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最近はマインドフル瞑想が流行っていますね。僕自身は、仏陀が悟りを開いた時の瞑想といわれる「ヴィパッサナー瞑想」と、ドランバロ・メルキゼデクの「ハートの聖なる空間」に入る瞑想を少しかじっております。

〇 瞑想により顕在意識と無意識に橋渡しをする

瞑想とは何か。非常に深く、何通りもの回答があり得る問いと思います。ここでは多少乱暴であるものの、「瞑想とは、顕在意識と無意識に橋渡しをする行為」とシンプルに定義してみます。

当たり前ですが、我々は顕在意識で生きています。「信号を渡ろう。」「晩飯は焼肉定食にしよう。」「このレポートは明日までに仕上げよう。」などなど。顕在意識なしには、人間としての活動ができません。

一方で、顕在意識には弱点があります。効率を求めるあまり、我々の可能性を限定してしまう働きがあるのです。お箸を見れば、食べ物を食べる道具だと思う。グラスを見れば、飲み物を飲む道具だと思う。「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」と思えるのは岡本太郎さんのような天才だけです。

一方で、誰もが岡本太郎さんのようになれる可能性を秘めています。その可能性は無意識にあります。ユングは「集合無意識」というコンセプトを提示し、そこには膨大な量の普遍的な知恵が蓄えられていると考えました。

顕在意識を使って人間としての生活を行いつつ、無意識の無限の知恵にアクセスできれば豊かな人生を過ごすことができます。その橋渡しをするのが瞑想であると僕は考えます。

〇 無意識が制御するもの、顕在意識が制御するもの

ところで、我々の人間としての活動に、無意識が制御するものと、顕在意識が制御するものがあります。

たとえば、食べ物の消化。これは生きてゆくために必須であると共に、無意識に行われる活動です。「さっき食べたお昼ごはんの消化。いったん止めてみて!」」と言われて止められる人はいません。

一方で顕在意識が制御するものも沢山あります。「右手でグー、チョキ、パーをしてみて!」と言われれば、誰でもその動作を意識的に行うことができます。無意識に「グー、チョキ、パー」をし続ける人は、少なくとも僕は見たことがありません。

さて、本題です。呼吸はどちらに分類されますか?

その通り。両方なのです。我々は普段無意識に呼吸をしています。心臓が無意識に動いていることにかなり近い状況です。一方で、「息を止めてみて」と言われれば止めることができますし、「思いっきり吸って、思いっきりはいてみて!」と言われば、そのようにもできます。顕在意識によるコントロールも可能なのです。

〇 呼吸が顕在意識と無意識を橋渡しする

呼吸は、顕在意識と無意識の両方のコントロール化にある、不思議な性質を持つものなのです。そこに注意を向ける瞑想が、効果的なのは想像に難くありません。

ゆったりと、息を吐いて、ゆったりと息を吸う。そんなオーソドックスな瞑想も効果的です。そして、せっかくなので、1つだけとあるテクニック(?)をご紹介します。

アーナパーナ瞑想と呼ばれる、呼吸を観察する瞑想です。鼻呼吸をすると、息を吐く際と息を吸う際に、鼻の下の上唇の部分を「風が通り抜ける」ようなかすかな感覚を覚えます。そこに、ただただ注意を向け続けるのがアーナパーナ瞑想です。ちなみに、京都や千葉での10日間のヴィパッサナー瞑想では、最初の数日間はアーナパーナ瞑想のみを行います。

最後にあまりお上品でないネタでこのコラムを終わります。顕在意識と無意識の両方でコントロールされるもの。もう一つ気づいた方もおられるかもしれません。赤ちゃんや幼児がおむつをしているのは、排せつ行為が無意識のみで制御されるからです。それが大人になると、徐々に顕在意識でのコントロールが強まります。

どんなネタかというと…。京都の10日間のヴィパッサナー瞑想は最初の9日間は誰とも話をしてはいけません。合図や目くばせさえ禁じられています。よって、10日目は大おしゃべり大会になるのですが、その時に話をした方のエピソードです。瞑想中にトイレに行きたくなり、その衝動を我慢している際に、素晴らしい瞑想体験をしたそうです。笑いのネタではなく、大真面目に話してくれました。まさに、その方の無意識と顕在意識の間に橋渡しがなされたのだと解釈できるエピソードです。

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