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排泄小説 2

 行くあてなどなかった。腕や太ももがじんじんと痛んだし、腹も減ってきていた。すでに日は落ちていたが気温はたいして下がらず、薄着でも過ごしやすいのがせめてもの救いだった。
 おれはとりあえず最寄り駅まで歩くと、メイン通りにあるビルの二階に入っているファミレスに入った。安く済み、長居もしやすい店だった。
 おれは、壁や柱をぼんやり見つめながら脂ぎったピザをもそもそと食べた。ときどき水を飲んだ。恵野茶子は結局おれのうんこをどうしたんだろう。あれだけでも処理させてから追い出した方がよかったんじゃないか。頭に血がのぼってそれどころじゃなかったんだろうが、あとでしまったと思ったはずだ。
 おれを追い出してしまっては自分でやるより他ないが、やったんだろう、あの女は。ベランダ菜園のために買った棒切れを結局使って、あのくそ長いうんこを切り分けたのだ。
 そう思うとにやにやが止まらなかった。だいたい、おれの方が出て行かなければならないというのがおかしいのだ。当然だ。あそこはおれの部屋なんだから。家賃を払っているのはおれなのだ。気に入らないことがあるなら、あの女の方が出て行けばいい。それがなぜ、家賃を一円も払ってない恵野茶子の方が「出て行け」なんて偉そうに言えるのか。
 くそっ。なぜそれを主張しなかった。言えばよかった。そうすれば出ていくのはあの女の方で、おれは自分のうんこをしたいように処理できた。あの女が棒切れを持っていくというなら、代わりに割り箸かなんかを使えばいい。
 ああいう場面でうまくものを言えないのがおれなのだ。そのことは自分でもよく分かっていた。とっさのことで思いつかないというのもあるし、そんなわざわざ声を大にして主張するほどのものとも思えなくて成り行き任せにしてしまうというのもある。それでいつも相手のいいようにされてしまうのだ。弱いんだ、人と対峙するような場面に。そして、こうやってあとからぐじぐじ考える。いじましく。
 今にはじまったことじゃないから性格っていうんだろう、こういうのを。それでも、仮におれの主張にどんなに筋が通っていたとしても、自分の思う通りにするのが女って生きものには違いない。あの恵野茶子の場合は特にそうだ。結局はあの女のしたい通りになるのだ。そう考えると、おれはまたにやにや笑いが止まらなかった。まったくおかしいや、あのバカ女め。
 恵野茶子はただの居候で、おれがまったくの善意で住まわせてやっていたのだった。金は一銭も受け取ってなかった。別によこせとも思ってなかったが、どちらにしろあの女はろくに持ってなかった。少なくとも口ではそう言っていた。その代わり、礼は体で払うと言ったのだ。はっきり言葉にして言ったわけではないが、そういうニュアンスのことを言ったし、そういう素振りをして見せた。そして、実際そうした。
 誓って言うが、おれから提案したわけではないし、もちろん脅したりなんかもしていない。あの女が自分から言い出したのだ。それが事実なんだ。
 まるでおとぎ話みたいなもんで、この二か月というもの、おれは何度か自分に「お前は今人生のピークにいるぜ」と言ったものだった。心の中で。一度か二度は声に出して。
 やりたいときにいつでもやれる。そんな状況になれば男なら誰だってそう思うだろう。まさか泊めてやるってだけでアレを好きにやらせてくれる女が現れるなんて、おれだって予想してなかった。人生は出会いだなんて誰が言ったか知らないが、まったくもって彼女のルームメイトたちにはいくら感謝してもし足りないくらいだった。
 恵野茶子はもともと同年代の女たち四人でシェアハウスで暮らしていたが、ケンカして居られなくなってしまったという。理由はよく知らないが、なんやかやあって三対一の状況に追い込まれたらしい。
 本人はいじめにあったなんて言っていたが、案外悪いのは恵野茶子の方なのではないかとおれは睨んでいた。二か月も同じ部屋で暮らした上で感じていることだから、少しは説得力があると思うが。揉めた原因を訊いたときも腑に落ちるような説明はできなかったわけだし、あの女は。
 ともかく、恵野茶子がシェアハウスに居場所をなくして困っているときに、おれたちはたまたま知り合ったのだ。おれがバイト帰りによく立ち寄る喫茶店で、閉店まで粘った最後の二人の客として。
「顔見たことあります」
 そう言って話しかけてきたのはあの女の方だった。おれの方でも何となく見覚えがあった。その店で見かけたことがあったのかもしれないし、向こうがおれが働いているスーパーに買い物に来たことがあったのかもしれなかった。
 どっちだっていい。とにかく、おれたちは閉店した喫茶店の表で軽く立ち話をし、恵野茶子はそのままおれの部屋に転がり込んできたというわけだ。
 その後、彼女は一度か二度シェアハウスに荷物を取りに戻ったが、すっかりおれのところに居ついてしまった。ルームメイトたちとの和解など微塵も考えている様子はなかった。
 この先どうなることやらと思ってはいたが、おれは結論を急かすような真似はしなかった。どっちみち、今この身に起きていることはおとぎ話なんだし、遠からず終わりが来るに決まっていたからだ。
 二か月も続けば十分すぎるほどだった。そして、いざ終わってみたらこの通り、おれは宿無しになっているというわけだ。まったく上等な結末だが、こういうとき、おれのような友だちのいない人間は困ることになる。こういうとき、おれのような金のない人間は困ることになる。まったくその通りだ。おれは何とかして金のかからない場所でしのがなければならなかった。
 今いるこの店が二十四時間営業だったらピザ一枚で朝まで粘るところだったが、あいにくここは深夜二時で閉店だった。この界隈で安く一夜を明かせる場所となると選択肢などないも同然だった。
 というわけで、おれは夜九時になったのを見計らって駅の反対側にあるネットカフェに移動した。ちょうどその時間からナイトパックが適用になるのだ。九時間コースなら一四〇〇円で朝六時までいられる計算だ。シャワーがついてないタイプの店だったが、そんなことは構わなかった。おれが気がかりなのはただ一つ、トイレのことだけだ。
 本当のところ、いつだってそれだけが大事なことなのだ。
 このネットカフェには男女共用の狭苦しいトイレが一つあるだけだった。初めて利用するわけではないから分かっていたことだが、その点だけは不満だった。それはおれの不安を大いに煽った。トイレが一つしかないということは、いったん誰かが入ってしまえば、そいつが出るまで他の誰もトイレを使えないということなのだ。あまりに明白な事実だが、このことを真剣に考えてみたことのあるやつがどれほどいるだろう。どいつもこいつも無頓着で、トイレというものの重要性をこれっぽっちも分かってない。
 トイレとは最後の砦だ。己をかくまってくれるシェルターなのだ。それがいざというときに塞がっていたらどうなる? この世の終わりだ。おれはおしまいだ。何を大袈裟なと笑っていられるのは、他人事だと思っているやつだけだ。それが他人事のときだけだ。
 あんたがおれなら言っている意味がよく分かるはずだ。おれのように四六時中下痢に苦しんでいる人間になってみればいい。一日に二度も三度も不意の腹痛に襲われてみればいいんだ。出すより他に解決策がないような、ゆるゆるびちびちのうんこどもに。
 そうすればトイレがどれだけ重要なものか分かるようになるから。トイレが一つしかないときに鍵のところが赤になっていたときの絶望感が分かるはずだから。よりよい人生を送るためには、いかに不自由なく快適にトイレを利用できるかにかかっているということが分かるはずだから。
 くそっ、何がよりよい人生だ。
 うんこが漏れそうでどうしようもないとき、便器が天使みたいに空から降りてきてくれれば言うことはないだろう。四方の壁と一緒に。だが、そんなことが起きたためしは一度だってなかった。いつだって最悪の事態に直面しないで済むように、テンパりまくってトイレに駆け込むのが現実なんだ。間に合っただけでも儲けものだ。
 最悪の事態というのが何なのかは言わなくても分かるだろう。パンツの中で人の尊厳を根こそぎ奪う水様便が炸裂することだ。それこそがこの世の終わり。最悪のバッドエンド。
 だからこそ、おれはいつだってトイレがどこにあるかしっかり把握している。頭の中に何年もかけて作りあげたトイレマップがあって、自分の行動範囲のどこにどんなトイレがいくつあるか、ちゃんと分かっているのだ。それを把握しないで家を出るなんて、服を着ないで外出するようなものだ。それくらい無防備なことなのだ。よりよい人生、くそ食らえ。
 おれはカウンターにいたもしゃもしゃ頭の若い男から、十六番ブースを使うように案内された。
 それは壁沿いにあり、両隣のブースは今のところ空いていた。悪くない場所だった。夜は長い。おれは何度か読破したことがある、下ネタだらけの絵の汚いギャグ漫画を取ってきて読みはじめた。
 しばらくの間、おれは一人でぐふぐふ笑いながら楽しいときを過ごした。ところが、五巻の半分辺りまで読み進んだところで、ふいに奥のトイレの方から何か不穏な気配が漂ってきた。何が起きているのか確かめないわけにはいかず、おれはブースを出てそちらに向かった。
 一つしかないトイレを誰かが使用中だった。あの鍵のところの忌々しい赤。おれは落ち着かない気分でその赤をしばらく睨みつけ、やがて頭をぎりぎりと締めつけられるようになりながらブースに戻った。
 伏せておいた漫画に戻ろうとしたがダメだった。トイレのことが気になってギャグを面白がるどころではなかった。おれは下っ腹の辺りに慣れ親しんだ圧迫感を感じはじめていた。こうなるともう他のことは考えられなかった。
 おれは追いつめられたような気持ちになって、もう一度様子を見に行った。まだ同じやつが使用中だった。何してやがる、早く出ろ。おれは実験用のネズミのようにみじめで怯えた足取りでブースに戻った。
 漫画はやめて週刊誌のグラビアを見て気分を変えようとした。気を紛らすには女の裸が一番だからだ。だが、それももう遅かった。行きたいときにトイレに行けない状況にあるという、それだけのことがおれにはとんでもないストレスなのだ。
 脳みそが万力で締めつけられているみたいになって何も手につかなくなった。ただもうトイレのことしか考えられなかった。うんこのこと、くそのこと、トイレが空いてないことだけしか。くそにまつわるすべての失敗が頭の中で渦巻いた。「お腹が痛いのでトイレに行っていいですか?」「なんか臭くない?」「あのうんこしたのお前だろ?」「来いよ!またあいつが紙とってくれだってよ!」めくるめく恥の歴史。今まで何度となく似たような状況に陥り、下痢になったこと。びちぐそを漏らしたこと。それを人に知られたこと。

 ……ホーハイホー、ハイホーハイホー

 いやなものが聞こえてきた。へそと肛門を結ぶ直線のちょうど真ん中辺りで、何かどす黒いものが膨張しはじめていた。今にも暴動が起ころうとしていた。これはダメなやつだ。出すものを出さないと収まらないやつだ。ここに来たときから、こうなることは分かっていた。うんこに関する限り、いつだって悪い予感は的中するのだ。
 おれは後手後手に回っていることを死ぬほど後悔しながら、もう一度トイレのところに行った。こんなことなら、ずっとトイレの前に張りついて中のやつにプレッシャーをかけていればよかった。鍵のところは依然として赤かった。長すぎる。一つしかないトイレをこんなに長々占領するバカがどこにいやがる。
 おれは抗議の意味を込め、きつい叩き方でノックした。いかにもうんこを我慢しているやつみたいに、その場で足踏みをしながら。
 間。間延びした間。
 何とか言えこの野郎、そこにいることは分かってるんだ! じっとりと脂汗をかきながら頭の中でわめき散らしていると、ようやく入ってますのノックが返ってきた。「急かすなこのバカ」という声が聞こえてくるような叩き方だった。
 中のやつを八つ裂きにしてやりたかった。だが、向こうがトイレの中でこちらが外とあっては絶対的にこちらが不利なのだ。

 ハイホーハイホー、仕事が好き、たらりらたらたた、ハイホーハイホー
 ハイホーハイホー、仕事が好き、たらりらたらたた、ハイホーハイホー
 ハイホーハイホー、仕事が好き――

 またいつもの歌がはじまった。おれの腸内にいる七人の小人どもがコーラスしているのだ。これはやつらのワークソングだった。やつらは底意地悪そうににたにた笑いながらこの歌を歌い、力を合わせてうんこを押し出すのだ。
 括約筋を目一杯締めて抵抗しても多勢に無勢だった。重力までもおれの敵だった。おれは毎回押し負ける運命にあった。うんこは一本道をどんどんくだってくる。一つしかない出口を求めて、どんどんくだってくる。この歌が聞こえてきたらもう時間の問題なのだ。

いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。