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排泄小説 13

 最寄り駅に着いたのは昼前頃だった。あんなにでかいくそが出たというのに、不思議と空腹感はなかった。そんなことより早く横になりたかった。その前に少しでいいから知っているやつと話したかった。あのバカ女でも構わないから。
 駅から部屋までは歩いて二十分近くかかった。途中にコンビニが一軒あった。一眠りする前に何か腹に入れたくなるかもしれないと思って、立ち寄るかどうか迷った。結局、足を止める面倒の方が勝った。部屋に帰れば冷蔵庫に何か残りものがあるだろう。
 コンビニを過ぎた辺りから、何かもやもやといやな予感がしはじめた。一歩足を進めるたびにその感じが強まっていった。何となく、部屋で何か不吉なことが待ち受けているような気がした。アパートの前にある公園から川越しに自分の部屋を見上げると、それが何なのか分かったような気がした。
 おれは名前のない小さな橋を渡り、アパートの階段を登った。無表情な玄関ドアは予感が確かなものだと告げているかのようだった。ノックは無用だった。鍵を使ってドアを開けると、裸の男女がおれのベッドでいちゃついていた。南真南が部屋に男を連れ込んでいたのだ。やつらは揃いも揃ってクライマックスに達しようというところだった。おれの方に背を向けて、犬のようなやり方で。南真南はトリマーだから、犬どものやり方をよく分かっていたのだ。
 派手に音を立ててドアを後ろ手に閉めると、二人は文字通り飛び上がって驚いた。やつらは、自分たちが磁石の同極同士であることに突然気がついたみたいな勢いで体を離した。南真南はおれの愛用のタオルケットで前を隠し、男は近くに転がっていた自分の服で前を隠した。
 おれはやつらを視界に捉えたままかかとで靴を脱いだ。
「ちょっと、びっくりさせないでよ」
 南真南の声はひきつっていた。
「おれの部屋で何してる」
 おれはその見ず知らずの男に向かって愛嬌たっぷりに言った。
「いや、あの……」
 そいつは見苦しい言い訳をするより前に、いそいそと下着をつけた。
「知らなかったんだ」
 男はパンツを履くとばつの悪さがほんの少し軽減されたようだった。
「何を」
「あんたたちが……」
 男は自分でも何をどう言ったらいいか分からなかったらしく、途中で言うのをあきらめた。そして、あわてふためいてシャツに首だけ通すと、残りの服をかき集めて逃げるように部屋から出ていった。おれにも南真南にも何の断りもなしだった。
 おれはやつが出ていくのを黙って見送った。南真南は不服そうな顔でそっぽを向いた。
 おれは壁にもたれかかってそのまま床に座り込んだ。落ち着いて考えてみると、おれにとって何か悪いことが起きたわけではなかった。バカ女がただ期待通りのことをしていただけだ。こういうやつらは他に憂さ晴らしの方法を知らないのだ。
「あんたが悪いんだからね」
 南真南はぬけぬけと言った。
「何回も連絡したのに何も返さないから――」
 この女は、途中で自分でもバカなことを言っていると気がついたらしい。
「だいたいカノジョでも何でもないんだし」
「そうなのか」
 おれはわざととぼけてやった。
「そうでしょ? 何したってわたしの勝手」
 おれは黙っていた。すると今度は、この女は自分に非があるような気がしてきたらしかった。
「知らないやつだし。昨日たまたまネットで知り合っただけ」
 たまたまということはないだろう。出会い系のようなやつで知り合ったのだ。お互いの目的が一致して。
「どこの誰かも分からないやつを部屋に入れたのか? おれのベッドを使わせたのか? 冷蔵庫を開けさせたりしてないよな?」
 南真南は返答につまった。どうやら、あの男はここでずいぶんくつろいでいったらしい。さぞやいい思い出になることだろう。
「合鍵もないんだから、外にも出られないでしょ」
「なるほどな」
 おれはやおら立ち上がった。南真南が息を飲むのが分かった。おれの言い方は少し怖かったかもしれない。立ち上がって何かしそうに見えたかもしれない。それというのも、この女が少しも謝ろうとしないからだ。それどころか、この女はおれの方こそ悪いと言ったのではなかったか。バカ女がどんな目に遭おうが自業自得だ。
「どうして自分の部屋に帰らないんだ」
「だから――」南真南は言いかけて口をつぐんだ。それからおれの顔を見ないようにして言った。
「怖かったから」
「何が」
「怖かったから」
 南真南は繰り返した。
「何が」
 おれは辛抱強くもう一度訊いた。南真南は首を横に振っただけだった。この女はおれのタオルケットの下で体を震わせていた。まったく、どいつもこいつもおれをいらいらさせやがる。ぶっ殺してやろうか。さっきやりかけたのにやらなかったから、余計にそんな気分なんだ、おれは。
 やってやったってよかった。そうしたところで、この女はくそのことで散々苦しんだおれの百分の一も苦しまないはずだ。この世には苦しみというものを味わわないで済んでいるやつらも山のようにいるのだ。そいつらに少し苦しみを分け与えてやったって、それはむしろ恵みとさえ言えるだろう。
 おれが進み出るのと同時に、南真南も動いた。捕まえようとしたが、おれが掴んだのはタオルケットだけだった。バカ女は全裸でゴキブリみたいにすばしこく動いた。タオルケットを丸めて投げつけてやると背中に命中した。バカ女はまるで火の玉でも当たったみたいにぎゃーすか叫びながらトイレに逃げ込もうとした。そうはさせまいと床に落ちていた雑誌をドアの隙間に突っ込んだ。おれの部屋の、おれのトイレに隠れようとするなんて、つくづくバカな女だった。そこがおれにとってどれだけ神聖な場所か分かっていないとは。捕まえて、分からせてやるしかなかった。
 バカ女は無理やりドアを閉めようとしたが、雑誌が挟まってできなかった。おれは隙間に無理やり体をねじ込んで、やつの腕を掴んだ。
「ぎゃー!」
 南真南がオールナイト上映で見たホラー映画の女優みたいに叫んだ。殺されるためだけに出てくるやつみたいに。
 おれはバカ女を引きずり出そうと腕に力を入れた。南真南はノブを掴んで踏ん張ったが無駄だった。おれが渾身の力で引っ張ると、バカ女はつんのめって柱に顔をぶつけた。おれは続けざまに腕を引っ張り、やつの顔を何度も柱にぶつけてやった。バカ女の顔は血と涙でぐしゃぐしゃになった。面白くなってもっとやった。バカ女はなかなかしぶとかった。ふいにおれの手にかっと熱い痛みが走った。
「ぐあっ!」
 バカ女に噛みつかれ、おれは思わず手を引っこ抜いた。見ると、親指の付け根辺りの肉がえぐれていた。そこへ続けざまに足を踏みつけられた。
「っで!」
 反射的に足を引っ込めると、ドアが大きな音を立てて閉まった。すぐさまドアノブを掴んだが遅かった。無理やりこじ開けようとすると、バカ女が反対側で必死にノブにしがみついているのが分かった。
「開けろ」
 おれは静かに言うと爪先でドアを軽く蹴飛ばした。こうなってはもう殺るしかなかった。すぐ向こうで女がすすり泣くのが聞こえた。おれは何度も何度もドアを蹴飛ばした。バカ女は一向に出てこようとしなかった。
「そこがどこか分かってるんだろうな」
 南真南は何も答えなかった。
「分かってるよな?」
 訊くまでもなく、バカ女が何も分かってないことなど分かっていた。
「ぬおあああああっっ!」
 おれはちゃぶ台を持ちあげてトイレのドアに向かって投げつけた。中から短い悲鳴が聞こえた。ドアは角が当たって少しへこんだだけだった。どいつもこいつも手間をかけさせやがって。
 おれはもう一度ちゃぶ台を掴むと、今度は頭の上まで持ちあげて別の壁に投げつけた。やぶれかぶれだった。壁に穴が開き、衝撃でちゃぶ台の脚が折れた。床に置いてあったスタンドがちゃぶ台の下敷きになった。さらにもう一度ちゃぶ台を放り投げると、ステンレスのラックが巻き込まれて倒れた。置物が壊れ、グラスが割れた。部屋はめちゃくちゃになった。
 南真南は裸で携帯もなかった。トイレに窓はついておらず、照明のスイッチは外にあった。明かりをつけないと中は昼間でも暗く、叫んだところで誰にも聞こえやしなかった。あのバカ女は出てくるしかないのだ。おれはテレビを見てゆっくり待つことにした。
 冷蔵庫に残りもののハムがあった。おれはそれで簡単なハムサンドを作り、トイレの脇に座り込んで食べた。テレビは何一つ面白い番組をやっていなかった。そのうえ、さっきおれが放り投げたちゃぶ台が当たって画面がひび割れていた。どうせつまらないんだから何だって同じことだ。おれは文句も言わずに画面を眺めていた。ただじっと眺めていた。そのうちおれはうとうとしはじめた。睡眠不足だから仕方なかった。起きていようと思ってもどうにもならなかった。
 気がつくと、妙なやつがテレビに出ていた。そいつはこちらに向かって諭すような口調で何か言っていた。聞いたこともないような言葉だったので、何を言っているのかちっとも分からなかった。テロップも出てなかった。子供とも大人ともつかないようなやつだった。顔の半分がひび割れた部分にかかってしまっていたが、外国の血が入っていると思わせるような彫りの深い顔立ちをしていた。ぼんやり見ているうちに、なぜかそいつの言っていることがだんだん聞き取れるようになってきた。
「――何をするつもりか知ってるよ。きみが何をしようとしているか。何をしろと言われているか。何をさせられそうになっているか。なぜそれをしなければいけないと考えているか。本当はそれをしたくないということも。でも心のどこかではしたくてしたくてしょうがないと思っていることも――」
 言葉は分かっても、何の話をしてるのかはさっぱりだった。夢を見ているだけかもしれないとぼんやり思った。
「はっはっはっ!」
 そいつは急に笑い出した。
「ごめんごめん。笑うつもりはないんだけど」
 そいつはそう言いながら笑いをこらえるようにして咳き込んだ。落ち着くのに十数秒かかった。ぺらぺらとよく喋るやつだった。
「ぼくが誰か知ってるだろ? きみを助けにきた。きみの天使だよ。きみだけの天使だ。きみが心の底から助けてほしいと願うと、ぼくが現れるんだ。会うのは初めてだっけ? どうだったかぼくもよく覚えてないけど、どっちにしても顔は分かるだろ。ほら、きみの一番の味方の顔だ」
 そいつはそう言って顔を前に突き出したが、喋っているうちに立ち位置がずれて、顔がすべてひび割れ部分にかかってしまっていた。誰なのか全然分からなかった。そいつは急に馴れ馴れしい口調になった。
「この顔に免じてやめてくれよ。これ以上面倒を起こすな。自分でも分かってるだろ。自分がどん詰まりにいるってことが。やればやるほどやばいことになるぜ。言ってる意味分かるだろ? 頼むからもうちょっと自制心を持つことを学んでくれ。損するのは自分だぞ。本当はよく分かってるんだよな? もう一度だけ言うぞ。いいか、やろうと思ってることを今すぐやれ。――ん? 違う違う。逆だ。いいか、やろうとしてることを今すぐやれ。――違う違う。逆だ、逆。いいか、もう一度だけ言うぞ。もう一度だけ。よく聞け。やろうとしてることを、今すぐ――」
 テレビはぷつりと切れた。
 おれはそこではっと目が覚めたみたいな気がした。何だか夢を見ていたような気分だった。おれはどうすればいいんだっけ。誰かに何かをしろと言われたんだっけ。今すぐ、大急ぎで。
 日は高く、外は静かだった。部屋の中もしんとしていた。おれはもう一度トイレのドアノブを回してみた。鍵はかかったままだった。中で南真南がさっと身構えるような気配があった。あの女はまだそこを占拠していた。
 おれは台所に行き、コップに水を半分くらい汲んで一気に飲んだ。手斧でもあればと思ったが、ホームセンターに買いに行っている余裕はなかった。おれはベッドに寝転がった。頭はぼんやりしたが眠気はどこかにいってしまっていた。天井の鳥の足跡みたいな模様の数を数えながら占いをした。
 南真南を殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す、殺さない、殺す――。
 すぐにどれを数えて、どれを数えていないか分からなくなってしまった。あの女をこのまま逃がしてやることができるだろうか。それは無理だ。あの女は余計なことをぺらぺら喋るだろうから。もっと分別のある、おとなしい女ならこうはならなかっただろう。いや、結局のところ同じ結果になったかもしれない。
 ずぎゅるるるるぐぅ。
 いきなり腹が鳴った。空腹のせいではなかった。腹の中が何かおかしなことになっていた。誰かに手を突っ込まれて内臓をかき回されているみたいだった。これは――。
 おれははっと思い当って、さっき捨てたハムの袋をゴミ箱から拾い上げた。一か月以上も前に賞味期限が切れていた。腐った肉を食ってしまったのだ。
 ケツの穴に向かって濁流が押し寄せていた。おれはトイレのドアに飛びついた。
 どんどん!
「おい、出ろ!」
 応答はなかった。
 どんどん! どどん!
「いいから出ろ!」
 応答はなかった。
 どんどん!
「使いたいんだよ!」
 どんどん! どどん! どどん!
「いや!」
 ドアの向こうで南真南が言った。こちらの言うことに耳を貸す気などまったくないようだった。
「出てこい! いいから、早く!」
 どんどんどんどんどんどん!
 どんどんどんどんどんどん!
 南真南はもう答えようとしなかった。何が「いや!」だ、このくそ女が。てめぇ、絶対に殺してやる。おれはわめき散らしながらドアを蹴飛ばしたが、やればやるほど逆効果なのは分かっていた。はずみでびちぐそが漏れてしまうことも考えられた。それでもやらずにはいられなかった。おれは下痢ピーなんだ、ちくしょう!
 指をくわえて待っているわけにはいかなかった。おれは外のトイレに行くことにした。そうするしか手がなかった。今にも、ちょっと体の向きを変えた拍子やなんかに、くそが出てしまいそうだった。くしゃみなんかしたらおしまいだった。
 おれはじっとり脂汗をかきながら、慎重かつ可能な限り最高の速度で玄関に行き、靴を履いた。どんな動きをするときもケツの穴を引き締めてかからなければならなかった。最初の一発を許してしまったら、もうあとを止める術はないだろう。最悪の雪崩が起きるだろう。


いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。