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自分の人生をいきるということ

何かを知ったら、もう知らなかったころの自分には戻れない。こうした体験の積み重ねが、自分を作っていく。だから、その時々に「何を想ったのか」「何を思いついたのか」「何を考えたのか」という“何”という部分を、忘れないようにしないといけないなぁ、と思う。そしてそれらは、自分の人生をかけた宿題のようなものとして、自分の中に残っていくのだと思う。

一昨年の今ごろ、ある木曜日の夜。僕は寄附の取り扱いにおけるルールについて、調べごとをしていた。独立行政法人や医療法人という性格に合った寄附金の取り扱いのルールに従って、僕はある目的を果たさねばならなかった。

きっかけは、ある医師からのお願いだった。

「救いたい子がいます。寄附で、なんとかならないのでしょうか」

彼女が主治医として治療にあたっている子どもに使う医薬品が保険適用外で、高価で、在庫が少ない。これを必要とする患者さんの数は年に数人いるかいないか。だけど、このまま綱渡りの治療は望ましくない。

「新聞とかで見る『○○ちゃんを救いたい』というようなかたちで寄附金を募って、この薬を買いたいんです」

現状の治療では、まだ不足する事態には至っていないものの、今後のことも考えるとたしかに必要性は高い。わかりました。ということで、関係するだろう部門・部署に連絡を取って情報をまとめていった。しかし、当時の僕にはこの事案を整理し切るために求められる能力も、立場も、権力も何もなかった。なので、週末、自分なりに調べ上げたものを持って上長に確認しよう。そう思っていた。

週が明けた月曜日。早朝に、彼女からの電話で僕のPHSが鳴った。

「お願いしていた件ですが、必要なくなりました。

 昨日、あの子は亡くなりました」

“オマエは必要なくなった”——そう言われた気がした。

そんなはずは、ないのだけれど。自分の仕事ができていれば、その子は助かっただろうか?そんなことを、考えない訳にはいかなかった。

僕には、人生をかけた宿題がある。それと向き合うことが、自分の人生をいきるということなのだと思う。

貴重な時間のなか、拙文をお読みいただき 有り難う御座いました。戴いたサポートのお金はすべて、僕の親友の店(https://note.mu/toru0218/n/nfee56721684c)でのお食事に使います。叶えられた彼の夢が、ずっと続きますように。