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86 泣いている

 ある朝の通勤途中、男はうずくまって泣いている女を見かけた。駅近くの交差点の角のところだった。人々はそれぞれの職場や学校へと急ぎ足に過ぎていき、彼女を気にかけるものは誰もいなかった。男もまた同じだった。
 就業中、男は仕事が手つかず、空中を見つめてはぼんやり考えごとにふけった。今朝見かけた女のことが、なぜか心に引っかかっていた。昼食も喉を通らなかった。
 午後になると、上司が声をかけてきた。男は自分でも気づかないうちにはらはらと涙を流していたのだ。泣いている女を見たんです。男がすがるように訴えると、すぐに産業医との面談がセッティングされた。
 産業医は、件の女が男とは何の関係もない、見ず知らずの人物であると聞くと、何秒か黙り込んだ。それから仕事や人間関係に何か不満があるか、私生活に問題はあるかを聞いてきた。男は言葉少なに否定するだけだった。再び泣いていた女の話をしようとすると、産業医は耳を貸さず、今週いっぱい休みを取ることを勧めてきた。今日はもう帰っていいという。
 帰り道をとぼとぼ歩いていると、朝見たのと同じ場所で例の女がまだ泣いているのを見つけた。同じ姿勢でうずくまっていた。しくしくと引きも切らず、ときどきすんと鼻をすすり、背中から悲しさが伝わってくるようだった。男は、泣いている、泣いていると思いながら、女をちらりと横目に見て、声をかけることなく脇を通りすぎていった。


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