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#016|相対主義を超克し、共通の地平を築く

建設的な結果に至るためのコミュニケーションのスタイルは2つで、それは相手を人間として尊重して対話することから始まり達成される。

note365日連続投稿チャレンジ16日目。今日はあらためて大切にしたいと思った=力を入れていきたい「コミュニケーションの仕方」について。

私がコミュニケーションで大切にしていること

コミュニケーションとはなんだろうか?私は自分の仕事というのは突き詰めれば「コミュニケーション」だと思っている。

コンサルティングもカウンセリングもコーチングも根幹は良質なコミュニケーションだ。4つのCなどと言われたりするが、この「3C×1C」を個別バラバラでなく統合的に極めて行きたいという気持ちがある。衣食住が充足した世界で足りていないのは本当の意味のコミュニケーションで、この心や技術がもっと世に広まっていくといい。

アタリマエだけれど「ただ話を聞く」ことや「ただ話す」ことはコミュニケーションではなく、その時の「態度」が大変重要だ。

ブーバーの言う「我-汝」「我-ソレ」という話がわかりやすい。相手を同じ人間、というか生命だと尊重して接するか、相手をただのモノだと思って接するか、という態度の違いが、何をどう話すか/聞くか、ということよりもまず絶対的に重要だ。

その上で、技術的な観点で心がけていたいのは、ソシュールの「シニフィアン」と「シニフィエ」の違い。これは"表象"と"意味"という違いで、たとえば「バカ」という言葉を表象とすると、その意味が「侮辱」なのか「友愛」なのか、人により時により異なる。

相手が言う「りんご」という言葉が、自分が思う「りんご」であるかはわからない、という態度としての慎重さと、相手の言う「りんご」とはどのようなものだろうか?というシニフィエをわかろうとする丁寧さを持つことが、齟齬の少ないコミュニケーションのための技術として役に立つ。


なぜ悲しいのか?

「コミュニケーションの作法」は山のようにあるが、技術や知識だけを駆使してコミュニケーションを取る人に空虚さを感じるのは、そもそも相手から見てこちらが「相手の何かを満たすだけの道具」として扱われているからであり、かんたんに言うと「対話」になっていない時間が続いていくにつれ心が悲しくなっていくのだ。

ただし、これは「相手だけ」の問題ではない。こちらも何かしらの働きかけにより、相手にとっての自分が「ソレ」から「汝」に変わることはできうる。人によってとても難しい試みだが、相手が自分を尊重していないからといってこちらも相手を見限ってしまうという心の態度が、「相対主義の殻」に閉じこもるということであり、この時、自分もまた相手を「ソレ」として扱っているということになる。※もちろんトラウマレベルの状況は別の話


全員、相対主義者

相対主義者というのは一見、とてもいい人で人畜無害であったりする(ここに書くのは一例です)。どんなことも受け入れて、ニコニコしている。しかし、それは「私は私」「あなたはあなた」であり、「自分の考えを押し付けるのはよくない」という意見でもって「あなたの解釈はそうなんですねー」というところから先へ進まない。これは本質的に「相手に無関心」であるというあり方だ。相手のことを受け入れるのでなく、耳を閉じて目をつむり、自分の殻の中に閉じこもり、本当は相手のことなんて見ていない。

相対主義の度合いが強い方と話していると妙にむなしくなるのは、どんな意見も「そうなんですね」とおだやかな笑顔で聞いてくれているのだが、そこにちっとも心が通いあっている感じがしない、自分の世界が届いている気がしないし、相手の世界がさっぱり感じられないからだ。

ちなみに、私もあなたも、多かれ少なかれ誰もが相対主義的だ。オルテガの言う「大衆」という性質が人間が誰しもが持つ特性であるように、「自分は相対主義じゃないよ」と思った瞬間、相対主義化してしまう。だから逆に、自分は相対主義者かもしれない、とさきほどの説明で思ったとしたら、それが普通だと安心してほしい。私もあなたも、相対主義者。たいせつなのはその上でどうするか?になる。


建設的なコミュニケーションとは

建設的なコミュニケーションのために重要なことは、自分と相手の地平を共有すること・そうしようとする試みだ。

「地平」とは、ある集団や文化圏において共有されている理解や認識の限界や範囲のことで、人それぞれに持っている考えや感じ方だ。この「地平を共有する」とは、かんたんに言えば「自分の考えに閉じこもらず、わかりあおうとする」試みだ。

それは「私は私」「あなたはあなた」という孤独な場所から勇気を持って出ていき、私とあなたの違いや共通項を見出しながら、新しく築き上げられそうなナニカを探し創り上げようとする試みだ。これは非常に疲れるし傷ついたりするが、この努力をやめてしまうと、そのコミュニケーションから「本質的なナニカ」を生み出すことは難しくなる。

私がコミュニケーションが仕事になっているのは、対話により相手に何かを持って帰ってもらえているのは、この努力をしているからだと思っているし、こうした仕事がずっと続いていることがその証明だと感じる。

しかし、いつでもそんなタフな取り組みができる時ばかりではない。そんな時にも、自分が態度として「我-汝」の関係を築けるようであろうとすることでコミュニケーションは成立し、その時間に「ナニカ」をもたらすことができる。必ず新しい地平を築けないといけないということはない。

言い換えると、このようにして相手の話しを聞くことは本質的な傾聴であるし、アクティブリスニングでもあると思っている(この意見が正しいと言いたいのではない)


知識や技術が、無駄になる時・活きる時

良質なコミュニケーションにおいて、単純に「広い知識や技術を持っている」こと自体は有効ではなく、その根底に「相手と共通の地平を築こう」という態度がなければ、それらはどこまでも「上滑り」になる。

その態度がない上で、たとえば「相手にわからせてやろう」という気持ちで話される知識が、仮に自分にとって必要なものであったとしても不快でしかない、ということは誰しも経験する。

そうではなく、自分の地平と相手の地平を行き来するために今持っている知識や技術を使おうとした時、それは輝く。コミュニケーションにおいて、これまでに学んできた知識技術は、このような仕方で活かすことで双方にとって本質的な価値を生む。

この結果がたとえ感情的には辛いものになったとしても、その内実にはとても重要な、「生きている価値」とも言えるようなエネルギーの動きが起こっている。


相対主義を超克し、共通の地平を築く

まとめると

a1.相対主義という「自分は自分、相手は相手」という殻に引きこもり、相手や世界に無関心になることをやめて、外に出る。
a2.相手を知り、自分を伝え、自分とは異なる価値観や考え方、互いにとっての新たな発見を得ようとする。
a3.自分はこれが大事・こう思う、という主張と、相手のそれを合わせ、よりよいものが生み出せないか試みる。

b1.これらの際、相手を同じ人間として尊重した「我-汝」的なる態度で、シニフィアンとシニフィエを意識し、相手の地平を理解しようとし、自分の地平(知識経験)から相手に言葉を届けることを意識する。
b2.これらを踏まえて学ぶ。色々な地平を理解でき、相手と共に色々な地平に移動していけるような力を磨く意識を持っておくと、どんな会話でもその1つ1つが有意義な機会になりうる。


「コミュニケーションは大切だね」という時、私はこういった行いを心がけ実践することをたいせつだと感じている。また、こういったコミュ二ケーションを取れることはリーダーの1つの資格でもあり、これが世界を平和へ進ませるためにも重要な姿勢だと思う。

相対主義の甘い誘惑を乗り越え、勇気を持って自分と相手の地平を共有する。そして、やりとりする以前にはこの世界のどこにもなかった私とあなたとの間での新しい発見や状態に至れたなら、そのコミュニケーションをする前よりも後の方が、1mm世界がよくなったと感じられる。


✑120分|3391文字

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