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【note6か月目の雑記】15年前に官庁訪問で爆死した話

こんにちは。
お読みいただきありがとうございます。弁護士の古田俊文です。

2023年12月1日にnoteを始めて、6か月が過ぎました。2024年もそろそろ折り返しですね。

実はこれまで、1か月、3か月の節目にnoteの感想を書いてきました。

6か月の区切りということで、今回もnoteの感想的なものを投稿しようかと思ったのですが、特に書きたいことが浮かびません。それだけ、日々の暮らしの中でnoteを書くことが生活の一部になったということかもしれません。

とはいえ、今日のことは一週間後には忘れていると思うので、せっかくなので、本題に入るまでに、この6か月をざっくりと振り返ります。

note歴6か月の振り返り(簡単に)

これまで、投稿してきた記事は、これを合わせて147本になりました。100本を超えたところで毎日投稿することをやめてペースを落としたものの、今でもだいたい2日に1本のペースで投稿を続けています。

昨日(6月6日)時点のビュー数も35,000に迫る勢いであり、少なくない方に見てもらえているのではないかと思っています!!

コメントといいねの少なさは相変わらずです。

ぼくのnoteは、弁護士としての情報発信を目的としており、プライベートのことを書くとしても、その趣旨を念頭においています。

とはいえ、半年以上noteを書き続けて150本近い記事を投稿した中で、一つぐらいは純粋にパーソナルな出来事について書いてもいいだろうということで、本日は、ぼくの15年前の失敗談を振り返りたいと思います!


15年前の今頃の話


今から15年前といえば、2009年6月です。
皆さまは何をしていたでしょうか。

当時大学4回生だったぼくは、国家公務員採用Ⅰ種試験(通称、国Ⅰ)の最終合格発表を待ちつつ、官庁訪問の準備をしていました。

国Ⅰは、今では「国家公務員採用総合職試験」という名前に変わっていますが、いわゆるキャリア官僚の登用試験です。以下のサイトを見ると、試験から採用に至るまでのプロセスは、今と当時で大きく変わっていません。

官庁訪問とは?

実は、国Ⅰの最終合格と、キャリア官僚への登用は、イコールではありません。受験者は、最終合格後に、官庁訪問と呼ばれるリクルーティングプロセスで、どこかの官庁から内定を得なければならないのです。

官庁訪問の内容は、インターネット等で検索すれば様々な情報が出てくるので、ここでは詳しく説明しませんが、ものすごくかいつまんで言うと、約2週間、朝から晩まで霞が関の省庁で缶詰になって、面接を繰り返し、最終日まで生き残れた者が内定を得られるというプロセスです。

人事院が公表している「2024年度総合職官庁訪問ルール」などが分かりやすいかも知れません。

2009年度の官庁訪問

当時の国Ⅰは、最終合格発表日の翌日から官庁訪問が始まるスケジュールでした。控えめに言って頭がおかしいと思います。ぼくは、京都の大学に通っていたので、必然的に東京での宿泊先の確保が必要になるところ、合否がまだ分かっていない段階から、代々木のオリンピックセンターの宿泊施設を予約していました。

調べてみると、2009年度は、6月23日が最終合格発表日、翌日から官庁訪問となっていました。なので、15年前の今日は、官庁訪問まであと20日を切った辺りになりますね。

なぜ国Ⅰを受けたのか?


ご存じのとおり、ぼくのキャリアの中に公務員の「こ」の字も出てきません。そんなぼくが、当時なぜ国Ⅰを受けて官僚になろうとしていたのか、気になられたかも知れません。

15年が経った今だからこそ正直に言いますが、自分がいざ公務員試験の勉強を始めてみたら意外と調子がよく、ワンチャンいけるのでは?と思ったからです。別に自慢がしたいわけではないのです。この「意外に」というのがミソで、もうちょっと詳しく説明させてください。

学習椅子が壊れていたことを8年間知らなかった男

少しだけ、ぼくの人生を振り返ります。少年時代は、スポ少(中学に入ってからは部活)に明け暮れる毎日でした。朝早くに学校に向かい、夜遅くに帰り、家では寝るだけという生活を365日続けていました。

その後、高校には、部活の成績を利用した推薦入試で入学し、大学にはそのままエスカレーターで内部進学しました。

そうして迎えた大学1回生前期の定期試験、小学校入学時に買ってもらった学習机に座って民法総則のテスト勉強をしようとしたときに、椅子のキャスターが壊れていることに気づきます。

イメージです。こちらから拝借しました。

もう大学生にもなって、この学習机はナシだろうと思い、椅子が壊れているので、ニトリとかで新しいデスクセットを買いたいと母親に伝えると、「あんた、その椅子、小学校のときからずっと壊れてたで」と言われ、机なんかめったに使わないんだから新しいのは不要だと突き返されました。

ぼくはその時に椅子が壊れているのに初めて気づいたのですが、よくよく考えると、家で勉強をするという行為が8年ぶりだったのです。

とりあえず公務員

そんなぼくも、2008年の春には大学3回生になり、大学卒業後の進路を考えないといけなくなります。周りは、民間就職の準備をしたり、ロースクールに向けて勉強をしたりしていましたが、ぼくは、公務員になるべく、とりあえず大学のキャリアセンターが主催する公務員試験講座に申し込みます。

理由は、いわゆる9時5時の生活がしたかったからです!!アラフォーの今となっては、公務員の仕事も千差万別で、そのようなステレオタイプなイメージが妥当しないことは十分理解しているつもりですが、当時のぼくにそんな教養はありません。まさに「とりあえず」の選択でした。

公務員試験は難関と聞いていましたが、地方公務員の事務職などを目指して頑張って勉強すれば、たとえダメでも、ペーパー試験の難易度としてはより易しい警察官や消防士なら引っ掛かるかもしれないと思っていました。

国Ⅰいけるのでは?と思い始める

低い志から始めた公務員試験の勉強でしたが、思いのほか順調に進みます。ぼくは法学部だったため、行政職の試験のメインである法律科目の学習の負担が軽かったことと、及び、多くの受験生が苦手とする数的処理(SPIみたいなもの)が得意で演習する必要がなかったことが理由です。

2008年も終わりに近づいてきたころ、予備校の外部模試を初めて受けます。その結果が非常に良く、人物試験はさておき、ペーパーだけでいえば、地方公務員の試験には十中八九受かるだろうというところまで来たことが実感できました。

この辺りから、この調子で勉強をしていけば国Ⅰもいけるのではないかと思い、受験勉強に傾倒していきます。今思い返しても、この頃から翌2009年5月の国Ⅰの試験までの期間が、ぼくの人生で一番熱心に勉強をしていた時期でした。

受験当日のこと


年が明けて暖かくなり始めたころには、完全に国Ⅰを目指しているようになっていました。

当時の国Ⅰは、一次試験(択一試験)が5月初旬、二次試験(論文試験、人物試験)が確か6月初旬にありました。というか、15年も前の試験となると、国家試験でも詳しい資料が見つけられないのですね、、。人事院のWEBサイトも404になっています。

試験本番のことは、大昔のことであまり覚えていません。ただ、二次の面接試験に際して事前のアンケートがあり、いくつかの質問にYES/NOで答えていくのですが、「私からは悪臭が発せられている」のような、質問の意図を察知しがたいものがいくつかありました。あとで知ったのですが、これらはいわゆる禁忌肢で、YESにしてしまうと一発で不合格になってしまう類のものだったようです。今もあるのでしょうか。

あと、人物試験では、学校名を推知させるような発言は一発アウトと聞いていたので、いわゆるガクチカなどを話す際には、気を使っていました。

合格発表~官庁訪問前夜


時は冒頭に戻って、2009年6月です。

合格発表の日に合否を確認して、そこから新幹線で上京しても翌日からの官庁訪問に間に合うと言えば間に合うのですが、ぼくは、お金を節約したかったので、原チャリで東京に向かうことにして、合格発表日の前日の朝に京都の実家を出発しました。

無事合格

東京に着いたのは合格発表日の朝でした。結局、夜明け前に藤沢のネットカフェで仮眠を取った以外はほぼ丸一日ぶっ通しで走り続けて、ようやく到着した感じでした。

そして、合格発表です。詳しい時間を覚えていないものの、確か10時ぐらいだったはずです。ガラケーを使って人事院のWEBサイトにアクセスして、自分の番号が載っていることを確認します。落ちていることはないだろうと思ったので、嬉しいというよりは、長旅が無駄にならなくてよかったという感情が強かったです。

驚きの順位

その後、人事院の特設番号に電話をかけます。試験の順位を聞くためです。正式な成績については、夏ごろに郵送で送られてくるものの、訪問する官庁によっては、面接シートに順位を記載する欄があることから、当時は、人事院に電話をして自分の順位を確認することになっていました。2,3コールの後、職員さんが電話に出たので、ぼくは受験番号を伝えます。

「(受験番号)さんの順位は、えーっと、3番ですね。」

びっくりして、ぼくは「1、2、3の3番ですか?」と聞いたはずです。でも、間違いなく3番でした。

こちらが官庁訪問の惨敗後の夏で送られてきた通知書です。
司法試験の合格証書と一緒に大切にしまわれています(笑)

決戦前夜

前日は、原チャリの長旅で疲れていたにも関わらず、興奮して寝られませんでした。ぜひ、当時のぼくになったつもりで、翌日から始まる官庁訪問を想像してみてください。法律職の3番ってとんでもないプラチナチケットだと思わないですか? さすがにどこかの官庁には引っ掛かると思いませんか?

でも、ここまで読んできて違和感を持った人も多いはずです。この期に及んで、ぼくはまだ、なぜ官僚になりたいのか、言語化できていませんでした。たまたまペーパーテストの適性があって試験に受かっただけで、本当の意味で官庁訪問の準備はまったく整っていなかったのです。

意気揚々と官庁訪問に向かうも、、


いよいよ当日、ぼくは、千代田線に乗って霞が関へ向かいます。

悲しみの官庁訪問レポ

普通であれば、ここからの話が本題だと思うのですが、ぼくの場合はあまり書くことがありません。なぜなら、官庁訪問期間中に回れる3つの官庁とも、全て2日目で落とされたからです(笑)

ある官庁の原課面接では、「きみ、声は大きいけど、話の内容すっかすかだよ(意訳)」と呆れられ、また別の官庁の人事面接では、「今はAの話をしていたよね、どうしてBの話を始めるの?そんな態度だと、誰もきみの話聞いてくれないよ」となじられます。とにかく散々でした。

極めつけは第一志望だった経済産業省で、初日の午前中の面接の出来が悪すぎたのか、そこから夕方に帰されるまで一切面接に呼ばれず、2日目の朝一でお見送りされてしまいました。待合室にいる時間があまりにも暇すぎて、隅に置いてあった観葉植物の模写をしていたぐらいです。

敗因その①:薄すぎる志望動機

惨憺たる結果にふさわしい、敗因だらけの官庁訪問ではあったのですが、一番大きかったのは、既に触れているとおり、志望動機を詰めきれていなかったことだと感じています。

言い換えれば、なぜその官庁に入りたいのか、入って何がしたいのかを明確にしないまま官庁訪問に突っ込んでしまったのが原因です。そんな脳みそがフワフワな状態の奴を面接したところで、評価できるわけがないですよね。

ぼくも、今では採用側の立場で人と接することがあるため、よく分かるのですが、自分の事務所に興味がない人と話しても楽しくないし、盛り上がりません。そうなると、どうしても評価が低くなりがちです。逆に、多少癖のあるキャラの人であっても、志望動機が採用側にとって強く刺さるものであれば、やっぱり話を聞きたくなる(=よい評価を得やすい)ものだとぼくは思っています。

敗因その②:なんだか鼻につく立ち振る舞い

ここまで読まれたみなさまは、きっと、ぼくの面接でのムーブがどれだけひどかったのか気になるはずです。ただ、意外に思われるかも知れませんが、ぼくの国Ⅰの人物試験の成績は、最高評価である「A」でした。

人物試験の採点基準が正しければ、ぼくは国家公務員に最適な人材なはずです。なのに、なぜ官庁訪問の面接は散々だったのでしょうか。

これは、ぼくのやや穿った見方なのですが、面接官が応募者の採否をジャッジする基準は、究極には主観的な好き嫌いだと思っています。嫌いだけど能力や適正があるから採用するという判断は、普通の人はなかなか取り得ません。多くの人は、「こいつ、なんか嫌い、一緒に働きたくない」という価値判断が先にあり、そこに能力が足りないだとか適性がないという理屈づけを行います(とぼくは考えています)。

官庁訪問を振り返ってみると、ぼくは、面接でとにかくアピールして、自分を大きく見せることに必死でした。端的に言うと、ちょっと鼻につく奴だったと思います。もし、あの官庁訪問で、ぼくが面接官側として、あの時のぼくに対峙したとすると、ほのかな嫌悪感から「きっと公務員に向いてない」ということで、低い評価をつけると思います(笑)

補足:学歴問題

あまり面白い話ではありませんが、触れないのも逆に不自然かなと思いますので、ちょっとぼくの考えを書きます。

国Ⅰ(国総)について良く知られている言説として、採用に関して学歴差別があるというものがあります。要は、東大生以外が採用されるのは難しく、難関大学でも枠が決まっており、一定レベル以下の大学になるとそもそも枠が無いというような噂です。

ぼくは、関西の私大出身で、OBに官僚がほぼいなかったこともあり、周りの人に官庁訪問で爆死した話をすると、たいていの人は、ぼくの能力ではなくて、大学名が理由で落ちたんだよといったニュアンスで慰めてくれる(?)ことがよくありました。

ただ、実際に官庁訪問を経験した身からすると、あまりピンとこないんですよね。落とされたショックでバイアスがかかっている可能性もありますが、単純に、志望官庁と自分の性格や特性の間にミスマッチがあり、それが理由で次に進めなかったという感想しかないんです。

何が言いたいかというと、官庁訪問に臨まれる皆さまは、あまり気にせず行かれるのが良いと思います。万が一、その官庁が、学歴で差別をしている場合、それはその程度の組織という話なので、採用されなくて正解です!

その後のぼくの人生

悲惨な結果に終わった官庁訪問ですが、そこから15年のぼくの歩みは、だいたい、こちらの自己紹介に書いてあるとおりです。

官庁訪問後のことをもう少し詳しく説明すると、原チャリに乗って京都に帰りながら、将来のことを改めて考える中で、そもそも公務員になってやりたいことは特にないという結論に至りました。浜松のすき家での出来事です。

公務員試験に熱中していたぼくは民間の就活もしていなかったので、留年して民間の就活をすることにしました。

そして翌年、官庁訪問のトラウマを抱えたまま就活をスタートしたぼくですが、すんなり第一志望の会社を含む複数社から内定を貰えて、あの悲劇は何だったんだ状態になりました。

でも、5回生(留年)というハンデがありつつも、就活で特に苦労しなかったのは、①志望動機をしっかり固めた上で、②採用面接は自分のことを好きになってもらうための「接待」であると肝に銘じて、就活に臨んだからだと思っています。そう考えると、官庁訪問の失敗は生かされていますね。

また、弁護士を目指すという決断をして、司法試験の勉強にまい進していたときも、国Ⅰの失敗と同じ轍を踏まぬよう、試験に受かることを目標にするのではなく、弁護士になってからのことを常に思い描きながら過ごしました。このマインドセットは、受験生活中の精神の安定にもつながりましたし、法律事務所の就活のときにも大いに助けになりました。

というわけで、散々な15年前の官庁訪問でしたが、今となっては笑い話にできるほどに、楽しく日々を送れています。

おわりに


誤解なきようにお願いしたいのですが、ぼく自身は、公務員を務められるモチベーションがないと気づき、今の仕事をしているものの、霞が関の官僚の方々には、憧れに近い尊敬の念を抱いています。

昨今、人気が落ちていると言われている国家総合職ですが、魅力的な仕事であることは今も変わらないと思っています。

たまたまニュースで今年の官庁訪問がそろそろ始まることを知り、この記事を書こうと思いました。もし、これを読んでくださっている方の中に官庁訪問を控えている方がいらっしゃるなら、最大限のエールを送ります!!

お読みいただきありがとうございました。


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