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【短編小説】故郷思う頃

文化的背景が異なる二人が出会う確率はどのくらいなのだろう。
茶にまつわる「私」と友人の話。

「そういやさ、前くれたやつって水出しもできる?」
 運転手の彼女が唐突に尋ねてきたのは、車内にこもる暖気を逃すように窓を開けたときだった。牧場特有の干し草の匂いをのせた涼やかな風が頬を撫でる。もうすっかり春は過ぎ去ってしまったようだ。

「ああ、たしかできたとも思うよ」

 私はいつも湯でやっているから知らないけど。その一言は胸の内にしまって、私は曖昧に頷いた。彼女が指したものは去年私が送った茶葉のことだろう。母は毎年この時期になると寮母さん用に挨拶と礼を兼ねて茶を送ってくるのだ。そのとき

『私さ、お茶を飲むのが好きで、昔から定期的にお茶屋さんから茶葉を取り寄せているんだ。今も実家から送ってもらっているんだよね』

 と、何かの折に語っていたことを思い出し、ついでに彼女の分も母に頼んで送ってもらっていた。たしかにあげたときはいたく喜んでいたが、しかしまだ残っていたとは。

「よかった。あれおいしくてさ、まだ半分とっておいてあるんだよね。お湯もいいけど、水出しもしてみたくって」
「言ってくれれば贈ったのに。あっちじゃ茶なんて珍しいものでもないしさ」

 実は一週間ほど前に母から茶を贈られたばかりだったのだ。それはいつも世話になっている寮母さん用であったため、彼女の手に渡ることはなかったのだが、言ってくれれば一緒に送ってもらえただろうに。
 いや私が覚えておけばよかっただけの話か。去年は覚えていたが、一年も経つとすっかり頭から抜け落ちてしまった。なんであのとき思い出さなかったのだろう。
 そんな私の中に芽生えた罪悪感を吹き飛ばすかのように彼女は笑った。

「いいよまだ残っているし。でも本当に美味しかったから家族にも渡してやりたくてさ。そのとき頼んでもいい?」
「もちろん。いつでも言って」

 差し込む眩い光が膝を照らす。真正面に広がるのは牧草と畑が横たわる雄大な大地。なだらかな丘に家々がまばらに点在するその光景は、日本というよりもむしろヨーロッパの田舎に近い。
本当にここは日本なのだろうか? 毎度のことながらそう思う。少なくとも故郷はもっと細く曲がりくねった道だった。
と、何気なく左に視線を投げたそのとき、ある文字が目に入り、私は目を見開いた。

「あれ? もうとうもろこし売っているのかな。まだスーパーにも出ていないのに。早くない?」
「えっどこ?」
「ほらそこ」

 ちょうど私が座る左側の道の脇に店が一軒建っている。一階建てのバラック小屋のような店先には、これまた手作り感満載の「焼きとうもろこしあります」の文字と恐らく手描きであろう大きなとうもろこし絵が踊っている。

「うーんどうだろう。まだ早い気がするけどね」

 彼女はそれに一瞥をよこし、また前を向いた。看板はすぐに後ろに流れすぐに視界から消えた。

「でももうすっかり夏だよね」

 まだ初夏に入るか入らないかくらいだというのに木々は青々とした葉をつけ、日の下にいれば汗ばむほどである。駆け足でやってきた夏の気配に苦笑がこぼれ落ちる。

「そうだねえ」
「ここはとうもろこしが有名だから夏は食べ放題でしょ」
「うん。夏の時期にはよく出ていたよ。よく焼いて食べたよ」
「へえ焼き派なんだ。私は茹で派。なんかそっちのほうでよく食べていたからかな」
「でも茹でてもおいしいよね。どっちもありだな」

 私は同意した。焼いて苦いがパリッとした焦げ目とそれによって際立つ実の甘さもたしかにいいが、黄金色のつぶつぶが熱湯の中でさらに色味を増すのが好きだった。
 眼前にはだだっ広い一本道が広がっている。ふと幼い頃、助手席で一面のとうもろこし畑が広がる道を通ったことを思い出した。あの頃はとうもろこしがずいぶん巨大に見えたものだった。首が痛くなるほど傾けてもてっぺんは見えなくて、天然の迷路のようであった。今はもう僅かに首を傾けるだけで済む。

「いいな、羨ましい。うちは兄妹がとうもろこし出してもそんなに喜ばなかったからあんまり出ないんだ。やっぱり生産地は強いね」
「逆にこっちは茶畑ないけどね」
「あっ、そっか。じゃあ茶畑みたことないんだね。そういや今がちょうど新茶がでてくる頃だよ」
「えっ、そうなんだ。この時期なんだね。うちは夏になるとさ、お茶の香りがするアロマみたいなのを焚くんだよ。だからお茶って勝手に夏のイメージがあるな」
「へえそんなアロマあるんだね」

 頭の中に畳の上で小さなポッドがうっすら芳香をくゆらせる光景が浮かぶ。そこに風鈴でもつけたら風情ある部屋になりそうだ。
 しかし私の中の茶というものは真夏ではなく、初夏または冬だった。太陽に透けて輝く鮮やかなリーフグリーンや乾燥した冬の日に急須から立ち上る湯気。それこそが私の中の茶だった。

「じゃあこの時期に漂うお茶の香りも知らないんだ」
「えっいいな。そうなんだ」

 私は手元のスマホをちらりと見ながら頷いた。アプリが指し示す矢印は真っ直ぐ前を向いたままだ。本当にここの道は広くて一直線が多い。周りの若葉の色は故郷の茶畑から伸びる新芽に似ていた。落ち着つくあの匂いがふわりと鼻腔をくすぐった気がした。目を閉じれば、人生の大半を過ごした故郷の景色が浮かび上がる。
 そうか、彼女はあの匂いを知らないのか。町全体がやわらかく若々しい茶の匂いに包まれるあの季節を知らないのか。鈍い重低音を響かせながら茶を蒸す工場の熱気も、見渡す限り整然と並ぶ茶畑や電柱のごとく佇む防霜ファンも、そこから生える美しい新緑の芽も何もかも。私が慣れ親しんだあの感覚全て彼女にとって未知のものなのだ。

――でも、

 その代わり私は知らない。雪虫が舞い踊る秋の終わりも、下校時に昼夜の寒暖差でできた氷柱を雪の壁に突き刺して遊ぶことも、彼女の家の裏手にある小さな川の落差工から濡れた黒褐色のカワガラスが出入りする光景も。
 同じ国、同じ言語、同じ民族だというのに、あの場所を構成する茶の香りや冬のからっ風の感触、イントネーションさえも彼女の中にはないのだ。言われれば当たり前の事実だ。だがそれはずっと一つだと無意識のうちに信じてきたこの国の内部に見知らぬ外国のようなよそよそしい面を突きつけてられたようで、戸惑ってしまう。
 しかし思えば私が今隣に座っている彼女を形作ってきた欠片たちに触れたのは、住み慣れた故郷を後にして、この地に足を踏み入れたときだ。それまでは彼女が故郷の何一つも知らないように、私も何一つとして彼女の生まれ育ったこの地のことを知らなかった。
 初めて来たときのことはよく覚えている。なぜなら故郷では絶対に見られないものが当たり前のように転がっていたからだ。
 ――雪。道の脇に集められた山のような雪の塊だ。それは雨や泥で薄汚れていたけど、たしかに雪であった。きっとこの地の人々にとっては何を雪ごときでと思うことだろう。だが風花でさえ年に一度散るかどうか、ましては積もるなど夢のまた夢というような土地で育った私には、四月でも雪が残っているというのはこれまでの常識をハンマーでかち割られるような衝撃だった。

『母さん、四月なのに雪あるよ!!』

思わずメッセージアプリで写真を送ってしまったほどである。私が知る四月頭は桜舞い散る春であって決して雪だるまが何個も作れるような雪塊が鎮座していい季節ではないのだ。でもここではそれが普通。
 この地で育った彼女が当たり前だと思ってきたこと。その全てが私にとっては新鮮であった。四月の始めではなく五月に桜が咲くということも、梅雨がない六月も、一瞬で過ぎ去る秋も、そして雪が天から落ちてくるということも。
 見上げた空は故郷と変わらない青さだ。でもそれ以外は何もかも違っていた。今そよいでいる植物の種類も鳴いている鳥や虫たちも。
 例えば青葉茂る森で彼女がカッコウの鳴き声を聞くとき、私は通学途中の橋の上でカワセミを探していたし、彼女が雪を踏みしめるとき、私は太陽がさんさんと照らす中、乾いた北風に吹かれていた。

 住む場所どころか文化も違う二人が出会うのは一体どのくらいの確率なのだろう。
恐らく天文学的な確率でしょうと、脳内の専門家がもったいぶってのたまった。いやお前誰だよ。

「どうしたの? いきなり黙って」

そろそろ収拾がつかなくなってきた思考を止めたのは彼女の声だった。黒縁メガネのレンズ越しに怪訝な瞳が私を映す。

「いや夏だなと思って。なんかスイカ食べたくなってきた」
「おっいいね。私もスイカ好きなんだ」

 彼女は頭上に浮かぶ太陽のように朗らかに笑った。
 恐らく遥か彼方の故郷では、朝から茶摘みのために帽子に手ぬぐいを巻いた生産者たちが緑の海の中に入っていくのだろう。通学路の途中にある工場では白い蒸気に包まれた、何年も変わらない鉄の塊が億劫そうに規則正しい作動音を響かせているのだろう。スーパーや茶畑の真ん中にポツンと佇む自販機ではアルミに包まれた深緑色の葉が並べられているのだろう。
 気温だってこちらよりずっと高いはずだ。そろそろ蒸し暑い梅雨もやってくる。

――大丈夫、私も元気でやっているから

 誰に言うまでもなく心の中で独りごちる。
 遥か離れた北の国にも夏の足音はもう近い。

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