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#152|こんな少年だった

自分の過去を整理するために、昨日から久しぶりに「私について」シリーズを書いている。今日は20歳くらいまでの印象に残っていること(主に商売の思い出話になった)。note365日連続投稿チャレンジ152日目。

▼昨日は10歳くらいまでの子供の頃の話

▼以前に書いた私のネガティブな面の記事は下記


探検、インターネット、なんちゃって起業少年

10歳~20歳くらいの頃は何が好きだったか?

秘密基地作り、冬にコンビニの裏の室外機の温風に当たりながら温かいものを飲むこと、ゲーム作り(RPGツクール)、1人で街に出て知らない道や場所を探検すること、行きつけの店を作ること、アクセサリーと服、人を驚かすこと、プレゼントを考えること、世の真理について対話して深めること、携帯電話、インターネットで知らない情報を知ること、24時間耐久◯◯(トランプとか自転車旅とか)、ホームページ運営、バイクの改造、アイデアを試すこと、知らない場所のドライブ、夜に大人数で食事をすること、商売。


昔を思い返して驚いたことは、私の今の「探検好き」という特徴は、かなり早いうちからのものだったこと。気に入ったお店の店員さんと仲良くなり、常連化するのも11歳の頃からだったのだ。

学校の宿題は大学生を雇って仕上げていたので私には学がないが、その当時の自分には「学業が必要な理由を納得させてくれる」大人がいなかったため、「とにかくクリアすればいいんだろ」という発想だった。英語や数学のテストは4点とかだったよ。(でも国語は100点だったのも極端さだ)みんなが勉強している時間で、私は商売をして遊んでいた。

携帯電話がカラーになり、インターネットも普及し始めた時代だったのでそこに熱狂してのめり込んでいき、起業という言葉を知って「俺も起業するぜ」と言い出したのが16歳頃で、威勢とアイデアだけでアレコレ手を出しては継続ができずにやめていった。


商売第2フェーズ

昨日の記事で書いた9歳での初商売のあと、こっぴどく凹まされた私は商売に対して「自粛モード」で何年も過ごしたが、15歳くらいから復活して20歳頃までやった。

復活したのは「ヤフオク」を知ったのがきっかけだった気がする。日本中の人と個人売買ができることに仰天し、取引のために自分の銀行口座を開設した時には大人になった気がしてドキドキした気持ちは懐かしい。

余談だが、私が初めて取引のために作った銀行はイーバンク銀行。現「楽天銀行」は、昔「イーバンク銀行」だったことを知っている人はもう少ないかもしれない。


物販の思い出

物販では「仕入れをいかに押さえるか」というのは重要なポイントだが、100均ができ始めた頃でもあったので100均から買ってきてヤフオクで1000円で売る、みたいなこともやりやすい時代だった。最初の物販参入では、9歳の頃の応用で、「仕入れの差額」で儲けを出した。

また、その頃は私の周囲はみな単車が好きだったので、ヤフオクで壊れたものを仕入れて修理して出す、という「付加価値をつけて利益を稼ぐ」というやり方も習得した。


このころは服やアクセサリーも好きだったので、格安のショップで買って、イケてるなと思うコーディネートで売る、ということもやったが、服は撮影と梱包がめんどうくさくてやめた。

輸入もした。海外からレアなアイテムを見つけたら仕入れてヤフオクに出し、再出品を連続しながら売れるのを待った。しかしそれがようやく半年後に売れる、という感じで回転が遅く、在庫ができるのが嫌でやめた。(もちろん輸入物が全て回転が遅いわけではまったくない)


「付加価値をつける」という意味では、私は同一商品の全出品者の中でもっとも高値で売るのが得意だった。ライティングが勝負だと考え、紋切り型のテンプレ文で出品している人が多数の中で、心を籠めた文章を書き、高くてもコイツから買いたい、と思ってもらう工夫をするのが楽しかった。

これは今でもすごいと思うが、本当にだいたいいつも一番高く売れていたので、もし物販を続けていればそれなりの会社になっていたんじゃないの?と思う(たられば男)


Web系サービスの思い出

そんな感じで物販をやりつつ、インターネットの可能性にテンションがぶち上がっていった私は「ホームページ」に希望を感じ、ここも色々と試した。

一番アホだった思い出は、「出会い系サイトを作れば収益が出るのではないか!!」と考えて、オーネットみたいなのを作ろうと考え、たしか「魔法のiらんど」で奮闘したことだ。(知ってるかな)

登録特典のために「美女と出会うためのノウハウ集」を書き上げて配布したり、最初は女性がいないために友人知人にサクラを頼んだりなど(鬼の1メッセージやりとりで300円!報酬高すぎw)、16歳ゆえにできる無邪気さと発想でのびのびと取り組み、しかしさーっぱり人が来ず収益は出なかった。構造はよかったが、集客のためのSEOは死んでて、成約するにはデザインが致命的だったな(気づけよw)

しかも、出会い系サイト登録料金の振込先は「トマト銀行」。これは実際に岡山にあるローカル銀行なのだが、怪しさ満点だw(実際に「トマト銀行なんてあるわけないでしょ」「詐欺でしょ」と言われた)


ブログが流行りだした初期だったのでそれももちろん始めた。WordPressではなく、むーばぶるたいぷって言うのが主流だった頃だ。

アドセンスが日本に入ってきた時にはすぐ審査を出した。たしかシーサーブログで12記事、学校の日常生活と学生の思い、みたいな投稿してGoogleに申請したら通った。アドセンスも最初はそんなゆるさだった。

それでどんどんブログを書けばよかったものを、その時はクレジットカードのアフィリの手法を聞いてその邪悪さに私のクソ正義感が沸騰し、「こんなクソみてえな仕事やってられるか!」と「サイト広告で収益を稼ぐ」という行為自体をやめた。若いのう。


その他いろいろ

他にも色々なスモールビジネスを試し、18歳の頃には月の収入が50万を超えていた。そのお金で車も購入したが、これもヤフオクで個人営業の車屋から。自分で大阪まで取りに行って手続きも全てやった。

車の購入の際には徹底的にチェックポイントを調べ上げてから売買した。「中古の個人売買であればどこを見なければならないか?」などをぬかりなく調べてリストにしていった。

その個人売買の経験を応用して勝手に「車の中古販売」も行うようになり、売上規模が子供の遊びではなくなっていきそうなところで、暗黒期が到来した。これは次の20〜30歳の記事で書く。


インターネットは明るかった

「なんで子供の頃からそんなにいろんなことができたの?」と聞かれることがある。

私が思う理由は3つで、1つが好奇心が強いのと本を読むのが好きだったこと。1つが環境で、友人に個人事業や会社をやっている両親が多かったことからの影響。そして最大の理由が当時普及し始めたインターネットの恩恵だ。

当時のネットはまだマニアックな人の比率が多かったように思う。様々な知識を知ろうとして色々なことを聞いてくる「子供」をおもしろがってくれる大人も多かった。教科書には書いてない、先生は知らない、対面で聞いても教えてくれない、いろんな「リアル」な情報を教えてもらった。(もちろん騙されたりもした)

たとえばヤフオクの取引をしていたらクレームをもらい、応対していたらわざわざ指導の電話をかけてきてくれる人なんかもいた時代だった。

「お前ほんとに子供なんか」「16歳です」「たしかに若い声やのう」「はい、すいません」「子供言うてもそんなやりとりしてたらダメや。こういう時はこういうふうに答えなアカンで」「アザス(メモして次に活かす)」といった感じだ。

ヤフオクの評価なんて「非常に悪い」を何十件もらったかわからないが、それでも買ってくれる人はいたのも時代か。


なぜ10代にやったビジネスは続かなかったのだろうか?

この頃の私を今見ると、敗因は「PDCAが回せないため、きちんとした事業モデルを作りきれなかった」という言い方になる。始めの勢いはいいが、改善ができなかったのだ。

困難に当たってからが何事も勝負だが、アイデア任せではクリアできない。そこを改善するための粘り強い活動が苦手で、うまくいかなかったらやめて別のアイデアへ、という動き方だった。このあたりに私の限界があって、子供の私は多少は機転が効いたと思うが、しょせん子供レベルの才能だったのだ。

同時に、「自己肯定感がすこぶる低い」面が邪魔をした。うまく行っている時はいいが、いかなくなると途端にダメになった。


明日は30歳までの「私について」。


✑110分|3400文字

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