見出し画像

88 ヘドロ釣り

 男が初めての釣りで釣り上げたのは、ヘドロのかたまりのような、不気味にうごめき悪臭を放つ、どろどろした生き物だった。魚ではなさそうな手応えだったが、まさかこんなものが釣れるとは思わなかった。それは人が頭から大量のヘドロを被ったような形をしており、背中を丸め、低い声で苦しげにうめいた。それ以外何もしなそうだったが、ただただ臭い。台所の排水口を開けたときのような臭いだった。たまらず足裏で押しやるようにして水の中に戻そうとしたが、重くて動かなかった。ゴム靴は汚れ、釣りは続けられそうになかった。まだ何の釣果もなかったが、男はあきらめて帰ることにした。
 釣り場から去ろうとすると、何か重いものを引きずるような音が後ろから聞こえた。振り返るとヘドロがのそのそとあとをついてきていた。その不快な生き物は人と同じように二足歩行をし、通ったあとにはヘドロの道ができるのだった。男は早足に歩いてヘドロを引き離したが、振り返って姿が見えなくなるとなぜか気持ちが落ち着かなくなった。あの得体の知れない生き物を見ていると何かを思い出させられるような気がした。存在しない兄弟のようにどこか懐かしい感じがするのだった。
 道の真ん中で待っていると、やがて道の向こうにヘドロが姿を現した。遠目に見るだけでも悪臭を漂わせていることがわかるようだった。男はできるだけゆっくり歩き、ヘドロと距離を保って帰路をたどった。家に着く頃にはすっかり日が暮れてしまった。疲れきった男は、入念に戸締まりを確認すると、釣り道具を床に放り出したまま寝床に直行した。汚れたゴム靴は玄関の外に放置した。ヘドロが家の外でゆっくりと動き回る音が枕元までかすかに届いた。
 翌朝、男が様子を見に外に出てみると、家の外壁にヘドロが体をなすりつけたような跡がぐるりと残っていた。一周まわって玄関に戻ると、ヘドロが家の中に入ろうとドアに近づいているところだった。油断して鍵を閉めていなかった。慌てて駆けつけた男は、なんとかドアでヘドロを挟み込むことに成功した。押し出そうとして全身でドアを押さえつけたが、苦しげにもがくヘドロを見ているうちになぜか力を緩めてしまった。ヘドロはドアに大量の汚れを残してずるずると部屋に侵入した。
 男がドアを拭いている間、ヘドロは小さく円を描くようにゆっくり室内を徘徊した。男が雑巾を洗いに洗面所にいくとあとをついて来て、再びドアに戻るとヘドロもまたそちらに戻った。臭いし、動き回られると部屋中がヘドロまみれになるので、男はマスクをつけて換気扇を回し、できる限りじっとして過ごした。そうすると、ヘドロも男から少し離れたところでじっとするのだった。夜になって男がベッドに入ると、ヘドロはすぐ脇の床で溶けて流れ出すようにして横になった。
 深夜のこと。男が寝苦しさを感じて目を覚ますと、ヘドロがのしかかってきて男の上で溶け出した。男は形が崩れたヘドロの臭いにむせ返り、鼻や喉がつまって息ができなくなった。もうダメだと思うとはっと目が覚めた。夢だった。床を見るとヘドロがおとなしく寝ていた。
 翌日、男が買い出しに出かけると、ヘドロはまたもついてきた。男は脚の裏で押さえつけて家に留めようとしたが、ヘドロはしつこく前進しようとし、ついには諦めたのだ。ヘドロを連れた男を見ると、人々は当惑したり、嘲笑したりした。それも臭いを嗅ぐまでのことで、いったん臭いが鼻に届くと誰しも顔をしかめて離れていくのだった。
 男は自分を遠巻きにする人々の視線や囁き合う声を無視するように、食料品店で手早く買い物を済ませた。食べ物を置いているところで悪臭を振りまくことがどれだけ嫌がられるかは承知していた。男は会計のときも目を伏せ、誰の顔も見ないようにした。店の外に出ると子どもたちに石を投げられた。それは男に当たり、ヘドロにも当たった。男は文句も言わなければ、やり返しもせず、ヘドロをかばいもしなかった。いくら石が当たっても黙って耐え、俯いたままその場を去った。少し遅れて帰ってきたヘドロは、体のあちこみに小さなへこみができていた。
 ヘドロは動き回るたびに減っていき、日に日に小さくなっていった。それとともに次第に弱ってもいくようだった。二足歩行をしていたのが、やがて立つこともままならなくなり四つん這いで移動するようになった。そうすると減っていく速度も加速した。地面を這うようになるまでたいした時間はかからなかった。男は自分について回るヘドロに負担がかからないように何をするにも以前よりゆっくり動作するようになったが、ヘドロが減っていくのを止めることはできなかった。
 ある朝、男はゴミ袋を持って家を出た。ゴミ収集所までのわずかな距離を歩く途中で振り返ると、玄関を出たところでヘドロが身動きが取れなくなっていた。あわてて駆け寄ると、ヘドロは小さくうめき声を上げたあと動かなくなり、ただの泥になってしまった。午後になると雨が降り、泥は側溝へと流されていった。男は釣具を戸棚の奥にしまい込んだ。

いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。