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さようなら、父さん。

ご無沙汰しております。
とりの とさかです。
「骨は折れても心は折れない」を信条としておりましたが、昨夏の猛暑や秋の急激な冷え込み、そして冬の厳しい寒さにバッキバキに心が折れておりました。

とはいえ、この間に大学のスクーリングで授業を受けたり、日商簿記3級を取得したりと、大学卒業に向けて少しづつ歩みを進めてあと一歩のところまで来たので、今春に卒業できるよう頑張りたいと思います。




さて、ここから先は私的な事情も含めて、死について綴っていきます。
そこそこ重たい内容となりますため、読んでもいいよと言ってくださる方のみ、お進みください。




父が死にました。

昨日、母から聞きました。
原因は詳しくはわからないけれど、何かの病気でほぼ老衰のようなものだそうです。もう85歳なので、寿命ですね。
命日を聞きましたが「あ、そういえばいつなのか聞いてないわ。」とのこと。なんとも冷たいですよね。
もう二十年以上会っていないのであまり実感もありません。

正直なところ「これで本当に自由になれたんだ」とほっとしています。
血のつながった肉親に向けて、冷たいことは自覚してます。
ただ、子どもの頃に私たちを暴力で支配し、母と別れた後に投資話に乗っかって失敗をし、その借金を母と親族に押し付けて行方を眩ませたのですから、そりゃあ冷たくもなります。(別れた旦那の保証人になる母もお人よし過ぎると思いますが。)

子どもの頃、北海道のとある田舎町で父は小さな町工場を経営してました。
従業員はおらず父と母が働き、いとこ達が時々アルバイトに来るような小さな会社でした。お金持ちではなかったけど貧しいわけでもなく、それほど不自由せずに暮らせていたように思います。
当時は子どもを連れて仕事をしてもあまり何かを言われない時代だったので、取引先に納品に行くトラックに一緒に乗って、あちこち行った記憶があります。

人当たりが良いので、対外的にはいい父親に見えたと思います。
しかし、家庭内では気に入らないことがあると怒鳴り、物を壊し、暴力を振るう最低な父親でした。私と弟と母は父の機嫌を損なわないよう怯えながら暮らしてました。機嫌がいいときは遊んでくれたりもしましたが、いつ気が変わるかわからないため、顔色をうかがう癖がついていました。
どこに地雷があるかわからないって、ほんと面倒ですよね。

わたしが小学校を卒業する頃に両親は離婚をし、私と弟は母と一緒に暮らしました。父の暴言や暴力に怯えずに済む暮らしにはなりましたが、母も母で「こうすべき」が強く、言うことを聞かないとヒステリックに怒られるので、母の機嫌をうかがうことには引き続き縛られていました。

父親には子どもの養育費を払う義務と子どもに会う権利があるため、月に1、2度くらいは父と会うことがありました。その時はただただ何事もなくその日が終わるよう大人しくしてやり過ごしました。まあ、たまに会うことぐらい我慢するか、という感じですね。

いつの頃かは忘れてしまいましたが、父は投資を始めたと話しておりました。確か大豆の先物取引と言っていたかと思います。儲けたら小遣いをやると言ってましたが、うまくいかずに借金を重ねてその借金を周りに押し付けて行方不明になりました。

その後、人づてに伯母(父の姉)が住む某県にいることがわかりました。
わかったところで関わりたくはないのでこちらからは何もしないのですが、忘れた頃に「税金を滞納しているので親族が支払えるか」「生活保護を申請しているが親族が援助できないか」という旨の通知が役所から届いたりし、心の奥底にわだかまりを抱えながら生きてました。
普段は忘れて暮らしていても、もしもある日突然父が私たちの所に来て支援を求めたら・・・もしそれを断ったら暴力を振るわれるのではないか・・・もしくは何か厄介ごとに巻き込まれるのではないか・・・と時々頭によぎり、消せない不安に怯えてました。

現在、私は母と暮らし、弟は所帯を持ちそれなりに穏やかに生活してます。たまにはもめ事もあるけれど、あまりお金はないから生活はカツカツではあるけれど、まあまあ楽しく笑って生きています。
たぶんそれなりに幸せだから、これでいいのかもしれません。


父さん、さようなら。
わたしはもうあなたに怯えずに、心置きなく生きます。



最後まで読んでくださりありがとうございます。
スキしていただけますと幸いです。

生きる糧にします!