』(1932年)、ワーナーに製作会社を移して『ケンネル殺人事件』(1933年・マイケル・カーティス監督)と、計四本作られている。

カナリヤ殺人事件(1929)

 推理小説史上最大の探偵といえばコナン・ドイルが生み出したシャーロック・ホームズだろう。サイレント時代から数多く作られてきた。本家イギリスでは『シャーロック・ホームズ』(1921年・英・モーリス・エルヴィー監督)が登場し、ホームズにはアイル・ノーウッド、ワトソン博士にはヒューバート・ウイリスが扮している。「瀕死の探偵」「二身一体」「みつくちの男」「ベリルの頭飾り」「悪魔の足」の五編からなる短篇集だった。
 アメリカでも『シャーロック・ホームズ』(1922年・米・アルバート・パーカー監督)が作られ、名優ジョン・バリモアがホームズ、ワトスンはローランド・ヤングだった。原作は「ボヘミヤの醜聞」に「ホームズ最後の事件」を脚色し、宿敵モーリアリティ教授との宿命の対決を果たす。トーキーになって最初は「瀕死の探偵」と「最後の挨拶」を原作にした『シャーロック・ホームズ』(1929年・米・ベイジル・ディーン監督)。ホームズにはクライヴ・ブルック、ワトスンにはH・リー・ヴス=スミスが演じており、クライヴ・ブルックは1932年の『シャーロック・ホームズ』(米・ウイリアム・K・ハワード監督)でもホームズに扮している。

シャーロック・ホームズ 悪魔の足(1921)本編

シャーロック・ホームズ(1932)


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