#368C|やっぱり「やりたいんならやる」だけなんだよな|しかしやれない人はどうすればいいのか

今日もnoteを開いた。先日note365日連続投稿チャレンジが終わった。それでもまだ書いている。しゅうかんのちからってすげー。

いま、考えを整理するためにメモ書きをしていたのだけど、頭に浮かんだことの1つを「あ、これnoteに書こ」と思った。

自然な思考の流れでそのように浮かんだので、すぐにメモ書きを中断してPCを開く。きっとあとにしたら書かなさそうだ。

もうこのnoteは書かなくてもいい。のだが、その上で「書きたい」と思う自分(正確には「書くか〜」くらいのゆるさ)を確認でき、なんだか嬉しいと思う。365日は無駄ではなかったのだなと感じられる。(なんでこの流れでそう感じるの?って、そこは理屈ではないわけよ)


やりたいんならすぐやれよ

んで何を残そうと思ったかというと、「やりたいんならやれよ」ということについて。

これはこのnoteを書き始めた最初の頃に題材にあげた。なつかし。

自分としては、今読んでも「いいな」と思える記事の1つだ。書くことは勇気が言ったけれどまっすぐな私の本音であり、自分のやりたいことを表明できた記事だ。


やっぱり「やりたいんならやる」だけなんだよな

で、考えを整理しながら思ったことは。

私はこのnoteを書きながら1年間、ずっと「やりたいやりたい」って言いながらやらなかったことがいくつかある。

やらないことに対して理屈をこねて、いかにそれが自分には難しいか?とやれない理由を語って、かっこつけた表現や過去の傷などを駆使しながら、それを「実際に実行することからは避け続けた」。それもこのnoteに残っている。

それを思い返すと「超恥ずかしい」という気持ちになった。しかしなんでそこまで恥ずかしいかというと、自分が逃げているとわかっているからだ。

「かっこいいところ(結果)」だけをほしがって、「恥をかくこと(試行錯誤)」は怖がっている。実行して自分の至らない現実を見たくない。もしかしたら自分はそのやりたいことを、やる力がまったくないかもしれない。その可能性を確定したくない。これはやらない理由にありがち度100%だ。多くの人がそこから勇気と努力で前に進んでいる。何も「私だけに起こっている特別なこと」ではない。

と、こんなことも過去にも書いてきた。でもこういうことだ。

いい年になって「実際にやりたいわけじゃない」ことを、ただキラキラと憧れて同一化しようとしているのはクソ恥ずかしい。本当はやりたいのに「恥や失敗が怖くて手を出せない」上で理屈をこねて躊躇してんのはクソダサい。

広い視点で見れば「それも人間らしいしOKだろ」と思えるのだけど、自分の現実をリアルな視点で見れば、それでいいんか?と。


やれない人はどうすればいいのか

ごちゃごちゃ言わずに(言ってもいいけど)、さっさとやって決着をつける。そんで次、次。

自我が弱い人はこれができない。のだが、強くする方法はある。それは強くなれるための方法を重ねることだ。(哲学)

何をやればいいかは人によるのだが、「キツイことを一定量がんばり続ける」のは効果が出るケースが多いと思う。1年間毎日、本音で1000~2000字note書き続けるとかね(自分がやったもんだからさっそく言ってて笑う)(でも効果あったのよほんと)

ようは自分にOK出せればいい。自分が崩れない何か強い土台を自分で築き上げられればいい。「安心安全の場」を物理でなく心に築くのだ。それによって不安な挑戦にも向かえるし、敗れても戻る場になる。

自分にとっての安全の場を創るためには、noteを例にするなら人によっては1000日連続執筆が必要かもしれないし、100日でいいかもしれない。どれだけのことがいるのかはその人の意識による。ここがむずいポイント。

でもなにかしら「自分の行動でそれを築き上げる」ことができないと、やっぱり自分の真に迫るような事柄に挑戦することは難しいのではないかなあと。

その築き上げる過程に、共に歩んでくれる人や寄り添ってくれる人、見守ってくれる人がいることで「歩ける」。そんなふうに思う。


ヌルっと「やる」フェーズに

んで私はnoteは1年書いたことで、なんかそういう土台を築けたような。

以前は「『やりたいんならすぐやれ』と言われてもそれができなくて困ってんだよ」という反骨心もあったが、それがほぐれて普通に「やりたいこと、やろう」というフェーズにヌルっと入ったような気がした。

と、思考整理していて感じたこれを、今日は残しておきたかった。

365日目の記事で「内省は終わり」と書いたが、ストレングスファインダーで内省が上位5位に入ってるワシはこれからも内省記事を書くんだろうと思う。

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