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少なくともドメサカを嗜む者なら川崎を緑なんかで語りたくはないので、東芝と富士通と「ふり向くな君は美しい」から語ってみる。
基本的に語りたいテーマは二つに絞り込んで見て、一つはSCRAPの
記事としても切り取った永田竹丸氏が亡くなったことについて
まとめてみるか、と思ったけど、思ったよりも史料が厚めで手が
かかりそう。
といふことなんで、ポルトガルとウルグアイを観る前に選んだのは
こちら。基本的には払い巻き込みで書き込んだコメントの延長線上を
こちらで展開しようかと。
なので、経緯としてはここをまず引く必要があるかな。
我が町:川崎/登戸とヴェルディ。彼らが去った後日本サッカーが
動いた話。|西尾克洋/相撲ライターの相撲関係ないnote|note
まああの頃の緑にいた選手で、選手として嫌いではなかったのは
本田技研がプロ化する気全くなかったチキンだったので移籍して
きたきーちゃんこと北澤豪と、ごっつぁんで鳴らしたタケダホープ
こと武田修宏だけ。タケダホープはホリプロに居過ぎたこと(つい
こないだ退社)と、監督ライセンスを無闇に取らせてしまったが
為に以降監督ライセンス自体の合格率が下げられたこともあって
日本中のサッカークラブから総スカンを喰らい続けたことが
結局誰の為にもならないスケベタラチャンだったと。
でなんならJリーグ発足前後川崎には三チームが犇めいて
いたわけで。赤黒のユニフォームで、ミランカラーに決めたのは
こないだヴァンラーレ八戸の監督に就任決まった(で川崎Fにも
コンサドーレにも縁がある)広島式お好み焼きの伝道師ノブリン
こと石崎信弘監督で川崎にいた頃の実業団時代は東芝。
富士通は1995年に富士通川崎になり、社員選手だった城福浩は
中田英寿と同じ28歳で現役を退いているんですな。きっかけが
西野朗を要する日立に破れて昇格できなかったことから、ってのも
なかなか意味深な。1996年に乞われて富士通川崎の監督を務めるが
プロ監督招聘に向いていた川崎フロンターレには携わらず、
1998年に富士通を退社し、FC東京の創設準備から参画して
S級ライセンス所得。FC東京の監督に就いたのは2008年のこと
だった、ってのがまず数奇ですね。
(そんなこんななマチカネフクキタルになぞらえてジョウフクキタル
とか、今は本拠地調布なのでチョウフクキタルとか言われる城福浩
が東京Vの監督なのはもっと数奇でもあるんですが)
城福監督になりきってガッツポーズを!サンフレッチェ広島が
「JFK(じょうふく)Tシャツ」販売へ : ドメサカブログ
これは、、ほしい! 城福映えする。 https://t.co/bAvAdc9f7v
— cfr_11 (@cfr_11) July 26, 2018
どちらにも伸びしろになるようにと正力松太郎最期の仕事から
スタートした読売サッカークラブは町田のようなどっちつかずの
「よみうりランド」をベースにしながら育成がスタートし、
同じ神奈川の日産とライバル関係を組みながら成長していくと。
読売が電通使って関西の大会だった全国高校サッカー選手権を
関東に持ってきたのが一つの変革。これに沿ってテーマソングの
作詞をしたのは無論阿久悠、ってことになるから、やはり当然
「ふり向くな君は美しい」の項目を引く。
ところで、ぼくは、昭和51(1976)年に、高校サッカーの歌を作詞している。大阪で開催された大会を、東京に持ってくることになって、歌も一新したのである。「ふり向くな君は美しい」という。
青春の証明とスポーツの感傷を歌ったこの詞は去り行く敗者を称(たた)えるもので、ぼくのイメージの中に世界大戦としてのサッカーという思いは、ほとんどなかった。
[ふりむくな君は美しい](熱狂ワールドカップ・サッカーとの遭遇)
ま、ザ・バーズの歌なんですが、リスナーの口伝で
よく語られてたのはこのメンバーの中にいたのが小森まなみ
だった、といふのはまあマジな話なんだよな。まあ豆な話ですが。
まあそこから東京の調布にスタジアムが出来たので地域理念
飛び越してそっちに去っていった緑と、対象的に1997年から
改称した川崎フロンターレが土着していく話はASAYANが
生んだ最大にして最高のサッカー選手だった岡山一成の本を
引けばいいところなのですが、そろそろお時間ですね。
ではまあお題は全て出しましたし、このあたりで。