見出し画像

排泄小説 11

 その日、仕事は遅れに遅れ、おれたちは全員で残業した。他のやつらに警察に何を質問されたかそれとなく訊いてみると、だいたいおれと似たり寄ったりだった。何人かは進んで模糊山を売っていた。ポリ介は十分なネタを手に入れたことだろう。おれたちはみんなで笑った。模糊山はあれっきり姿を見せなかったが、どうでもよかった。おれの汚物は約束通りごみ捨て場に捨てられていた。
 仕事をあがったあと、バイト先近くの牛丼屋で遅い晩飯を食った。六百万あったのでキムチの乗ったやつにして、冷奴もつけた。おれは食べながら壁をじっと見つめ、バイトのことを考えた。すぐにもやめたかったが、そうできないことがもどかしかった。ほとぼりが冷めるまで行動は起こせない。おれはまだしばらくびちぐそを漏らした場所に通わなければならなかった。
 今の事態がどれくらいのやばさなのかも考えてみた。南真南は何も知らなかった。あの女は、恋人が死んでおれに心の拠り所を求めているだけだった。模糊山はおれがくそを漏らしたことで脅してきていたが、それはおれにやつの味方をさせるためだった。うっとうしいやつらだったが、なんとか対処できそうだった。ドジらなければ切り抜けられるだろう。
 気がつくと小鉢の豆腐はなくなっていた。意識しないまま食べ終えてしまったのだ。せめて一口だけでも味わいたかったが、だからといって追加注文する気にはなれなかった。おれはどうせくそになるだけだとあきらめた。口から入るものはすべてくそへと姿を変え、結局おれを苦しめるのだ。
 おれにとって、食い物というのはすべて忌むべきものだった。どんなにうまいものでもその本質は穢れているのだ。おれは自分がスーパーなんかで働いている理由に今更ながら気がついた。そこには食い物が山のようにあるからだ。常に忌み嫌っているものの近くにいて、牙を研いでおきたかったのだ。
 食べ終わって携帯を開くと、南真南からメールが来ていた。着信もあった。時間を空けて三回だ。メールの方は、おれがいつ頃帰るのかを訊いてきていた。早く帰ってほしそうな物言いだった。いずれにしろ携帯にやりとりが残るのは歓迎すべきことじゃなかった。帰ったら履歴を削除するように言わなければならなかった。
 あの女のメールはおれの気持ちを萎えさせた。おれに面倒を持ってきたのはあの女の方で、よくしてやる理由などどこにもないのだ。いずれ、あの女もどうにかして始末をつけないといけなくなるかもしれない。近いうちに。
 牛丼屋を出て商店街を歩いていると、向こうから模糊山が来るのを見つけた。やつの方でもすぐにおれに気がついた。その顔を見て、やつがおれを探して辺りをうろついていたのだと分かった。おれはくるりと背を向けて逃げ出した。
 横道に入って隣の通りに出ると、また別の横道からもう一つ隣の通りに移った。この街は線路と垂直方向に通りがいくつも伸びていて、それらがあみだくじみたいに横道でつながっているのだ。
 振り返らなくてもやつが追ってきているのが分かった。やつが余分な肉のついた体で汗をかきながらどたどた走ってくる姿が目に浮かんだ。これ以上関わり合いになりたくなかった。
 線路にぶつかると、おれはそのまま線路沿いに駅に向かって走った。改札のすぐ脇にある踏み切りから反対側に出ようとしたのだ。ところが、まずいタイミングで警報器が鳴りはじめ、遮断機が下りていくのが見えた。おれは舌打ちをして次の案を考えた。
 そのときだった。おれはずっと先の方に何か妙なものを捉えて全身に寒気を感じた。今朝最寄り駅の商店街でも見かけたやつだった。そいつは線路沿いの道をこちらに向かってよろよろ歩いてきていた。まっすぐおれを目指して。
 前からはそいつ、後ろからは模糊山だった。おれはとっさの判断で改札を飛び越えてホームに入り、滑り込んできた電車に駆け込んだ。
 電車はすぐに発車した。ドアの脇に立ったおれは、ドア窓から通りを見下ろした。模糊山が恨めしそうに電車を見送るのが見えた。その前を、方向転換した例のやつがまだあきらめずに覚束ない足取りで歩いていた。
 間違いなかった。そいつは滑石のジジイだった。
 電車は家と反対方向に行く急行だった。どうしたらいいか分からず、そのまま終点の新宿まで乗った。ジジイのことに気を取られていたせいか、電車の中で腹が痛くなることはなかった。夜十一時過ぎの新宿にはまだ人が大勢いた。おれはその中に紛れ込んで、よく知らない街をうろついた。
 この目で見たものを否定することはできなかった。あれは確かに滑石のジジイだった。だが、そんなことがあるはずはなかった。なぜかはおれが一番よく知っていた。おれだけが知っているのだ。あのジジイがあんな風に動き回れるはずがないということを。
 なぜならあいつは――。
 あてもなくうろついているうちに電車はなくなってしまった。家には帰れなくなったが、そのつもりもなかった。通りがかりの映画館でオールナイト上映をやっていた。ネットカフェよりはましに思えて、おれはチケットを買って劇場に入った。
 一本目の上映がはじまってから、すでにだいぶ時間が経っていた。ロビーには誰もおらず、上映中の映画の効果音が漏れ聞こえてきていた。沈むような重低音の響き、唐突に入る神経を逆撫でするようなストリングス、女の金切り声。
 おれはまずトイレの場所を確認した。そいつは劇場脇の通路をゆるやかにくだった突き当たりにあった。広くてそこそこ清潔で、個室だけでも四つあった。一つずつ中を覗くと、トイレットペーパーは今まさに補充されたばかりというほど十分にあり、予備ホルダーまでついていた。ときどき女の悲鳴が響いてきた。落ち着いて使えそうなトイレだった。
 おれは脇のドアから場内に入った。スクリーンはちょうど闇を映していて、目が慣れるまで何も見えなかった。夜の森のシーンのようだった。登場人物が必死で何かから逃げ隠れし、恐怖から浅い呼吸をするその音だけが響いていた。少し待つと、客席はそこそこの埋まり具合なのが分かった。おれはスクリーンから照らされるわずかな明かりを頼りに、トイレ側の島の中央辺りの席に座った。
 一本目はまもなく終わった。登場人物がみんな死ぬという、おれ好みのエンディングだった。おれもよくそういう想像をすることがあった。ある日突然人類が滅んで、地球上から人っ子一人いなくなるのだ。理由なんかどうでもいい。そして、そこにひょっこりおれが現れるというわけだ。すっきりした気分で、心に何の負担も感じずに。それが自分に向いている世界だとおれはかねがね思っていた。地球上にたった一人でも寂しくなんかないだろう。実際、おかしくてたまらないだろう。おれはそんな世界で雨に打たれ、泥に溺れて死にたかった。飽きた頃に。
 一人で来ている客がほとんどで、休憩時間は静かなものだった。たいていのやつは席でじっとして仮眠をとるか携帯をいじるかしていた。パンか何かをかじっているやつもいた。やがてまた場内が暗くなり、おれは座席に沈み込んだ。
 スクリーンの中で一台の車が走っていた。車は誰もいない静かな墓地にやってきた。何か歌が聞こえてきて、おれのまぶたはゆっくりと垂れさがった。昂っていた神経がようやく鎮まってきたんだと自分でも分かった。おれは夢とうつつを行き来した。車が一台、墓地の中を走っていた。車が停まり、誰かが降りた。何か歌が聞こえてきた。ささやくような声で誰かが捕まえに来ると言っていた。おれをか? 誰かが墓地の中をよろよろ歩いていた。一台の車。電車。誰かを追って走る模糊山。それからあのありえないやつ。ほら、ほら、捕まえに来るぞ。おれをか? ドアが開いて誰かがよろよろ入ってきた。おれはまぶたの重さに耐えかねた。墓場が見えた。映画館の座席。墓石。座席。墓石。重なるイメージ。ほら、捕まえに来たぞ。誰かが車を降りて歌い出した。歌っているやつはどこにも見えなかった。誰かがよろよろ歩いていた。墓場を。映画館の座席の間を、墓石の間を縫うようにして。誰もそいつのことを気に留めなかった。影の形が誰かに似ていた。歌が聞こえた。子守唄のようでもあった。誰かが何か乗り物でやって来て、降りるとそこは墓場だった。不気味なくらい静かだった。昼間なのに闇に覆われていた。誰かの影がゆらゆらと近づいてきた。ほら、捕まえに来たぞ。おれをか? 誰かが墓の間を抜けておれを捕まえに来た。知っているやつの影。おれは眠ろうとした。いや、まぶたをこじ開けようとした。眠っていた。スクリーンを見ていた。誰かの顔を見ていた。そいつがよろよろ近づいてきた。すぐ目の前まで。おれは捕まりたくなかった。目を開けなければ。目を開けなければ。ほら、捕まえに来たぞと誰かが歌っていた。
 はっと気づくと、目の前に滑石のジジイが迫っていた。やつは前列の座席から背もたれを乗り越えておれに掴みかかってこようとしていた。スクリーンが逆光となっていたが、輪郭で分かった。ジジイはまるで噛みつこうとでもするみたいに口を大きく開け広げていた。口の奥から死人のようなうめき声が漏れていた。おれは悲鳴をあげて跳ね起きた。やつの手を払いのけ、よろめきながら逃げ出した。
 他の客の足を蹴散らすようにして通路に出ると、おれは後方のドアに向かって走った。スクリーンの中で誰かがささやくように歌っていた。ほら、捕まえに来るぞ。振り返る余裕はなかった。おれはドアを突き飛ばすようにしてロビーに出た。まるで夢から覚めたみたいに明るかった。一瞬、本当に夢を見ていただけだったような気がした。悲鳴をあげたのは夢の中のことのような気がした。おれははたと立ち止まり、今自分が押し開けたドアを振り返った。ドアは自身の重みでひとりでにゆっくり閉まっていっていた。わずかな隙間から誰かが出てこようとする気配が感じられた。ほら、捕まえに来るぞ。お前を。

いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。