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#034|「やりたいんならすぐやれよ」←これ

いや正論なのだけど。「何かを『やりたい』と言いながらもやらない人」は蔑まれる傾向にある。「そういう人の質問に答えてもけっきょくやらない!」といった、怒りや落胆の声を聞いた経験は誰にでもあるのでは。note365日連続投稿チャレンジ34日目は、そんな言葉から連想することを書いたが、熱の入る話題ということもあって長くなった。


口ばっかりだなオマエ

過去、関係のあった個人や中小のコンサル系の方々からは、よく「アドバイスしてもけっきょくやらねーよな」という文句を聞くことが多かった。

「やるやる言ってやらない人」に対して「口ばっかりだ」と切り捨てる、そういう人は強い人なんだと思うし、恵まれた人ではないかと思う。

「俺も昔はできなかったが、努力した。だから努力もせず『やりたい』とだけ言っているヤツが嫌いだ」というのは強者の論だ。

どんな血の滲むような経緯で「やれるようになった」のかは知らないが、しかし、「やれるようになった」のなら、それはもう一律「恵まれている」と捉える方がぜったいにいいと考えている。これは「ノーブレス・オブリージュ」の観点と、「世の中全体がよくなるためには?」という観点からの感覚だ。


私は過去に「口ばっかりだ」と、バカにされたり怒られたりがっかりされた経験が何度もある。自己肯定感は地を這っていた。強い人から見れば私はただのサボり野郎で、おおいに蔑まれた。自分自身でも自分はダメ人間としか思えなかった当時、その無力感は果てしなく、情けなかった。

今はハッキリわかるが、それはただ「やり方がわからなかった」だけだ。逆に、いくら失敗してもその「やり方」をどうにかして見つけようとあがき続けた私を、よくがんばっていると褒めてやるべきだったのだ。

けっきょくその「やり方」は誰に質問してもわかることはなく、気の遠くなる年月をつぎ込んで、結果的に自力で解決することができた(正確にはまだ「しつつある」)(自力と言っても前提は「人様のおかげ」なのは間違いない)


壁を越える

「『やりたいならやればいいのにやってない』ということは、『その結果』に憧れているだけのワナビーである」という判断を持って話を終了とするのは立場によっては正解かもしれないが、それは強者の視点だ。

ワナビー (wannabe) とは、want to be(…になりたい)を短縮した英語の俗語で、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。 上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる。

質問ばかりされる「やっている」側が、「結局やらない」側に絡まれるというのは、ただ「邪魔されている」だけの構図なので、そういった方に対して辛辣になるのは理解・共感できる。

また、「やっている側」は文字通りすでにナニかを一生懸命やっているのだから、「やら(れ)ない側」を「やれるようにするために使う時間なんてない」のも理解できる。

しかし「教える立場にいるような人」は、さらには「サポートする」といってお金をもらっているような人が、「アドバイスしてもやらない」と愚痴っているのは論外だろう。


「やら(れ)ない人」の中には、本当にワナビーと言われてしかるべき人と、まじめに「やりたいけどやれない」で困っている2種類の人がいることに、気がついている人があまりいないのではないか。(「そんな馬鹿な」であってほしい)

もしくは、気がついているが単に興味がなかったり、手を差し伸べるには膨大なコストがかかるから黙っている、のかもしれない。

私は「まじめに『やりたいけどやれない』で困っている人」だったので、同じように困っている人の状況をなんとかしたいという情熱があるし、そういう人はかなりの数にのぼるはずなので、ここをクリアする何かを作れれば世界は少し豊かになると思っている。

「やりたい→やる」の間にある壁を、越えるナニカをつくりたい。


「やりたいんならすぐやれよ」に思うこと

攻撃的なニュアンスを感じる「やりたいんならすぐやれよ」という言葉に対しては、いつも複雑な気持ちになる。

「やりたい対象の『結果』にだけ憧れて、その過程の努力はしたくない」という人が多いのはたしかで、それは「実際に必死に努力している人」にとって不愉快なことはわかる。私だって、攻撃的な物言いで対応してしまうこともある。

しかしいつも忘れたくないのは、そもそも努力自体ができるのは私の表現で言えば「正しく歩ける」からであり、「正しく歩けなくなった」人に対してただ「歩きやがれ」と言うような投げかけには意味がないということだ。

「特定の歩き方を教える」のでなく「そもそも歩けるようにする」必要があるケースに対して、歩き方のバリエーションだけを増やしても意味がない。ましてやそれを伝えるだけで「どや」という態度になっている人には、大いに疑問がある。

我々「うまく歩けない人」がほしいのはまず知識より「おもいやり」であり、そこから手に入る「理解」であって、それをもたない言葉は相手を痛めつけるだけで、なんら公益性がない。

自分が「バリバリやれる人」だからといって、それは素晴らしいことだが、「優越ポジションから叩くだけ」のようなことはやめてほしい。

「歩き出す」ために必要なことはなんだろうか?「目的地」に着くのは遅くなるかもしれないが、世界にはもっと「二人三脚」が必要だ。

シンギュラリティを待つまでもなくGPT-4の出現で「スピード」は任せてしまえばいい世の中になったと思っている。ではなおのこと、我々人間がやる意義があるのは、そういう効率性を手放したモノゴトの中にある。

(もしかしたら、そういう部分の「二人三脚」もAIが担えるようになるのかもしれない。そうであれば問題は解決で、その方が喜ばしいことだ)


どうすれば「やれる」ようになるのか?

この問題が難しいのは、原因がわかりにくい点、症状がグラデーションである点だ。

「純度の高いワナビー状態(なんだそれ)」の人と、「なんとか変わりたくて足掻いている状態」の人というのは、パッキリと別れているわけではない。

他人も本人も、どこにどうアプローチすれば「やりたいことがすぐやれる」ように変われるのか、かなりわかりづらいというのが難しいところ。処方の前に診断が難しいのだ。

この解決には多様なアプローチが必要で、一発でクリアできるということはない。やれるようになるためにじっくりと取り組んでいく必要があって、いつそれが解決するかもわからない。しかし。じっくり取り組んでいればいつかはやれるようになる、と言うことは力強く言える。

だからもし「自分はダメなのかも」と思い込んでいる人がいたら、「大丈夫」と言ってあげたい。

けっきょくどうすればやれるようになるのか?ここで思いつくことは「共に伴走する人がいれば」ということくらいだ。しかしこの部分は「歩けない人」誰にとってもの共通のことだと断言できる。(これは技術だけでなく、「心の伴走者」が必要だということを追記しておく)

私としては、この問題に対して、その人の心をたいせつにした上で、状況を適切に診断できる目を持ち、効果的な解決案を出せるようになりたい。そして、そういった機能を持った泥臭いサービスをいっぱい作りたい。そしてそれらを世の中に散りばめて、困っている人のエンカウント率をあげられたらいいなと思う。

これまで、このようなことを考えている人や、やろうとしている人に会ったことがなかったため、「自分の考えや試みは間違っているのか?」とか、「この先は進んでも詰んでいることが確定している道なのかだろうか?」と自分のやりたいと思うことに自信を持てずにいた。

しかし今、①自分がどんどん変化できるようになりつつあること、②noteセラピー効果で自分自身の解放も進んでいること、③GPT-4を見て「予測」の諦めがついたこと、の3点によって、いい意味で「正解はどーでもいいから信じることをやろう」と思えるようになった。

どんどん手を動かしていきたい。一緒に歩ける人はぜひ共にやっていきましょう。


✑77分|2777文字
+20分|200文字
+10分|100文字 23.3/24編集追記
+10分|24.2/20編集

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