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宇佐見りん『推し、燃ゆ』│こんなにもままならない、でも人生は続く


あらすじ

女子高生のあかりには推しがいる。男女五人組アイドルに所属する上野真幸だ。
ある日、真幸がファンを殴ったとして炎上する。それでも真幸のファンとして「推し活」を続けるあかりだったが、高校生活、家族との関係など、自分自身の「生活」が少しずつ崩れていく。

感想

「推し」とは何か?

いつからか「推し」「推し活」「推し事」などの言葉がメジャーになり、日常に浸透したなと思う。

私は自分自身が何か一つのことや一人の人に没頭することはあまりないが、人から「推し」の話を聞くのが大好きだ。
アニメの好きなシーン、この前行ってきたライブ、推しのこういうところが好き、という話を聞いていると自分もワクワクしてくる。話している人のキラキラした目や楽し気な声を聴くのは心地が良い。

仲の良い友人の推し、となると、あらかたの前提知識は備わり、ネットニュースやテレビ番組などで取り上げられるとつい見てしまうほどだ。

私はこの本を、友人たちのような「推しを持つファン」を描いたものとイメージしていた。
推しは楽しくて、キラキラしていて、心の支えになるような存在。
推しがいるから、日常を頑張れる。生活にきらめきを与えられる。

でも、読む前に思っていたものとは違った。

あかりにとっての推しは「こんなにもうまくいかない世界で、自分との間に大きな埋めがたいズレがある世界で、なぜ生きていかなきゃいけないのか?」という問いかけに対して、一つの答えをくれた存在だったのだ。まさに「背骨」だったのだ。

ままならないこの世界にさす光

私の友人たちとあかりの違いは、「世界との隔絶」の感覚にある。

あかりは、この世界を「こんなにも、どうやってもままならない」と感じている。
「まわりの人が出来ている『普通のこと』ができない」と自分に対して認識している。

どうしても漢字が覚えられなかったり。部屋を片付けられなかったり。飲食店でバイトをしても、仕事の優先順位がつけられず怒られたり、常連さんとうまくコミュニケーションが取れなかったり。

あかりの祖母が亡くなった場面では、母と姉とともに移動している車の中であかりは友人とチャットで連絡をとって音付きのスタンプを送る。その空気に合わない明るい音声が、姉を驚かせる。そういうささいなシーンがあかりのズレを描き出す。

家族はあかりが「生活のことは何もできない」のに、推し活に精を出していることを不可解に思っている。
学校の先生も「とりあえずもうちょっと頑張ってみようよ」みたいなことを言う。

そんな中で「この世界でも生きていていいんだよ」と、そういう「免罪符」をくれたのが推し活をすること、つまり真幸くんを応援することだった。
大好きな人を応援すること。それがあかりにとって世界にさした「光」だったんじゃないだろうか。

人生は続く

「推しの炎上」が物語のとっかかりにはなっているけど、たぶん真幸が炎上しなくてもあかりの生活はゆるやかに同じ経過をたどっただろう、と想像する。
人生は続くし、世界はままならないままだから。

今まで熱狂的に何かを「推し」たことがない私がここまで書いたような感想は、この作品の大事な何かを見逃しているのかもしれない。

でも、あかりの苦しみ、世界と隔絶した感覚を、確かに共有した気がするのだ。苦しくても、世界とズレていても、それでも人生は続く。世界がままならないまま続くのが苦しくて、自分ではどうしようもないように感じる。

私は、この作品は「推し」「そのファン」を描いている以上に、世界を「自分にはままならない」と感じている人を描いたものだと思った。

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