全部自分のせい|#580S
気軽な雑談中に一変して本質論的な領域へシフトされ、心のギアチェンジが追いつかなかった日。大変よい気づきになったので、今日はその出来事を残したい。
全部自分のせい
今日の流れとしては、人との他愛もない会話の中で、「なかなかうまくいかないよね」的な話題をあげたところ、そこへの返しで「それも全部自分のせいだからね」「その状況をそのように見ているのは自分自身なんだよ」といったガチの一撃が放り込まれ、なんというか面食らうということがあった。
世間話でよくある「◯◯がうまくいかないんだよねー」みたいなテンションのやりとりに対して、とつぜん本質的な返答をするってのはちょっと「罠」っぽくない?言ってることはごもっともだけど、それをこの文脈で言っちゃう?ていうか、あなたの方からその話を進めてきたじゃないですか、と。
A「うちの部下がなかなかむずかしいんですよ〜」
B「そうなんですね〜。いやーうちも大変で」
A「それは全部自分のせいですよ。あなたがそのように部下を見ているからそうなるんですよ」
B「ファッ!?」
みたいな展開だ。
こちらB側としては、Aさんから色々大変なことあるよねみたいな世間話的な話題を振られたと思ったため、私もそういうノリの話をしていたのだが、まさかのどんでん返し。
これ今、どういう状況?なんで私が「オマエは芯が通っていない」「まだ肚が決まっていない」とか言われなきゃならんの?驚きと混乱と怒りと悔しさが心ににじみ出てくる。
ただ、これは私側の視点だ。
相手からすれば、私がずっと愚痴愚痴言ってるように聞こえていい加減にせえよと感じたのかもしれないし、Aさん自身は自身の使った言葉が私のような受け取り方をされるとは想定していなかったかもしれない。(別の意味で使っていた可能性)
大事なことは1つ
そんなことより大事なことは。
「過程」や「構造」や「本当は何が伝えたかったのか?」といったことはある意味どうでもいい。でも、「全部自分のせい」というのはその通りであり、ここは私にとって非常に重要な点だ。
私はたしかにその雑談の中で、「"人(自分以外の何か)のせい"にした心の姿勢で話を展開していた」こと。これは完璧な事実だ。そしてそんな自分が認め難い。
この状況の解釈を変えてみれば、私には自分が変化したい気持ちがあって、現状を楽しみつつ達成したい理想もある。そんな自分からすれば、この出来事は理想に向かうための素晴らしい「きっかけ」として訪れたチャンスなのだ、と見ることもできる。
Aさんに言われなければ気づくことはなかった、言われてみれば当たり前にわかっていること。それを日常的に意識して生活することはないもので、しかし意識できていなければ変わることはできないようなもの。とても絶妙な隙間に収納されている致命的な欠陥みたいなもの。
今回の出来事がなければ当然、今もいつも通りに過ごしているだろうし、その延長線上には「今まで通り」の生活があっただろう。(実際にはそれはまったくわからないことだが)
それをこうして拾い上げてもらえたという事は、何かしらの変化に向かえるチャンスの巡りであり、そう捉えるならむしろ、今日はバチバチの大当たりを引いたような気持ちにすらなった。
どうしたいのか
「現状の不満は全部自分のせいで起こっている」「お前は物事をどうしたいのかを決めきれていない」「肚が座っていない」「芯が通っていない」
なぜあなたにそんなことを言われなきゃならねえのかと抗いたい気持ちを鎮め、なぜいきなりこの会話の文脈でそこまで言われるのかわからないのだが、という混乱も受け入れ、深呼吸して「実際にそう」である事実を認める。
そして、「どうしたいのか」と考える。
べつに「決めきれて」なくても「肚が座って」なくても「芯が通って」いなくても、いっこうに構いやしないではないか。うん。しないのだが、私の好みとしては「そういう状態で生きている」ことを嫌だなあと思う。
「現状にどうしても手放せない不満がある」くせに、「それを自分の力で乗り越えると決め切っていない(肚が決まっていない・芯が通っていない)」という状態。これはちょっとダサい。気持ちがよくない。そこに気付かされて痛い。
それを「乗り越える」だけが正解ではない。「受け容れる」方向であってもいい。不満があることもまるごと受け入れてありのままを生きるとか、不満な状況を不満とは思わなくなる方向に価値観を変えるというのもいい。
しかしいずれであっても、「決めきれておらず宙ぶらりんのまま人のせいにして生きている」という、そういう状態であることはすごく嫌だ。自分が「そうは在りたくない」という在り方で実際は在る、という点は、絶対になんとかしたい。
肚を決める
ということで、この混乱と怒りの勢いから思考を爆進させて「今すぐ肚を決めたるわ」というところに行き着いた。
「肚が決まる」なんてことは「誰かに言われたからハイ決めます」みたいにできるものでもないが、逆にこういった謎のきっかけを利用して決まるという仕方もある。
たとえば父になる覚悟はなかった夢追うフリーターの青年が、子どもができたため夢を手放し就職するみたいな。きっかけはパッシブだがそこから前向きな精神で動くのなら悪いことではないし、少なくない人がこういう感じで「大人」になっていくような気もする。
そうして、今日は生きている上での「心の姿勢」を正すことができて(自覚していなかった「他責」の姿勢から「自責」の姿勢へのシフト)、理想を達成するためにこれまでとは違うアプローチをしていくことを決め、さっそく行動まで落とした。
私が整えたいのは「心の姿勢」だ。理想に対してフラフラしている部分。ちょうど先日行われたjさんの講義で言えば「すべての記事でバズを狙う気概で書く」「ネタがないとは死んでも言わない矜持」といったことと似ている。
私は「すべて引き受けて本気でやる」みたいなところが弱いのだ。これは「目の色が違う」と表現されるようなものだ。まだまだ外野気分、お客様気分。それが情けない。
今日私が指摘されたのは「オマエの態度はアマチュアだ」ということだった。「プロならそんなことは言わない」そんな話を、私はのんきにペラペラと話していたのだ。何気ないところから人間が見える。今日見えた私は、なんとも恥ずかしいヤツだったのだろうなと思う。だからああして詰められたのだろう。
いいよ。それも認めてOK出して、その上で変化していく。
と、こうして飲み込んでみると、あの会話を無難なやりとりで終わらせるのでなく、一撃ブチ込んでくれたAさんに心から手を合わせたいし、そう思えるまで咀嚼して受け取ることができて自分にナイスだと言いたい。
思いもよらぬ部分に抱えていた他責思考の領域が、自責思考に変わるということ。それは自分の影響の輪が拡張するということだ。影響の輪に"集中する"のは基本的な心がけだが、その輪が"拡張する"という機会はなかなかレアい。
貴重な1日だった。
p.s.
自責思考といっても悪い意味ではない。自分を責めるのでなく、自分の責任だと捉えて考え行動するということだ。
また、このnoteでは日々「理想」を捨てたり持ったり、どっちだよという表現が多くある。これはそれぞれの話題の際に取り扱う言葉の次元が違うためだ。構造としては毎回一貫しているが、ややこしいことは間違いない。これは表現力のいたらなさ。わがふとくのいたすところである。
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