ココでも安政地震が黙殺されている


2018/11/15 07:02

記事一部抜粋


 ◆京→江戸 24泊25日
 文久元(1861)年10月20日、当時10代の和宮を乗せた輿は一路、江戸に向かって京を出発。約530キロの道中、各地の宿場に泊まり江戸到着は11月15日。新幹線や飛行機など交通網が発達した現代では考えられない「24泊25日」の長旅でした。
 さらに、行列は千数百人の人々を引き連れ、道中、京側から1万人、江戸幕府側から1万6千人が加わりました。その他に持参した品物を運搬する人足を入れると、3万人余りに膨らんだといわれています。
 絵巻物のような行列の長さは約12里(50キロ)。通過するまで4日間もかかったといわれていました。ただ、延々と続く数珠つなぎの行列ではなく、先行して次の宿泊場所を検分する先触れや警護の「先行組」、そして「本体」の和宮の行列などに分かれて中山道を進んで行きました。

そもそも和宮の一行はなぜ東海道ではなく、中山道を選んだのでしょうか-。その理由を紹介したいと思います。
最も重要視したのが当時の政情不安による沿道の治安問題です。嫁いでもらう幕府は過激な攘夷派による襲撃を恐れていました。その意味で東海道に比べ人通りが少ない中山道の方が警護に適し、一般の往来の妨げになる影響も少ないと考えたのでしょう。
 また、中山道は東海道に比べて大きな川の川止めのリスクが少なく、行程が読みやすかったこともあります。変わったところでは、婚姻に縁起の悪い地名が東海道には多かったとも伝えられています。


以下私論です

和宮様の御一行はなぜ東海道ではなく、中山道を選んだのでしょうか

私の考えは上記産経新聞の記事とは全く違います

その答えは多分安政の大地震による直接の被害や津波やその後の土石流災害などで東海道はとてもじゃないが通れるような状況になかった

これだと思います

この国の歴史家の方々ははっきり言って全く駄目だと思います

早く明治維新の真実を明らかにしていってもらいたいものです






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