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【小説】きつねのながれ星

星降る夜になく獣。
流れ星から生まれたきつねと三日暮らした少年の話。

 星落池ほしおちいけに落ちた流れ星はきつねになる。そんな他では聞いたこともない伝説が今もなお残っているのが、山あいにある小さな村、稲尾いなお村だ。秋には稲がそれこそ金色の尾のように風になびき、傾斜のきつい坂を上っていく人間たちに手を振っている。

「涼介、今夜こっそり星落池いくべ」

 りゅーせー群が見られるんだってよ。囁いたのは数少ない同級生の克重かつしげだ。
 本人は古臭い名前だと疎んでいるが、涼介からすればなよなよとした自分の名前より、戦国武将のような彼の名前のほうが好きだった。それに今風の名前だからといってイケメンになるわけでも、人気者になれるわけでもない。
「名は体を表すって言うけど、あんたにそれは当てはまらないわねえ」と母には耳に胼胝ができるほど言われた。涼介の体温はいつも高い。握手をすれば大概熱いねと笑われる。涼介としては熱を奪われるだけでちっとも楽しくない。
 が、それを口にすれば、母のげんこつが降ってくるので、愛想笑いを浮かべるしかなかった。その上、名前とのギャップで散々からかわれるのだ。好きで子ども体温じゃないわい、と文句の一つでも吐き出したくなるのは致し方ないことであった。

「いいけど、夜抜け出せるん?」
「母ちゃん夜はいつもぐっすり寝とるし、平気だべ」

 にっと輝く白い歯が眩しい。肌がこんがり小麦色に焼けているせいで余計に。

「わかった。じゃあ集合は夜十時な」
「おう! 寝坊すんじゃねえぞ」

 ぶんぶんと手を振りながら克重は坂の向こうに消えていく。涼介はその背が最上段の田んぼを超えたところで背を向けた。秋風にのってガラリと戸を開く音が聞こえた。


 ろくに街灯もない村だから日が沈めばあっという間に闇に包まれる。月は出ているが、流れる雲に隠れては再び顔を出すのを繰り返し、青白く照らす光は頼りない。
 虫の音が響く中、涼介は懐中電灯片手に待ち人が現れるのを待った。

「悪い。遅くなった!」

 坂を転がり落ちてくるように、息を切らしながら克重が駆けよってくる。その手には涼介のものと瓜二つの懐中電灯があった。

「じゃ、いくべ」
「もちろん」

 おぼろげな月明かりを頼りに二人は歩く。見慣れた道もまるで別人のような気がした。ざわめく木々は夜遊びをする悪戯小僧どもを妖しく手招いている。草花は駆けていく二つの影を見、ひそひそと囁きあった。
 森の中を進むにつれ、脇から伸びる枝たちは遠慮をなくしていった。ちょっかいをかけてくる植物たちの腕をかいくぐり、アスファルトの道をたどる。高く伸びる木々たちによって月は遮られ、頼りになるのは手元の人工の光だけだ。
 やがて突然左の木々が割れて一本の道が現れた。斜め上を指す木の看板にはかすれた文字で「星落池」と書かれている。土を固めただけの、ろくに舗装もされていない道の先には闇がぽっかりと口を開けていた。行き先を照らしていた小さな丸い光がその中に吸いこまれる。
 ふいに一際強い風が吹き、木々が大きくたわんだ。
 二人はどちらともなく唾を飲みこんだ。

「いくべ。尻ごみすんじゃねえぞ」

 涼介はこくりとうなずき、震える足を見つけられる前に先陣を切った。
 先ほどよりも葉擦れの音が大きいのは気のせいだろうか。いや気のせいに違いない。この道だって昼間なら何度も通ったことある。雰囲気のせいで少しばかり恐ろしく見えるだけだ。きっとそうだ。
 汗ばむ手のひらに気づかぬふりをして、涼介は無心で足を動かし続けた。
 パキリと枝が折れる音がした。と、次の瞬間だった。立てつけの悪いドアが軋むような音が真夜中の森に響き渡る。枝葉の向こうで、宙に浮いたビー玉が懐中電灯の光を反射した。
 背後から克重の悲鳴が上がる。涼介は弾かれたように駆け出した。
 走って、走って、走って、走って。幸か不幸か星落池までの道は一本道だ。がむしゃらに足を動かしているうちにふいに視界が開けた。
 秋風に澄んだ水の匂いが混じる。だが水面は見えない。好き放題生えたススキが終着点を隠してしまっているからだ。
 多分あの声の正体は鹿だった。昔、あれに似た奇声に飛びあがったとき、「ありゃ鹿だ。お化けでもなんでもね」と祖母が笑って教えてくれたことがある。

「はは、俺ら鹿に驚かされたんか。だっせぇ」

 自嘲してもそれに応えてくれる相手はいない。りりり、りりりと虫の音が夜の空気を揺らすだけだ。
 身一つで歩き出す。懐中電灯は走っているうちにどこかに落としてしまった。と、なれば涼介が頼れるのは空に輝く星々だけだ。
 不思議と怖さはなかった。
 涼介はちょうど来た道の向かいにある桟橋を目指した。この池には一つだけ桟橋がかけられている。ほんの数歩ほどで行き止まりまでたどり着いてしまう、簡素な木製の桟橋は何のためにあるのかさっぱりわからなかった。池に釣り人が好むようなものなどいないし、普段よく人が来るわけでもない。明確な人工物はこの桟橋くらいで、これと申し訳程度に整備された道がなければ、手つかずの自然と誤解されても仕方がないほど人の気配が薄い場所だった。
 伸びに伸びた雑草をかきわけ、うっかり池に踏みこんで靴をぬらさないよう細心の注意を払いながら進むうちに、ふいに邪魔な影たちが消え、暗青色の鏡面が目の前に広がった。
 それは呼吸すら忘れるほど美しい光景だった。
 波紋一つない水面に天に瞬く銀紗が惜し気もなく散りばめられている。精巧な影絵のような草の影たちが池を縁どり、それ以外は上も下も無数の星の粒たちがきらきら、きらきらと光り輝いていた。
 それは完成された箱庭だった。静謐な不朽の空間だった。まるでこの美しいものたちを錆びぬように、汚れぬように神様がこの空間ごと閉じこめてしまったような閑寂な世界だった。
 いったいいつまで呆けていただろうか。時おり草の陰がさざめく他は、何の変化もなかった世界に一条の光が切りこんだ。
 はっと上を見上げると、幾筋もの光が空を横切っていく。間違いない。克重が言っていた流星群だ。
 たしか流れ星が消える前に三回願い事を言えば願いが叶うと他の地域では言われているらしい。だが光の尾はあっという間に夜闇に溶けていく。よほど短い願い事でなければ成立しないだろう。
 村の言い伝えでは流れ星は天で修行した狐たちであり、本来であれば玄炬山げんこさんという伝説の山に向かうのだが、時おりうっかり者がいて、星落池に落ちてくる。玄炬山にたどり着かなかった狐の命は短い。通常は朝日が昇る前に露と消える。しかし人に目撃されると狐の寿命が延び、玄炬山まで行くことができる。その礼として狐を見つけた者には狐が一つだけ願いを叶えてくれるらしい。
 馬鹿馬鹿しい。流れ星が狐になんかなるものか。宇宙の塵が燃える様が、狐火か何かと結びついたに違いない。
 涼介は首を振って、再び宇宙から飛来する最期のきらめきを眺めた。
 そのとき一つの光がだんだん大きくなっていることに涼介は気がついた。
 いや違う。大きくなっているのではない。近づいてきているのだ。その光はまっすぐこちらに向かってきていた。
(……まさか本当に?)
 しかし狼狽えたところで涼介にはどうすることもできない。
 そうこうしているうちに球はどんどん距離を縮めていって、ついに視界は白で塗りつぶされた。


 恐る恐る目を開けたときには謎の光は消え、再び夜の静寂が戻ってきていた。
 上には宝石を砕いたような星々が瞬いていたが、空を横切る閃光は見当たらなかった。
 もしや狐に化かされたのだろうか。それとも夢だったのだろうか。
 まあどの道そろそろ戻らなければ親にばれてしまう。涼介が腰を上げかけたそのとき、対岸からこちらを見つめている瞳と目が合った。
 涼介はひゅっと息をのんだ。
 それは獣の目だった。だが普通の獣の目ではなかった。紺藍の海の中に線香花火がはじけては海の中に沈んでいく。そして再び光が生まれては刹那の輝きをきらめかせていた。
 吸いこまれるような瞳だった。見た者の心を捕らえて離さない瞳だった。
 涼介はあわや池に落ちる寸前でようやく我に返った。
 獣は反対側の池の縁に座って涼介を見つめていた。姿形は狐そっくりだ。しかしその体毛は純白で暗闇の中で淡く発光していた。尾の先は燐光をまとい、時に赤々と、時に青白く夜風にたなびいている。それは毛先というより火先というほうがしっくりきた。額には朱をつけた指ですっと引いたかのような一筋の線が入っていたが、それもまた微かに発光していて、炎が一度として同じ形をとらないのと同じように模様や色すら移り変わっていた。
 きつねはその間も目を離さず涼介を見据えている。瞬きすらせずに。

「……うち来るか?」

 どうしてそのようなことを言ったのかわからない。ただ自分の意思とは関係なく、口が勝手に動いていた。
 返答はなかったが、獣は態度で示した。
 きつねは立ち上がり、一歩足を踏み出した。池の縁にいるのだから、前に出れば当然足は水に沈むはずである。だが地面の上を歩くかのように白い足は水面を淑やかに渡って涼介の前までやってきた。
 こうして向き合うと、その瞳の美しさがより一層際立つ。青みがかった闇の中で咲いては沈む光の花。その幻想的なガラス玉に時おり自分の顔が反射するのが、妙におかしかった。

――ああ、これはきっと宇宙だ。

 このきつねの中に宇宙があるのだ。ちかちかと輝いているのは星の命で、宇宙からきたこの獣は故郷の光景を目にはめこんだのだ。そんな思いが唐突に湧き上がってきた。
 きつねが鼻面をすり寄せる。その体を抱きしめると、嗅いだことのない遠い夜の匂いがした。
 その後どうやって帰ったのか覚えていない。気づけば自分の部屋で、窓からは眩い朝日が差しこんでいた。
 母が自分を呼ぶ声がする。時計を見ると、予想していたよりもはるかに長針は進んでいた。そろそろ朝ごはんを食べなければ学校に遅刻してしまう。涼介は急いで布団を片付け、制服に着替えると部屋をぐるりと見渡した。
 机の上には放り出された鉛筆と乱雑な字で書き殴ったノート。床に投げ出されたままのゲーム機とマンガ。自室の光景に変化はない。
 やはり夢だったのだ。夜も遅かったため、半分夢うつつだったに違いない。

「涼介! 早くしないと遅刻するよ!」

 母の怒鳴り声が飛ぶ。涼介はそれに叫び返しながら部屋を後にした。

「昨日はすまんかっただ。先帰っちまってよ」

 途中で合流した克重は涼介の顔を見るなり頭を下げた。

「気にすんなって。おかげで流れ星ひとりじめできたし」
「おお、見ただか! って何ひとりじめしてんだ、こいつ~」

 笑いながら克重が首に手を回して軽く締めてくる。それを押しのけようとしたが、意外と力がこもっていて中々抜け出せない。じゃれ合いは後ろからやってきた女子たちの冷たい眼差しが刺さるまで続いた。

「で、きつねは現れただか?」
「いんや、見られんかった」

 一瞬、昨日の光景を話そうかとも思ったが、話したところで信じてもらえるとは思えない。
(やめておこう。どうせ夢だ)
 途端につまらなさそうな顔をする克重を適当にいなし、涼介は学校に向かった。


「ただいま」
「おかえり。ああ、そうだ。帰って早々悪いんだけど、源五郎爺さんところにこれ届けてね」

 押しつけられたのはビニール袋に包まれた野菜たちだった。お隣さんである源五郎とは野菜やら魚やらをよく交換し合う仲なのだ。
 帰ったらすぐに友達を遊びに誘いにいくつもりだった涼介は盛大に顔をしかめた。

「えー面倒くさ」
「馬鹿言ってないで早く行ってきなさい」

 母が腕まくりし始めたので、涼介は慌てて自室へと走った。ランドセルを放り投げてさあ行こうと踵を返したそのとき、眼前に純白が広がった。
 次にやってきたのは柔らかな感触と、昨夜ぶりの匂い。

「は……?」

 よろよろと後ずさると目の前にあのきつねが座っていた。瞳の星は昼間であるからか昨夜よりも輝きが薄れてしまっていたが、美しいきらめきは健在だ。炎のような尾が腕をくすぐっても、熱も焦げ臭さも感じなかった。

「おま、は? なんで」

 きつねは何も答えない。ただあの日の星落池のような凪いだ瞳で涼介を見つめているだけだ。

「ちょっと涼介? 早く行きなさいよ……ってどうしたの、ぼーっと突っ立って」
「か、母ちゃん、きつね、きつねが!」
「狐? なに言ってるのあんた。狐なんてどこにもいないじゃない」

 母が訝しげな顔をする。涼介は母の顔をまじまじと見た。そこに嘘の色はない。きつねが座っているのは部屋の前の廊下だ。遮蔽物はない。
(まさか俺以外見えてない?)

「なんかの遊び? やるんなら源五郎爺さんのところに野菜届けてからにしてくれる?」

 きつねは今も同じ場所にいる。手を伸ばせば柔らかな感触もある。だが母には見えていない。母の手を引っ張ってきつねの体に触れさせれば母も信じてくれるかもしれないが、もしもこのきつねに触れられるのが涼介だけであれば、いよいよ病院に連れていかれるだろう。病院に行くには車を使わなければならないし、そうなれば貴重な自由時間がどれほど削られることか。
 そのまま動かない涼介に呆れたのか、母はため息を一つつくと奥に引っこんだ。涼介はちらりときつねに視線を投げた。きつねは微動だにしていない。
(まあじっとしているのなら放っておいてもいいか)
 朝はいなかったのだし、もしかしたらこのまま動かないかもしれない。それはそれで邪魔だが涼介が気にしなければいいだけだ。
 だが涼介の予想は早々に裏切られた。ビニール袋を抱えて毛皮と壁の間をすり抜けて歩き出すと後ろの気配も動く。振り返れば、きつねは真後ろにいた。

「な、なんでついてきてんだ!」

 きつねは何故怒鳴られているのかわからないという顔で首をかしげている。
 涼介が一歩踏み出すときつねも一歩足を前に出す。一歩下がるときつねも一歩下がる。

「だからついてくんなって!」
「さっきから何騒いでるの涼介!」

 奥から母の怒号が飛んだ。


 隣の家といっても、一度坂を下って田んぼを横切り、その先にある坂を上ったところにあるので地味に遠いし、疲れる。おまけに今日に限って野菜が多い。きつねは家を出ても当然の顔をしてついてきた。黄金色の稲穂を背に燐の炎がゆらめくのは、真昼に星を見ているような奇妙な感じがした。
 肩で息をしながらやっとこさ上ったが、玄関を開けても源五郎の姿は見えない。まさか留守だろうか。

「源五郎じいちゃーん。野菜届けにきたよー」
「おお涼坊か。ちっとこっちに回ってくれ」

 左の牛舎から声が返ってきた。短い坂を駆けおりて、涼介は薄暗い牛舎の中を覗きこんだ。
 源五郎は牛を柱にくくりつけているところだった。牛は足を踏ん張って頭を振り、必死に抵抗していたが、源五郎は鼻輪に通した縄を柱にまきつけ、ひょいひょいと牛を柵から頭を出すような恰好で固定した。
 源五郎は涼介とほとんど背が変わらぬくらい小柄な老人だが、大の男でも引きずられるような牛たちを易々と捕まえ、汗一つかかずに牛を操る。枯れ木のような体のどこにそんな力があるのだろう。

「よく来たなあ。清子ちゃんの野菜か?」
「そう。今日はちょっと多いよ」

 はい、と手渡すと、源五郎は皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。

「あんがとない。清子ちゃんの野菜はいつもうめえから助かるべ」

 涼介がちょうど源五郎にビニール袋を手渡したとき、鼻息を荒くしながらもくくりつけられて観念したのか大人しくなっていた牛が突如目をむいた。身をよじって筋肉を盛り上げ、柱がたわむ勢いで縄を引っ張っり、唾を飛ばして牛は鳴き喚いた。

「モー子どうしたの? いつもこんなに暴れたっけ?」
「おうおう、大人しくせえ。どうしただ、虫にでも刺されただか」

 ここの牛はモー子と呼ばれている。全頭同じ名前なので涼介にはさっぱり区別がつかない。一度牛ごとに名前をつけたらどうか、と提案したが、源五郎は首をふった。なんでも牛は全部同じ名前しておかないと情がわきすぎるとか何とか。そのあたりは牛飼いでない涼介にはよくわからない。
 それにしても酷い暴れ具合だったので、ひとまず涼介は牛舎を出た。涼介が外に出た途端、狂ったように喚いていた鳴き声がぴたりと止んだ。

「いやあすまなかっただ。さっきまで普通だったんだがな」

 額の汗をぬぐった源五郎がふいに動きを止めた。浮かべていた笑みを消して涼介の顔をじっと見ている。……いや違う。涼介の後ろを見ているのだ。正しくは例のきつねを見ている。

「……源五郎じいちゃん?」
「涼坊、きつね様に会っただか?」
「え、見えるの?」

 はっと顔を上げた涼介に源五郎は苦笑した。

「いんや見えね。でも涼坊は運がいいな。きつね様は誰にでも見えるわけではね。おらの兄貴は会ったことがあるから、なんとなくきつね様がいることはわかるけども、おらは見えねかったべな。いいなあ。きつね様はうんとべっぴんさんなんだって? おらも見たかったべ」

 貴重なきつねの情報に涼介は目を見開いた。まさか自分以外にもきつねに会った人物がいるなんて思ってもみなかったのだ。

「ねえ、そのきつね様っていつまでいるの? 願い事叶えてくれるってほんと?」
「たしか三日ぐれえだったか? 願い事叶えてくれるかどうかはわかんね。でも兄貴はええもん貰ったって言ってたな。ま、死ぬまで何もらったか教えてくんねかったがよ」
「ええー……なにそれ。結局知らないってことじゃん」

 頬を膨らませる涼介を、源五郎は大声で笑いながら頭をかき混ぜた。

「ま、三日しかいねえ美人さんなんだ。気軽に楽しめばいいべ」
「はあ? 俺としちゃ、よくわかんないきつねにつけ回されて、すっげえ迷惑なんだけど!」

 涼介が眦を吊り上げても源五郎は笑うだけで、全く取り合ってくれない。涼介は足音荒く源五郎の家を後にした。
 きつねは無言で涼介の後を追ってきた。
 家につくや否や、涼介はランドセルをひっくり返してノートと鉛筆を手に取った。今日は克重を誘って山にでも行こうかと思っていたが、予定変更だ。ひとまずきつねについてわかることを書き出した。

 一つ、きつねの姿を見られる人は限られている。源五郎じいちゃんの話が本当なら、恐らく見ることができる人のほうが少ない。
 一つ、きつねは三日ほど滞在すること。
 一つ、きつねは贈り物をくれること。願い事叶えてくれるかは不明。

「ってかさあ、きつねなら油揚げとか食べんの?」

 きつねは何も答えない。ただ一対の夜に星がきらめいているだけだ。

「はーあ、せめてお前がなんかしゃべってくれたらいいのにな」

 どうせ普通のきつねでないなら意思の疎通もできたのならばよかったのに。涼介は口をとがらせた。

「ま、考えても仕方ないか」

 味噌汁は毎日出るし、油揚げくらい冷蔵庫の中にあるだろう。思い立ったが吉日だ。涼介は一直線に台所へ向かった。今度はついてくる気配はなかった。

 結論から言ってきつねは油揚げを食べなかった。興味深げに匂いを嗅ぎはしたが、それだけだった。夕飯時に涼介が密かに持ち出した焼き魚の一かけらも、薄く切った一枚の塩もみきゅうりも米粒もまったく同じ反応だった。

「なんだよもう! せっかく人が持ってやったってんのに!」

 地団駄を踏んでもきつねは眉一つ動かさず、星の咲く瞳で涼介をただ見つめている。

「もう知らん! 俺は寝る!」

 電気を消すときつねの体が淡く浮かびあがる。闇を背にちりちりと燃える毛先は昼間よりも妖しく鮮やかだ。やはりこのきつねには夜が似合う。惚れ惚れするほど美しい獣だ。
 それゆえに不思議だった。いったいなぜ自分が選ばれたのだろう。母も源五郎も見ることができない宇宙からやってきた獣。恐らく涼介以外見ることはかなわない獣。単にあの日星落池にいたのがたまたま涼介だっただけなのだろうが、別の理由が潜んでいることを願わずにはいられなかった。
 きつねは組んだ前足に顎をのせて涼介を見ている。透明な眼差しにはどんな色も見いだすことはできない。そこに親愛の情を見つけだせたらどれほどいいだろうか。
 落ちていく意識の中できつねへと手を伸ばす。眠りの世界に落ちる寸前、指先に湿った鼻面が触れたような気がした。

 次の日、きつねは学校までついてきた。予想通りというべきか克重もクラスメイトも先生もきつねを感知することはなかった。きつねは教室の隅のロッカーの上に座って授業を眺めていた。
 トイレや運動場にはついてこなかったが、下校のチャイムが鳴って涼介がランドセルを背負うと至極当然の顔をして涼介の数歩後ろを歩いた。突然足を止めれば、止まり切れず、衝撃と共に豊かな尾が脇や指先をくすぐっていくのが面白くて何度かやった。三度目できつねはすっかり涼介のいたずらを理解して、それから一度も引っかかってくれなかった。

「なあ、水は飲む? ラムネでもいいけど」

 きつねは何も答えない。変わりゆく小宇宙に一番近いのは線香花火か万華鏡だと思ったが、花火は時期が過ぎているし、あいにく万華鏡は家になかった。だから一番透明できれいなビー玉が入ったラムネの瓶を目の前で振ってみたが、きつねは興味を示さなかった。平皿にいれてやっても鼻先すら近づけなかった。
 諦めて水道水を注いでやると、きつねは突如口を開き真っ赤な舌で水面を叩いた。

「なんだよ、水は飲むのかよ」

 きつねは貧乏性なのだろうか。ただの水道水に美味いも不味いもあるまい。自分だったら絶対ラムネのほうを選ぶ。
 ほんの少し水を注いだだけだったので、皿はあっという間に空になった。

「もっと飲む?」

 きつねはじっと涼介を見上げた。澄んだ眼差しはやはり何の意思も感じられなかったが、涼介はおかわりをねだっていると判断して再び台所に戻った。
 今度は深さのあるスープ皿になみなみと水を注いだ。きつねはしばらく皿を見つめていたが、おもむろに水面に顔を近づけて舌を伸ばした。
 水音が響く。純白の毛に手をうずめてみると、ほんのりと温かさを感じた。
 ちなみにこの日も油揚げを差し出してみたが、きつねは嗅ぎもしなかった。

 最後の日。源五郎の話が本当ならば今日できつねとはお別れだ。今日が休日でよかった。授業中きつねがいなくなることを心配しなくて済む。
 きつねは相変わらず涼介の後をついてきたが、どこか落ち着きがなく、しきりに山のほうを見ていた。

「もしかして星落池に行きたい?」

 きつねは涼介を見つめた。だがそれだけで十分だった。
 涼介は朝ごはんを食べ終えるや否や、家を飛び出した。
 朝の森は清涼な空気で満たされている。葉は色づき、遠くに見える山々は錦をまとって華やかだ。あの日の夜とは違い、太陽の光が差しこむ森を清々しさは感じても恐怖を感じることはない。

 星落池はぬけるような青空を映していた。赤とんぼが舞い踊り、ススキが自分たちに手を振っている。
 きつねは桟橋の先端に座って、雲が流れる水面を見つめていた。
 それからどれほど時間が経っただろうか。何の前触れもなく、きつねは頭を高く上げ、ひと声鳴いた。
 そのとき鼓膜を震わせた音を涼介は何と表現したらいいのかわからない。笛の音のようにも、幾重にも重なりあった鈴の音のようにも、はたまたまったく聞いたこともない未知の音のようにも聞こえた。一つだけ言えるのは鳴き声がコンではなかったということだけだ。
 帳が落ちる。さんさんと輝いていたはずの太陽は西に沈み、代わりに空に浮かぶのは無数の星々だ。
 あんぐりと口を開ける涼介を振り返り、きつねは口角を上げた。その目にはたしかに親しみが浮かんでいて、初めて涼介はきつねと心が通じ合ったと思った。
 顔をべろりと舐められたと思った瞬間、ポケットがずしりと重くなる。きつねは満足そうに鼻を鳴らすと天を見据えた。
 きつねが飛び上がった。ちょうど雪原で狩りをする狐の姿勢そっくりだった。唯一違うのは降り立つのが地面ではなく空中である点だ。

「ちょ、ちょっとまって……」

 伸ばした手は虚しく空を切る。振り返ることなく、一直線にきつねは駆けていった。
 走るうちに体の輪郭はぼやけて球となり、尾は彗星のように長く伸びて一筋の光となった。燐光を振りまきながら北へ北へと駆けていくその様はまさに流れ星そのものだった。

 気づけば太陽は頭上に輝いていて、涼介の頭には赤とんぼが止まっていた。きつねの姿が見えないのと、重くなったポケットを除けば何ひとつ変わらない秋の光景だ。
 ポケットから出てきたのは黒曜石のような真っ黒な石だった。表面は薄く膜をはったように曇っている。それが気に入らなくて涼介は桟橋に石を叩きつけた。
 硬質な音がして、あっさり石は割れて星が散った。
 波がたったような断面に、涼介が見惚れたあの宇宙があった。咲いては散り、咲いては沈むあの星が手の中にある。
 ああ、これが源五郎の兄がもらった「ええもん」なのだろう。額に石を押しつけるとほのかに温かく、遠い夜の匂いがした。
 涼介は石を抱えたまま、静かに目を閉じた。

 きつねは結局願い事を叶えてくれはしなかった。涼介のもとに残ったのは、手のひら大の石だけだ。だがそれでいいと思った。
 石は今も涼介の机の引き出しに大事にしまわれている。断面を覗けば星の万華鏡が見られるし、流星群が流れる時期には薄っすらと燐光に包まれるのだ。
 きつねは無事に玄炬山にたどり着いただろうか。たどり着いているといいと思う。
 今年も星が降る季節がやってくる。瞼の裏に空に向かって跳ねる獣が浮かんだ、そんな気がした。

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