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空に向かって・・・立川飛行場から太平洋横断へ
「空に向かって・・・昔、東京の立川は首都空港だった」。
少年が手に飛行機を持ち、今まさに空に向かって離さんとして「自由に羽ばたいてみたい心」を現わしている。そんなモニュメントが立川駅前に建っている。
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JR立川駅前にある。(デパートの伊勢丹立川の前)2021年6月完成。
確かに立川エリアは、昔、飛行機のメッカだった。
1937年(昭和12年)にフランスのパリを目指して飛び立った神風号の出発は、この立川からだった。
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この飛行機は純国産で、設計製造は三菱。
立川離陸後、距離15,357kmを平均速度300km/h、計94時間17分56秒で飛行。
給油・仮眠をのぞく実飛行時間は、51時間19分23秒であった。
さらには1931年(昭和6年)、人類初の太平洋無着陸横断飛行に飛び立った真っ赤な機体のミス・ビードル号は、この立川で入念な機体整備を行い、青森県三沢村を経てアメリカのワシントン州に向けて飛行した。
そして41時間15分後に胴体着陸し、快挙を成しえた。(筆者補足:飛行中の空気抵抗を減らすため、固定脚は離陸後、意図的に捨てた)
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この立川飛行場はもとより、陸軍の隼を開発したのは中島飛行機だが、大規模な移管生産したのは、ここにあった立川飛行機である。
この周辺には、陸軍航空工廠などの軍の工場や陸軍航空技術研究所、日立航空機、昭和飛行機工業など多くの民間工場とその下請け工場があった。
中島飛行機(現SUBARU)もこのわりと近くにあった。
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開発は中島飛行機(現SUBARU)、製造は中島飛行機および立川飛行機
総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位
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橙色の練習機塗装から通称「赤とんぼ」と呼ばれた。
戦後、立川飛行機の技術は、東京電気自動車→たま電気自動車→プリンス自動車へと継承され、名車スカイライン製造へと流れを繋いでいく。
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立川飛行機の関係者200名によって立ち上げられた東京電気自動車株式会社が製造。
会社はその後、たま電気自動車株式会社→プリンス自動車工業株式会社へと改名していく。
モニュメントは昨年(2021年)6月に出来たものだが、ふと立ち止まり、刻まれた文言を読んでみた。その部分も写真掲載したので、興味のある人は読んでみて欲しい。
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一つの情報から、芋づる式に関連のことに想いを馳せる歴史探訪は、楽しい。
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