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排泄小説 17(最終回)

 しばらくして、おれは目を開けた。ちょっとだけ気になることがあった。おれの新しいケツの穴はどんな具合なんだろう。中はどうなっているんだろう。すべてを変える旅に出る前に、ちょっとだけ試してみたかった。自分のケツの穴なんだから知りたいと思うのも当然だった。ちょっとだけだぞ。おれは自分に言い聞かせるように言った。
 おれはすっと立ち上がると玄関に鍵をかけ、窓にカーテンを引いた。それからベッドに腰かけて気持ちを落ち着かせた。模糊山にパンツを脱がされてから、下半身は何も身につけないままだった。おれはおもむろにベッドに寝転がると、勢いをつけて足を天井に向かって振りあげた。腕でバランスを取りながら、ゆっくり体を折り曲げて足を頭の向こうに倒していった。やがて開いた足の指先がベッドにつくと、開脚後転を失敗したやつみたいな格好になった。苦しい体勢だったが、この格好になれば自分でケツの穴が見えるだろうと思った。
 ダメだった。見えそうで見えなかった。それは股の間の地平線のすぐ向こうにあるはずだったが、ほんのわずかな差で見ることができなかった。弾みをつけて体をぐっと折り曲げると、一瞬だけケツの穴が姿を現した。だが、その姿勢を保つことはできなかった。普段からストレッチをしておくべきだったのだ。こうなると分かっていたら、何をおいてでもやっていたのに。
 それならそれで構わなかった。人は自分の手のひらを見つめるようには自分のケツの穴をじっと見つめることはできない定めなのだ。おれはその体勢のまま指を中に入れてみることにした。あとは感触で確かめるのだ。両手を後ろからケツにあてがい、右の小指を使うことに決めた。おれは右利きだし、その指が一番細いからだ。
 おれは右の小指に神経を集中した。ミミズがのたくるように肛門の周りを軽く探索したあと、本丸に攻め込んだ。指先でちょんちょんと突っつくと、くすぐったいような気持ちいいような感じがした。中に入っても大丈夫そうだと思えた。少し汚れるかもしれないが、あとで洗えばいいのだ。
 おれは小指の先を肛門にそっと押し当てた。少しずつ力を入れながら、遠慮がちにくいくい動かして先端を中に沈めていった。なんか変な感じ、というのが正直なところだった。そういえば、同じことをしたら同じように言った女が昔いたなとおれは思い出した。
 最初の関節辺りまで入っているはずだった。危険はなさそうだった。あと少しだけとおれは思った。あと少し、あと少し。神様は本当にいるのかな。どんな見た目なのかな。あと少し、あと少し。小指が全部入ってしまいそうだった。おれの中でためらいと好奇心がせめぎあっていた。
 そのとき、小指の先を何かに掴まれ、あっと思った。自分で括約筋をぎゅっと締めた感覚とは違っていた。ケツの穴の中の神様とつながったのだと思い、おれは心を弾ませた。
 神よ、この哀れなる峰打イチローを救いたまえ。
 指先がくいっと引かれる感覚があった。やはりそうだ。ケツの穴の神だ。神よ、おれはここにいます。おれは呼び掛けに応じるように小指をくいっと動かした。すると、今度は小指が力強く引っ張られた。残っていた小指のリーチ分だけケツの穴に引き込まれ、内壁がこすれてちょっと気持ちよかった。おれはお戯れをと笑った。
 すぐにもっと強い力で引っ張られた。小指が根元までずっぽり埋まり、拳の部分が肛門のところでつっかえた。おれはまだ笑っていた。さらにもう一度強すぎるほどの力で引っ張られたところで、何かおかしいと気がついた。おれのケツの穴がぬぱっと口を開け、紫の煙が立ちのぼるのが見えた。気がつくと、おれの右の拳は飲み込まれていた。違う違う、そうじゃ、そうじゃない。
「違う違う違う違う」
 おれはとっさに口に出して言っていた。うわっ。おれの右腕が一気に肘まで入ってしまった。
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う!」
 おれは声を張り上げた。小指の先を掴まれたと思っていたのが、今や右手をがっちり掴まれた感覚になっていた。神よ、相手をお間違えです! おれはあなたの忠実なる僕です! あなたのおわすところがどんなところなのか、ちょっと知りたいと思っただけなのです! 聞こえますか? おれの声が聞こえますか? おれの声はあなたの声だ。それは中で通じ合っているはずだ。違いますか?
 違ったらしい。おれの右手はツイストドーナツみたいにねじれて肩までケツの穴に埋まっていた。無茶な体勢だった。あばら骨が内臓に刺さるようで痛かったし、息が苦しかった。鼻血が垂れた。相手は冗談でやっているのではなかった。神なんかではなかったのかもしれない。一度噛みついたら絶対に離さない、ケツの穴ジョーズだったのかもしれない。だとしたら、だとしたら――。
 おれは結末を思ってぞっとした。右手だけですでに限界だった。自分のケツの穴の中に入るなんてどう考えても物理的に不可能だった。おれのケツの穴におれ自身を引っ張り込むなんて絶対にできるわけがなかった。
 相手は何も答えなかった。ただ力任せにおれを引っ張るだけだった。おれは自分の体が妙な向きに曲がっていることに気がついた。これまで一度も経験したことがない角度で、平衡感覚がおかしくなった。
 ケツの穴の中の右腕は、蠕動運動も加わって奥へ奥へと飲まれていった。まるで腕が何メートルにも延びてしまったかのような感覚があった。おれのケツの穴は、どこまで続いているのか分からないほど奥に向かって伸びていた。真っ直ぐなのか曲がりくねっているのかも分からなかった。
 頭に生ぬるいこんにゃくのようなものがぺたりと覆いかぶさってきたかと思うと、目の前がぐるんと回転した。重力がふっとなくなったみたいだった。あ、裏返ったと思った瞬間、すぐ目の前に見えるはずがないものを見た。
 ケツの穴。
 これが、これこそがおれの――。
 そう思う間もなく、目の前が真っ暗になった。何も見えなかった。こんにゃくのようなものが顔に貼りついて息もできなかった。体の芯が焼けるように熱かった。ここはどこだ。ほのかにくその臭いがした。ケツの穴の中か。おれは必死に足をばたばた動かしたが、どこか遠くの方で蝶々がはためいているくらいの感じしかしなかった。手も足も胴体も、どこかへ行ってしまったみたいだった。
 両頬を生温かいものに包まれているような感覚があった。もうそれだけだった。気持ちいいのかもしれなかった。光が見えた。奥の方から光が射してきていた。黒い光だった。行こうか戻ろうか、どうしようと思った。だが、そういうことではなかった。おれはそこへ連れていかれるのだ。そこがおれの帰る場所なのかもしれない。いや、まったく初めての場所なのかもしれない。
 また誰かがおれを引っ張った。おれはそいつの顔を見た。そうだったのか。そういうことだったのか。おれが見たのは恵野茶子だった。どこかに出ていったと思ったら、こんなところにいたのか。模糊山もいた。南真南もいた。滑石のジジイもいた。そうか、みんなここでおれが来るのを待ってたんだな。この蟻地獄の中で。
 おれは恵野茶子たちにがっちり掴まれているのを感じた。もうどこにあるのかさえ定かでないおれの体を。がっちり掴んで、誰も離さなかった。おれは黒い光に満たされていた。何もない空間。空間さえもないような空間。なんだちくしょう、これじゃあ今までと同じじゃないか。違うのか? もう一度やり直すチャンスをくれるのか? それともまた同じことを繰り返すだけか? それとも、これですべておしまいなのか?
 何も分からなかった。おれは黒い光に満たされて、そして、そして――。
 そして、誰もいなくなった。
 多分、そういうことなのだ。

                                       了


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