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#028|私について : 不快過敏症

今日は自己紹介的な内容であり、このnoteを書いている理由とも関連する、私の生い立ちの「ネガティブ面」の話。これまでで一番の長編になった。

この記事を書いた問題意識としては「他者のネガティブな感情に対して過敏すぎる」点をどうにかクリアしたいという気持ちから、noteセラピーに期待した365日連続投稿チャレンジ28日目。なお、「不快過敏症」とは私が勝手に書いた言葉で実際にあるのかは知らない。


私は引きこもりだったが外に出ようと努力している

私は2021年まで本質的に引きこもりだった。今はようやくじわじわと外に出始められている状態だと認識している。

私を直接知っている人に、引きこもりだと言っても信じられることはない。なぜなら、私は普通に外に出られて、人と積極的に会話ができる。小さな会の企画から人前に立ってのスピーチ、知らないお店の店員さんや偶然居合わせた馬の合うお客さんと仲良くなるのも好きだからだ。

では、なにをもって「私は引きこもりだ」と言っているのか?いくつかの点から言えるのだけど、今日はその1つについて赤裸々に書いていく。

今日の内容もまた、もし仕事関係者に読まれたらどうしようか?と心配になるものだが、そういうのも全部出すのがこのnoteの取り組みだと、腹を決めている。


私的「引きこもり」の定義

引きこもりの定義も人によると思うが、人によっては私のような人間が引きこもりだというと怒る方もあるかもしれない。「お前は恵まれすぎていてわがままなだけだ」と言われたこともある。(私の「ポジティブ面」を見るとそう思うかもしれない。今日は「ネガティブ面」の話)

なぜ私は自分を「引きこもり」と思うのか?20代の頃に「鬱で外に出られない期間があった」こともあるが、そこから回復したあとも、一昨年まで私の活動のフィールドは徹底的に「お互いの顔が見える範囲内」だった、ということが1つの理由だ。

「誰に自分の情報が届いているのかがわからない領域」を「表(=おおやけの場)」とする場合、私は表には絶対に出たくなかった(実際に出られなかった)。1対Nのやり取りがずっと怖かった。

証明になるかはわからないが、私はずっと自営業でWebに関わる仕事をしてきつつも、これまで自分のメディア(=オンラインとオフラインの「私」が一致するメディア)を持つことができなかったし、たとえば自分の商品をWebで広く見込み客にセールスすることもできなかった。これは同業者が聞くと信じられないことだと思う。

これを克服するために、2022年からいろいろな発信に挑戦しているのが現在の状況だ。参考:2年目 | 目標宣言


「過敏すぎる」問題

そういった意味での「引きこもり」状態、その原因の1つに「どういう理由であろうが、他者が不快になっている状態が極端に苦手」というものがある。自分が原因であろうがなかろうが、場にそういう人がいることが耐え難い。自分が原因であればなおのことだ。

1対1をはじめ、顔の見える人数・範囲のやり取りなら、そうなっても自分の努力でクリアできうるという希望が持てるのでコミュニケーションが取れる。

しかし不特定多数のやり取りでは、①今この瞬間に不快になっている人がいるかどうかがわからないということ、②それをケアすることもできないということが怖い。自分の発した言葉が知らない人にまで届いて、その人が苦しんでいる、なんてことが起こったらどうしよう。恐ろしすぎる。

わかりやすく書くと、私は「ものすごく人の顔色に左右される」のだ。書いて情けないが、理由問わず悲しんでいたり怒っていたりする人がいる場合、なんとか解決しなければという焦りが生まれる。

さらに、「自分の何かがダメだから相手が不快になっている」という罪悪感と焦燥感がセットで沸き起こる。まるで「人を不快にさせることがこの世で一番の罪」と思い込んでいるようだ。

今は発生したそれらの気持ちのコントロールはできるが(自分が本当に原因かどうかなどの把握はできる)、未だにしんどいことには変わりない。


理由は「もともと×環境」

こうなるのは、自分のもともとの特性と、育った環境による掛け算だと思っている。もともと「繊細さん」と言われるタイプだと子供の頃を思い返して思うし、毒親や毒環境(造語)で育ったという事実もある。


あらためて幼少期を思い返すと、我が家では両親祖父母が包丁を振り回して家具に突き立てながら喧嘩するような家だった。子どもながらに、さすがに相手に包丁を突き立てるつもりはないだろうと予想していたが、心の奥では、もしかしたら大好きな家族の誰かを失うかもしれない、という恐れを抱いていたかもしれない。母はたびたび発狂し、父は日常的に私を無視した。

喧嘩が起こるのはほぼ100%、祖父の理不尽な言動が発端だったと思っているが、つらかったのは、私は祖父のことも大好きだったこと。また、家族全員が祖父を疎んでいることが悲しかった。

しかしなにより、定期的に起こるその騒ぎを止められない自分は無価値なんだ、と感じていたことが私の問題の根本だと思う。

そしてその感覚を加速させるように、両親から揃って「お前は何もできない人間だ」と扱われた。私の個性やアイデアは異常であり(たしかに異常だったかもしれないが)、常識に従えない私は「他所様と比べて残念な不良品」と言われた。

エピソードを挙げると、私が小学生の頃にお金をためて買った父へのプレゼントを手渡した時にピクリとも変わらなかった表情は記憶に焼き付いているし、そのプレゼントは目の前で捨てるように弟へと回された。ある日には、弟に向けて「あんな人間にだけはなるなよ」と話している父の言葉を聞いた。なんと私はそんな父のことも好きだったので、「彼にとって何も価値がなさそうな自分」であることもまたつらかった。母がつらい想いをしているのも自分のせいだと思っていたため、本当に自分はダメなのだなと信じて疑いなかった。


幼少期をそのように過ごし、少年期になるとなかなかバイオレンスな環境であったので、そこではダイレクトに体に恐怖が刻まれていった。あまり人が経験することのないであろう、漫画に出てくるような話が日常だった。

骨を叩き折られたり、寝静まった夜に自宅に襲撃を受けたり、友人が拉致されたり、工事現場で強制労働をさせられたり、信号待ちをしていて意図的に車で轢かれたりしたことがある人は多くないハズだ。

法治国家ってなんだっけ?という生活で、警察に行けばさらに襲撃されるのも事実だったことと、どうあれ人に頼るなんてダメなことだと思い込んでいた。

少年期でもっとも恐怖だったことは、自分の言動により周りの人間が物理的な被害に合うことだった。自分自身の痛みも嫌だが、自分がミスをしてしまった場合に家族や友人が暴力的な被害にあうことが恐ろしかった。皆を守る力もなく、心底暴力を怖がっていた自分が絶望的に惨めだった。


今こうして、普段は忘れている昔の恐怖体験を思い出しながら書いていると、心臓はバクバクしてくるし、手足の血の気が若干引く感じや吐き気までしてくる。ということは、やっぱり大きい傷跡として未だに残っているのだ。気づくことができれば、ケアしてあげられる。こうして書き出してよかったと思う。

こういった理由から、私は「誰かが不快になるととても緊張する子ども」だった。「人を不快にさせたらおそろしい出来事が起こる」と認識が歪んだのだろう。逆に、私を思い通りに動かしたい場合は「不機嫌になる」だけでOKだったので、少年期はそのことに無意識的に気がづいている人間とやりとりするのもしんどかった。

もろもろを通して、常に「自分はダメな人間だ」と心から思っていたので、その思い込みによって諦めた夢が何個もある。引きこもりを克服できたら、20年遅れだけど挑戦してみたい。


一般的な職場は全滅し引きこもりが完成した

そんな面から、一般的な職場に勤めることもできなかった。私の経験した全ての職場では日々誰かが不機嫌になっており、それにあてられて体調が悪化する。

私は小学生の時から自分で商売を始めたので就職をしたことがないが(こちらは私のポジティブに見える面だ)、バイトは色々なものをした。しかしそれらが続いたことが1度もないのは、この過敏さも大きな原因の1つだと、今は思う。私は人が不愉快になっている場に耐えられなかった。

この特性は世間では「とんだ甘ちゃん」であり、「社会人失格」であり、「ダメ人間」と言われ、自分でもそのとおりだと思って自分を責めて過ごしたため、自己肯定感がすこぶる低い。

近年はHSPといった言葉も広まり、このような過敏さに以前よりも理解のある時代になったことを嬉しく思う反面、私が子供の頃にそういう言葉があれば、あれほど地獄のような気持ちで過ごす生活ではなかっただろうと思えて少し悔しい(んなもんしょーがないのはわかってる)

なぜ世の中の人は平気(なように見えた)で生きていられるのか。幼少の頃から20代になってもずっとそれがわからず、めちゃくちゃに苦しかった。なぜ人間同士、お互いに敬意を持って対話を交わすことができないのか?相手の話を聞くことなく要望だけを大声で叫ぶのか?傷つけ合い文句を言うだけで本質的な問題を解決せぬまま日々を消費していくのか?大いに悩み続けた。


かくして私は、家には居場所がなく、アンダーグラウンドな場所では身の危険しか感じられず、社会の方々とも折り合うことができずに、恐怖と孤独感ばかり深まり「知らない人」と関わることができなくなっていった=引きこもっていった。

それでも10代は若さもあって、好き勝手に生きていた部分もあり楽しい時間も多かったが、20代に入ってすみやかに鬱になり、ほぼ10年をまるっと棒に振った。私は今でも自分が10年分の時間をロスしている感覚があり、自分のことを随分と幼く感じる時がある。


よかった面

ここまで書いて、私がさも特別に劣悪な環境で生きてきたように思われるかもしれないが、べつにそれほどでもないし、そういうつもりもない。私の境遇よりもひどい中で、しかし健全に生きていた人もまた、いくらでもいるだろう。

とはいえ、「だから私が苦しんでいたのはいけないこと」「もっと我慢しなくてはいけなかった」わけではないと思えるようになったのは、自分を責めなくてもいいと自身に対してもやさしく接してあげられるようになったのは、最近のことだ。

そして、このような一面を持ち、このような経験をしてきたおかげで私は「絶対に人をたいせつにする」という気持ちが骨の髄まで染み込んだこと。同時に「たいせつにする」には現実的に自分がしっかりする必要がある、という気持ちも育ったこと。そうして、私の理想である「強くてやさしい世界をつくりたい」という想いが生まれたこと。

それらは自分の生き方やコミュニケーションの全体に反映され、仕事で言えばそこが差別化要因であり付加価値となって支えられている。

幸いなことに、2022年に引きこもりを脱する決断をしてから1年少し。ようやく自分のことを好きになれてきた今は、「この人生でなければこうはなっていない」と考えられ、理不尽な出来事の数々も受け入れていけそうに思う。


現在の課題と、克服する覚悟

しかし最近はこの心の動き方に弊害を感じる機会が増えた。歳を重ねたことで自然に「人に耳が痛いことを伝えなければならない」シーンも増え、仕事でもその他でも、チームを作り運営する際などでも、伝える必要がある内容を「相手が不快になりそうなので伝えられない」ということは大きな問題だ。

私はサービス提供者やお店の経営者から、マーケティングや人生的な相談を受けることが本業だが、相手が落ち込んだりする内容を伝えることには本当に苦心する。しかし、仕事として頼まれているケースでならまだ耐えられる。

問題なのは、べつに相手から「指摘してくれ」と言われているわけではない場合だ。しかし、それを伝えた方が絶対にその人やその場の将来や環境はよくなると思えるような事柄。それは私の勝手な判断であることを踏まえつつ。特に身近な人であれば伝えてあげたいのが人情だが、しかし、絶対に気分は悪くなるだろうな、と思うことに関しては、とりわけ精神を消耗する。

そして、この2日間で立て続けに起こった「伝えたいけど不快にさせるのが辛い」という出来事から、なぜか「今この問題を乗り越える時が来たんだ」と感じた。

私は相手に誠意を持って言葉を発することを前提に据え、相手から「不機嫌になる自由」を奪わないでいられる強さとやさしさを持って、そこにあれるようになりたい。これはいつも心がけていることだけれど、それを現実にハッキリと表現できるようになるために、この過敏症を克服する。どうやればいいのかは概ねわかっている。必要なのは、それを「本当にやる覚悟」をすることだ。そのために、この内容を書いた。


最後に、これを書いてみての発見は、このトラウマと言われそうな幼少期の経験について誰かにおもいっきり話して受け入れてもらう必要があるかもしれないということだ。

ただ、なかなかそれを「話せる」と思える人はいないものだ。職業がそうだからといって安心できるなんてこともなく、心理カウンセラーにかかりたいとは思わない。昔何度か精神科にかかったことがあるが、どの先生も話を聞いてくれている感じがまるでなく余計に傷ついた。そういうこともあり、まずは自分で自分を受け止める。そして、話したい人に出会えたら、お願いできると嬉しいなと思う。


✑245分|5355文字

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