「どうしようもなさ」の中に人間がある|#644S

今日は「ばあちゃんの日」。これは不定期で開催している「祖母と散歩やドライブに行く」というイベントだ。

前回の分は記事に残していたけど、もう5ヶ月も前なんだな。

朝5時から活動して、とても楽しく、そしてめちゃくちゃ強烈な気づきがあったため、今はめっちゃ眠い。

あまり頭が回ってないがしかし、「これだけは残したい」気づきがある。たぶん論理的に書けそうにないが、あとで見返して、この日からの自分の変化を確認したいためにざっくり残す。

読んでくださる方には大変ありがたいが、いつもよりよくわからんかもしれん、ということを先にお伝えさせていただいて。ご容赦ください。


祖母の生家へ

今日はばーさんを(ばあちゃんと呼んだりばーさんと呼んだりはランダムである)生まれ故郷に連れて行った。母と弟も一緒だ。

来年春にはもう歩けないかもしれないなという家族会議のもと、急遽行く先として決まった。死ぬ前にもう1回、生まれた場所を見ておこうぜということだ。

とある観光地の旅館に生まれたばーさんは、「いそがしすぎ&兄弟が多すぎて育てられない」という理由で、生まれた瞬間にそっこーで他の家に養子?に出された。

本当は数年で戻って来る予定だったそうだが、預け先のご家庭が祖母のことを大変に気に入り、そのまま引き取られることとなった。

しかし生家との関係も良好で、旅館の繁忙期には従業員が足りたいために、祖母も、そして私の母も、毎年旅館に働きに行っていたという。

今日はそんな祖母が生まれた家までドライブし、周辺を散歩したり食事したりしたという1日。

思い出話として印象に残ったのは、雪の降る大晦日の夜、すべての扉を開き、寒い中でお客さんを片っ端から旅館内に引き込む祖母の母の話だ。情報量は少なかったものの、空を見上げながら今それを見ているように話す祖母から、私にもその映像がとても鮮明に伝わってきて感慨が深かった。


どうしようもなさ

以前の記事にも同じことを書いたが、もう祖母と過ごせる時間は残り限られている。さらに私、弟、母、祖母、というメンバーでこうして生家に来ることはもうなかろうと思うと、この時間の楽しさとは同時にまた、どうしようもない、なんとも言えない、耐え難い気持ちが湧いてくる。この気持ちはどういう名前なのだろう。

帰ってから、この「どうしようもなさ」についてひたすら考えていて、一つの結論を得た。これが残しておきたい強烈な気づきになる。

私は祖母にいつまでも健康に生きていてほしいがそれは叶わない。同様に、母も弟も元気でいてほしいがいつかは死ぬ。私自身も老いていき、機能が低下し、頭は朦朧としていく。

こうしてみんなで紅葉を見て、お茶を飲みながらなんの気なしに談笑して歩くことも、今後の人生でそんなに多くあるわけでもないだろう。

すべてが失われるものなのに、しかしなんとしても永遠に続いてほしいような気持ち。もう本当にどうしようもない。人間というのは。生きているというのは。いい時間というのは。どうしようもない。

そうしてひらめく。


ここにこそ人間がある

そうか。この「どうしようもなさ」の中にこそ、人間があるのだ。

もし無限に生きられたなら、ここまで切実な何かを感じることはないだろう。すべてに終わりがあるからこそ、なにひとつ止まっているものはないからこそ、こうしたどうしようもなさを感じるのであるから、これをどうにかしてしまいたい、できれば感じたくないようなこういった気持ちこそが、「人間」をやっている理由であったり、その深い醍醐味の1つであるのだ。

生きていると色々な「どうしようもなさ」がある。それは衝動的な、快楽的な、辛苦的なものたち。

衝動的などうしようもなさというのは、どうしてもあの場所に行きたいとかこれがやりたいといったもの。どうしようもないほど快楽的なものとは、めちゃくちゃうまい料理とか美しすぎる景色とか心奪われる音楽であるとか。そして、どうしようもなく辛かったり苦しいものというのは、もうそのままの意味で。

それらを感じることが人間をやる醍醐味である。さらに言えば、ひたすら没頭するような衝動よりも、いくらでも味わいたい快楽よりも、できれば避けたい、辛苦的などうしようもなさ。たとえば家族との死別から納期に間に合わない仕事まで。その苦しさ、ここにこそ、「人間」があるのではないか。

さらにさらに、それを受け入れること、受け入れた上で意志を持ってそのどうしようもなさの中に浸かって動いているような時こそが、最大に「人間」をやっている時なんじゃないだろうかと。

そうであるなら、これまでなるべく避けたいと思ってきた「辛さ」「苦しさ」それらにかんれんする「苦」こそが、人が生きる醍醐味であり、人間として生きている1つの答えであり、人生からのもっとも深い贈り物であるのではないだろうか。

このように思った時、なんだか過去に起こった苦しかったことのすべてを、そして未来で起こる苦しいことのすべてを、許し受け入れられるような気持ちになった。おお、これは一種の悟りではないのか。私はまた一歩真理に近づいてしまったのか。


おわりに

とまあこのような発見があって、これは大変個人的な解釈、感覚の話であるから、他者に伝わるとは思えないが、私としてはとても納得の行くもので自分の中に揺るぎない芯が1本通った気がしている。

「苦」を歓迎して生きるということ。むしろ、その中に突き進んでいくこと。さらにはそれをも愛すること。そして味わうこと。

嫌なこと苦しいことも否定せずそれが生きる醍醐味として受け入れて生きられるなら、何があってもどのようであっても、「イマココ」で人間は「完成」している。この前提に立つとまた見えるものが変わる。

これでまた生き方が変わるなあと、今日を境にしてどうなっていくのかがまた楽しみだなあと思う。

これからも観測を続け、このnoteに記録していく。

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