見出し画像

感動を表せない。私の陳腐な言葉たち〜WAISで人生の答え合わせ①

先日受けたWAIS-Ⅲの結果を受けて、自分の人生を振り返るシリーズを始めたいと思う。
1回目は「知覚統合」と「言語理解」の差が28あったことによる、内面世界を言語化することが苦手、という特性に関わりそうなエピソードから。


20代の始め、はっきりと感じた、一つの忘れられない感覚がある。
たぶん絵画をみた時だと思うけれど、もしかしたら美しい風景だったかもしれない。感動が心を満たし、文字通り胸がいっぱいになっているのだけれど、それは「わぁ〜!!」という感嘆詞や胸に込み上げる感覚であって決して言葉に置き換えれれるものではなかった。
遅めのモラトリアムが終わりを告げる頃で、私は拗ねるような気持ちで「本当に好き」なら、言葉にしないと認められないということに、心のどこかで気づいていた。もう年齢的には十分に大人だから言葉にするメリットも分かっていた。言葉にしないと、それは記憶されにくい。言葉にして覚えることで、人に話すことができる。それは大人として必要な作業だと。だから尚更、今はまだ言葉にしたくないこの感覚をまずは精一杯味わうという、最後の抵抗をしていたのだと思う。

すっかり大人になった私は今、感動するとぴったりの言葉を探す。それがいかに素晴らしいのかを、さまざまな言葉を重ねて表す。いつかの感動を引き合いに出したり、初めての感覚だと言ってみたり、何か素晴らしいものを借りて、それに似ていると言ったり。
感動しながら、頭では説明している。いつか誰かに話す時のために。そんな時はめったに訪れなかったとしても。
ぴったりに例えられれば記憶にも残るし、スッキリする。でも本当に感動を味わっている時はやはり今でも「わー!」なのだ。「わー!」「そうだ、そうなんだ」そして得るカタルシス。でもそれは留めておけない。
その後はじまる言葉探し。言い表せるほどの言葉は見つからない。感動が言葉に置き換えた瞬間に陳腐になるというあの頃の抵抗は、未だに心に存在している。
どんなに頑張って言葉で表したところで、本当のところは伝わらないのだ。自分の語彙の少なさ、肯定的な言葉のバリエーションの少なさを恨んだ。

言葉へのこだわりは、医者には特性だと言われた。私もそう感じる。自閉症的なこだわりを持っている。ピッタリじゃない言葉を選んだ時の違和感やストレス、引き続き探してしまう頭の探検は、特性なのだろう。

頭のなかの批評家にサヨナラを告げる。オリジナルな私は、感じることが得意。その場を精一杯感じ取ること、そして言葉にしないこと。言葉に無理に当てはめることの弊害がある。言葉にすることが大人だなんて、そんな根拠のない考えは捨てよう。
感動を言葉に表すと陳腐になる。この感覚は正しかった。でもそれは、私の語彙力の無さではない。私の内面の豊かなイメージ、言語ではない感覚の豊かさが突出している。だから言語が追いつかない。逆転の発想は、私に自信を与えてくれた。

この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,695件

#私は私のここがすき

15,611件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?