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【小説】酒と死神

死神とビールと生姜焼き。

カンカン。甲高い音を立てて薄汚れた階段を上り、錆びついたドアノブを回す。軋んだ音をたて扉は簡単に開いた。

ここの管理人は大雑把でろくな修理もしない。だから家賃は安いかわりにいろいろなところにガタがきていたが、その管理の杜撰さに初めて感謝した。そうでなければ普通、アパートの屋上なんて立ちいれられなかっただろう。鍵が本来の仕事をしていないなんてあの無精ひげを生やした大家は気づいていないはずだ。そしてこれからも気づくことはない。

大粒の汗をかいたビール缶がビニール袋の中で硬い音を響かせる。真夜中だというのに外は明るい。だがあの明かりの一つ一つが自分と同じ仕事に追われる人々の命の灯火だと思うと、きらめく夜景も物哀しくなった。

当然のことながら、屋上には自分の他に誰もいない。靴を脱ぎ捨て、胡坐をかいてビールをあける。プシュッと小気味いい音と共に泡が吹き出した。男はさらにビニール袋の中から唐揚げやポテトサラダ、柿の種を取り出す。

「最後の晩餐がコンビニのつまみとビールじゃあ、なんとも格好がつかないな」

自嘲しながらまずは目の前の缶に口つける。苦くて、喉ごしのよい爽快な泡が喉の奥で弾けた。

さてお次は唐揚げにするか。いやまずは野菜を食べてからのほうが体にいいんだったか。
今さら健康のことなど考えても意味ないのに、こんな考えが浮かぶ自分は馬鹿だ。

それでも耳にこびりついたどこぞのテレビの司会者の言葉が心に小さな引っかかりを生む。

食べる順番なんてどうでもいいのなら、先にサラダから食べたって問題ないじゃないか。男は誰にも言い聞かせないのに言い訳を頭の中で並べたてた。

結局迷った末、真っ白なサラダに手を伸ばしたそのとき。

「こんばんは。とてもいい夜ですね」

傍らから若い男の声が聞こえて男は光の速さで手を引っ込めた。恐る恐る隣を見るとにっこり笑った青年がしゃがみこんで男を見つめている。
黒髪ツーブロックショートの大学生だろうか、瑞々しい若葉のようなエネルギーが弾けているというのに暗闇が似合う不思議な青年だった。
だが何よりも目を引いたのは男が肩に乗っけている巨大な鎌だ。腰あたりまであるかと思われる刃先は地面すれすれで揺れていた。

「えっと、君は……」
「あれ? この姿見てもなんとも思わない?」

立ち上がった青年は見せびらかすようにくるりと一回転した。少々端がちぎれた年季を感じさせる古めかしい墨色のローブ、背負っている大鎌の柄には突風を連想させる豪快だが繊細な模様がはいっている。

「……もしかして死神かい?」

青年は笑顔で頷いた。男の口から自然とはは、とかすれた笑い声が漏れる。

「そうかい、そりゃあよかった。迎えに来てくれるなんてありがたい。やっと終われるんだな」

男の言葉に青年は笑みを消した。表情が落ちると途端に真昼の雰囲気は鳴りを潜め、夜の気配をまとうからなんとも奇妙で面白い。男は腹を抱えて笑いだしたくなってきた。

「でもさ、この一杯を空けてからでいいかい? 最後の晩餐なんだ。なんだったら、君にも一つあげるからさ」

青年はただ男を見つめている。表情がそぎ落とされた顔は蠟人形のようだった。しかしアルコールは恐ろしいものでそんな青年の態度ですら笑いのツボを押す材料にしかならない。

「あ、もしかして未成年かい? それだったら代金は払うからジュースでも買ってくるといい」

ぺらぺら話し続けているとふいに青年が相好を崩した。

「いやもう二十歳はたちだからお気になさらず。ありがとうな」

男の隣にどっかりと腰を下ろした死神はにやりと笑ってビール缶を手に取った。

「職務中じゃないのかい?」
「ああ、今絶賛職務中だな」
「じゃあ職務中にお酒飲んじゃ駄目じゃないか」
「でも誘われてしまったものを断るのも酷だろう」

死神はためらいもせず、缶を手に取る。静かな屋上にプシュッと炭酸のぬける軽やかな音が響き渡った。彼はそれを大胆にも一気に飲み干した。

「おお、見事な飲みっぷ」

りと言いかけたその瞬間だった。

「うっええ、まっず!」

盛大に顔をしかめた彼に男は目を丸くした。彼は舌をべっとだして転がり回っている。そのあまりの悶絶ように男はついに吹き出した。

「はははは! あれだけいい飲みっぷりだったからずいぶん豪快だと感心していたら、まだまだ子供舌じゃないか。格好つけずに苦手なら苦手と言えばよかっただろう」
「いやいや、俺はこの酒がこんなにみょうちきりんな味だとは思わなかったんだ。だってコマーシャルじゃあ、みんな美味そうに飲むだろ。普通美味いと思うじゃん。なんだってこんな変な味をわざわざ好んで飲むんだよ」

睨みつけるも涙目では迫力も何もない。それどころか小さな子供が精一杯虚勢をはって怒っているのを見守るような微笑ましさすら感じる。

「それが美味しいと思えるようになったときが大人になったことなのさ」

その苦みを受け入れられるのは既にそれ以上の苦みを散々経験しているからなのかもしれない。男もこの美味しさが理解できたころにはずいぶん社会にもまれた後であった。

「柿の種はいるかい? 唐揚げは残念ながらあげられないが」
「いんや、ここで食べると夕飯食べ損ねそうだからやめとく」
「なんだい、夕飯があるのかい。家族? それとも恋人?」

自分より年下であろう彼をからかってやろうと男はつっついた。相手が死神だろうと関係ない。どの道自分は今日で全てを終わらせるからだ。酒で気が大きくなっていることも手伝っていた。
が、その選択を男はすぐに後悔することになる。

「そうなんだよ。仕事さっさと終わらせて、今日こそは家に帰らなきゃいけないんだ。弟の料理食べ損ねちまう」

喉が不自然に閉まった。周囲の音が、潮がひくように遠ざかる。先ほどあった酔いは噓のように消え去っていた。

「……弟?」

震える声で尋ねると彼はうれしそうに続けた。

「そう、弟。俺の弟たちかわいくてさぁ、特に一番下の弟! いっぱい練習していろいろ作れるようになったんだよ。最近ちょっと忙しくて帰れなかったからさ、今日は帰るって言ったら俺の好物作って待っているって。かわいすぎない?」
「あ、ああ、そうだね」

上手く返せただろうか。声は不自然ではなかっただろうか。男にはよくわからなかった。血の気が引き、手が震える。
しかしそれに気がついていないのか、死神は立て板に水を流すように話し続けていく。

「もう本当にかわいい弟でさあ、マジで目に入れても痛くないね。あっ、そうそう俺、弟二人いるんだけど、一人は俺の一つ下なんだよ。ソイツ、俺と違ってめちゃくちゃしっかりしたヤツでさあ、もう上の面目丸つぶれ。いつも小言ばっかりでさ。ま、全部俺の自業自得なんだけど。
で、ソイツもさ、今日帰れるかもって言ったら、珍しくちょっと口元ほころばせて久しぶりに家族全員で食べられるなって。もう本当そういうところ! かぁわいいよなあ」

生き生きと語る彼の目は愛情にあふれている。お手本のような仲睦まじい兄弟だ。

――こんな兄弟になりたかった。彼のような理想の兄をやることができたら、結末は違っていたのだろうか。

ふさいだはずの古傷がずきりと痛む。
やめろ、それを痛いと認識する権利はもう自分にはないんだ。脳内の自分が耳をふさいだ。

動揺を抑えるように男は拳を握りしめる。が、死神は残酷にも平然とした顔で話を振ってきた。

「なあアンタのところはどうなんだ?」
「……そうだね、私にも弟がいたよ」

なんてこともないように、だがもうそれ以上踏み込むなという意をこめて返したが、彼には伝わらなかったらしい。

「ふうん、どんな弟だった?」

頬杖をついて彼は柿の種をつまむ。その顔には同情だとか逆に下種な好奇心など一切なく、ただの世間話のようだった。その態度に身体からゆっくり緊張が解けた。

「どんな弟だった、か……」

吐く息が宵闇に消えていく。その向こうに弱弱しく輝く星々が透けて見えた。

地上の眩しすぎる光のせいで天の星々はうすぼんやりと瞬くだけだ。これでは地上は美しくとも満天の星空は拝めない。上も二十四時間つきっぱなしの明かりのせいで、こちら側なんて見えないはずだ。
だがそれくらいがちょうどいいのかもしれない。弟に自分の無様な姿を晒すことはないだろうから。

黙りこんでいると視線を感じた。彼の眼差しはなんで黙っているの? とでも言うような無邪気な疑問を訴える。男は諦めのため息をついた。

「……小さい頃は気弱でね、よく私の後ろに隠れていたものだ」

人見知りの弟だった。小学生くらいの頃までは知らない大人が来るとすぐに自分の背に隠れ、そこからおずおずと顔をだしては目があった瞬間、ぴゃっと引っこむような子だった。中学生になると流石に人見知りは治ったが、それでもなんだかんだ言って自分の後ろをついて回るような子だった。反抗期に入った後も親とぶつかりこそはすれ、自分とは滅多に喧嘩せず、したとしてもその日のうちに仲直りできるような仲だった。

「えっ、めっちゃかわいいじゃん。もしかして甘えただったりする?」
「甘えたか……たしかに甘えたな一面はあったけれど、どちらかと言えば私のほうが甘やかしてもらったかもね」

独りぼっちが嫌でいつも自分と一緒にいる子だったが、振り返ってみるとそのタイミングは両親が仕事で遅くなったときだとか、台風のときだとか、自分がちょうど寂しくて不安になったタイミングだった。きっと甘えに見せかけた弟なりの気遣いだったのだろう。優しいあの子のしそうなことである。

「それわかる! 俺もそうなんだよ。兄ってさ、下の面倒をみてやるもんだと思っていたけど、意外とこっちが面倒みてもらっていうことあるよな」
「君の弟たちは特に苦労しそうだよねえ」
「それは思っても言わないでくれよ。散々周囲から言われているんだからさぁ」

肩を落とす死神はしょぼくれている。情けない姿に親しみがわいた。

「それで?」

小首をかしげて彼は先を促す。
瘡蓋がはがれて血が噴き出すような痛みを誤魔化すように男は酒をあおった。

「優しい子だったよ。親がいないときに作った下手くそな料理を美味い、美味いって食べてくれるような子だった。今でも思い出せるよ。端が焦げて固くなった生姜焼き」

初めて作った生姜焼きは固くて、おまけに分量を間違えたのか塩辛くて到底食えたものではなかった。だというのに弟は美味いと綺麗に完食した。自分ですら半分残したそれを。

「だから生姜焼きは好きだったさ」
「へえ、じゃあお揃いじゃん! 美味しいよな。俺も生姜焼き大好物なんだよ。末っ子が作ってくれるっていったのもそれ」

偶然にも彼の好物と同じだったらしい。妙な共通項に苦笑がこぼれた。

「じゃ、今もよく作るの?」
「いやもう作らないね」

今は視界にすら入れたくなかった。最後に食べたのはいつだっただろう。少なくとももう何年も食べていないはずだ。ずきりと頭が痛む。
死神はさらに尋ねてきた。

「なんで?」
「……弟を思い出すからさ」
「弟と険悪になったわけ? よっぽど嫌いになったとか」

手を握りしめる。掌に爪が食いこんで鋭い痛みが走った。
そうであればどんなによかったことだろう。いっそ憎んでしまえば楽になっただろうに。

男は首を振った。

「いいや。私が弟を殺したからさ」

彼の笑顔が固まった。が、もうどうにでもなれだ。もともと今日で終わらせるつもりだったのだからなんだっていいだろう。ましてや相手は今日あったばかりの死神なのだから。

「なんで殺したと思ったんだ?」

彼の言い方に引っかかりを覚えたが、男は懺悔のように胸につかえていたものをぽつり、ぽつりと吐き出した。

「最後に話したのは私がちょうど就活をしている頃だった。大学に行ってから珍しく弟から電話がかかってきてね、今でも耳にこびりついているよ。か細い声で兄貴、話したいことあるから時間あるかって」

縋るような声だった。しかしそのとき自分は希望の会社の面接の前日で非常に気が立っていた。だから間違った。いや目の前の彼であれば同じ状況でも誤らなかったかもしれない。こんな言い訳を並べている時点で自分は兄失格だったのだ。

くしゃりと前髪を握りつぶす。

「力任せに言ってしまったんだ。そんな時間あるわけないだろ、今忙しいんだよってね」

そっか、ごめんと顔を見なくても受話器の向こう側で弱弱しく笑う弟の顔が容易に想像できる声だった。一瞬、言い過ぎたかと思ったが明日はここ一番の大勝負だ。“そんなこと”は後でもいいだろうと胸に浮かんだ違和感を隅に押しやって明日のイメージトレーニングに勤しんだ。

「それで面接が終わったときには頭からすっぽり抜け落ちていてね。ひどいだろう? 数日後にきた連絡でようやく思い出したくらいだ。……まあ、もう全てが終わってしまった後だったがね」

連絡が取れないと部屋まで押しかけた弟の友人たちがみたものは変わり果てた弟の姿だった。脱ぎっぱなしの衣服や床に転がるカップラーメンの容器。その中心に弟はぶらりと釣り下がっていた。

たった独りっきりで弟は何を思ったのだろう。自分に対する深い失望か、置かれている状況に対する絶望か。

「首つり自殺だったそうだ。通話履歴の最後は自分でね、きっと最後の命綱だったはずだったんだ」

喉が一度引きつりを起こしたかのように震える。深呼吸して男は続けた。

「それを、私が切ったんだ。私の手で。弟が頼ってくれたというのに、憧れの会社に入りたいという馬鹿みたいな理由で。私が殺したも同然だ」

途中で言えなくなると思っていたが、案外冷静に話せたと思う。一度言葉にだすとあれほどためらっていたというのにとめどなく流れでる。隣の死神が相槌を打とうが、打たなかろうがどうでもよかった。

「友人はおろか両親でさえも私を責めなかったよ。聞くところによると、大学での友人関係に悩んでいたらしい。なんだか質の悪い奴に絡まれてしまったみたいでね。みんな口をそろえて言うんだ。お前のせいじゃない、あれはタイミングが悪かったんだって」

無性に口さみしくなって最後の缶をあける。煙草は趣味ではないが、買えばよかったかもしれない。そうすればこの気まずさも誤魔化しがきいただろうに。

胡坐をかいた膝の上に両膝を立て、手を組んだ両手に額をのせて男は続けた。

「私もね、周りの言うことに同調して忘れようと思ったんだ。……だけど忘れられなかった」

何度も、何度もあの声がよみがえる。繰り返し、繰り返しあのか細い声が廻り続ける。それはやがて懇願から怨嗟になり、どうして助けてくれなかったのかと幻聴がついてまわった。

「私は罰が欲しかった。でも皮肉なことにあの子が死んでから幸運が巡ってくるようになったんだ。希望の会社には受かったし、無事に卒業もできた。卒業パーティーのときには教授も後輩も盛大に祝ってくれたものだ」

幸せの中に浸るたびに足元の影が伸びていく。生まれた染みはどんどん大きくなっていき、罪悪感は募る一方だった。

「まるであの子が受け取るはずだった幸運が私に降り注いでいるようだった。だから、」

男は一度そこで口を閉ざした。夜風が冷たく頬を撫でる。

「だから罰を受けなければならないと思ったんだ。誰も与えてくれないのなら、私自身が与えなければ、と。そうでなければあの子が報われないだろう。人殺しがのうのうと暮らして、幸せになるなんて許されるはずがないのだから」

だからあれほど入りたかった会社を蹴って、いわゆるブラック企業とよばれる会社に入った。前々から悪評は聞いていたが、想像以上の会社だった。労働基準法に唾を吐いて破り捨てるような労働環境。何度会社で朝日を拝んだかわからない。

「同期がボロボロになって辞めていくのをみて、私はこの会社に入ったことに深い満足を感じたよ。ああ、あの子を殺した罰にはふさわしいってね」

目の前に広がる夜景の一つ一つの明かりの中にかつて自分もいたのだ。連日の激務にくたびれ果て、体重は何キロも落ち、目の下に隈を飼うのも当たり前と化していたが、いつかこの会社が自分を殺してくれると思うといっそ喜びすらわいたものだった。しかし――

「でもね、だんだんそれじゃ物足りなくなっていったんだ。あいにく親からもらったこの身体は意外と頑丈でね、同期のように脱落することはなかった。いつまでたっても終わりの見えない日々の中で、ふと思ってしまったんだ。私はいつまで生きればいいんだろうってね。あの子が死んでから一回り経ってもまだ生きているんだ。まだ飯食って、息を吸って、この世界に存在しているんだ。眠ればあの日のことが夢にでてくるというのに、でももうあの子はいないというのに。会社員を人として扱わない最低な会社ですら私を殺してはくれない」

男は一旦呼吸を整えた。

「もう自分で終わらせるしかないと思ったんだ。私は人殺しだからあの子と同じところにはいけないが、せめてもの償いだ。なあ、だから止めないでくれ。私は望んでこの場所にいる」

一陣の風が吹く。葉擦れの音がどこかで響いた。無機質な床に割り箸が刺さったままの白い塊が目に入る。重苦しい沈黙がその場を支配していた。

だがそれが破られるのは早かった。破ったのは一拍おいて吐かれた深いため息。もちろん自分のものではない。顔を上げるとやれやれと言わんばかりの顔つきで見つめる死神と目が合った。

「なるほど、アンタの意思が固いことはよーくわかった! ならば仕方ない。俺も無理に引き留めやしないさ」

芝居がかかった素振りで盛大に肩をすくめる。そしてにんまりと笑みを浮かべた。

「俺もアンタと同じ弟をもつ長男だからな。その気持ちはわかる。俺も同じ立場だったら耐えられないだろうしな。そこで、だ」

いつのまに出したのか死神は一枚の紙を目の前で振ってみせた。何の変哲もない白い紙だった。

「同じ長男のよしみとして出血大サービスだ。いつもだったらこんなことやらないんだぞ。アンタはすごく恵まれている」
「出血大サービスなんてまた古い言葉を使うね。もう死語じゃないのかい」

瞬間、彼の目が皿のように丸くなる。

「えっ、これもう使う奴いねえの? まったく人間の言葉の流行り廃りは早すぎるぜ。あと別に俺古臭い奴じゃないからな! まだ使う奴いるかもしれないだろ」
「そうだね。まだ使っている人がいるかもしれないから死語という言葉は取り消そう。それで、その大サービスというのは、手元の紙のことかい?」
「その通り。ま、これを聞いてからアンタが選択してくれ」
「もう変わらないと思うがね」

何を言われようとも自分の意思は揺らがないだろう。ビールを飲みつつ目線で先を促す。こちらの真に受けとらない態度に怒りもみせず、彼はただ口角を上げて紙を読み上げ始めた。

「拝啓、親愛なるあなた様へ」

どうやら手紙のようだ。誰かのメッセージを伝えにきたらしい。
両親だろうか。もう何年も連絡をとっていないが、彼らは元気にしているだろうか。頭を捻っても彼らの姿はおぼろげにしか浮かんでこない。

「お元気でしょうか、とはお世辞にも言えないでしょうね。これを書いてくれといきなり紙とペンを渡され、あなたの現状を聞かされたときは驚きました。真面目なあなたがここまで自暴自棄になるなんて――きっと俺のせいなんでしょうね」

男の動きが止まった。まさか、そんなことがあるはずがない。
慌てて彼を見ると彼は含み笑いを浮かべた。ある人物が思い当たって、口内が急速に乾いていく。

そうだった、彼は死神だ。ならば選ぶ人物なんて一人しかいないじゃないか。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

手を伸ばすも死神はひょいと腕を上げた。男は身を乗り出してとろうとするが、なかなか俊敏で奪い取ることができない。立ち上がった死神を追いかけるように男も立ち上がる。だが何度も手を伸ばしても掠りもしない。息切れする男とは対照的に彼は息ひとつ乱れておらず、それどころか男との攻防を楽しむ余裕すらあるようだった。

「と、ここまで他人行儀に書いてきたけど、やっぱりむずがゆいのでもう戻すな。俺が死んだのは」
「もうやめてくれ!」

しゃがみこんで男は叫んだ。その後は聞きたくない。それを聞いてしまえばきっと今までには戻れない。壊れてしまうと思った。
だが死神は無情にも続けていく。彼のよく通る声は耳の穴に指を突っ込んでも肌を貫通して頭の中で響いた。

「兄貴のせいじゃないし、恨んでもいないよ。結果として深い傷痕を残してしまったのは反省しているけど。でもそれじゃ兄貴は納得しないんだろ。
だからまず俺の現状から言うよ。俺は今穏やかな場所にいるんだ。いつも晴れで、野原が広がって花が咲いて、小川が流れて小鳥がさえずっているような穏やかな場所。そっちみたいに煩わしいこともないし、常に平和だよ。
でもそれだけなんだ。話す人もいないし、やることもないし、ただぼーっとときどき雲の間からそっちの様子を眺めることくらいしかやることない」

耳を覆っていた手が地面に落ちる。呆然と見上げると彼は静かに微笑んでいた。

「俺は自殺しちゃったから普通の人よりもここにいる時間が長いんだって。だからさ、兄貴。兄貴がよぼよぼのお爺さんになってからでも俺は迎えにいけるよ。あとね、兄貴まで俺と同じことしちゃったら、すれ違いで会えなくなるかもしれないんだってさ」

「もし兄貴が俺に申し訳ないとか感じるんだったら、罰がほしいと感じるんだったら、最後まで生きてよ。生きぬいてこっちにきたときに、俺にそっちで起こったこと話してよ。きっと嫌なことがいっぱいあるそっちで生きるのは大変だと思う」

「でも兄貴ならやれるよ。だって俺の自慢の兄貴なんだぜ? 俺は信じているよ」
「は、るあき……」

もう二度と呼ばないはずだった名がこぼれ落ちる。それを契機に堰を切ったように水があふれでた。静まり返った屋上で一人分の嗚咽が漏れる。
滲んだ視界の中で彼の白い歯がやけに映えた。

「なあこれでもアンタ、やる気かい?」

彼の笑顔にいつかの日の弟の笑顔が重なった気がした。顔のつくりなんて全然似ていないというのに。
男は涙と鼻水にまみれた酷い顔面を晒しながらただ首を振った。


一生分の涙を使い切ったような気がする。鼻は詰まり、頭は鈍い痛みを訴え、喉も引きつりを起こしているが、心は澄んだ青空のように晴れていた。と、目の前に白い何かが差し出される。

「これ使うか?」

差し出されたのは一枚の無地のハンカチだった。ありがたく受け取って涙を拭う。既にスーツの袖は鼻水と涙で使いものになっていない。汚れた上着をぬぎ、男は死神に向き合った。

「ハンカチありがとう。洗って返すよ」
「いやいいよ。俺使わないし、アンタにやる」

手を振る彼は受け取る気が一切ないようで、男は大人しく貰うことにした。

「そうかい。じゃあお言葉に甘えてもらっておくよ。ところで君は死神だろう。なんでわざわざこんな手をこんだ真似をしてまで私を止めにきたんだい?」

彼は口元を緩めて男を見つめる。それは幼い子供を見守る親のような、慈悲にあふれた表情だった。

そんな表情は彼には似合わないと男は居心地の悪さを感じた。それは目の前で子供のように泣き出したせいなのかもしれないし、また別の要因かもしれない。とにかく今の大人びた表情よりも以前の子供っぽい笑顔のほうがずっとよかった。

願いが通じたのか彼はすぐにいたずらっぽい笑みに戻る。

「それが俺の仕事だからさ」
「死神なのに?」
「そう。最近は人間が昔よりも平和になったせいか悩むことが増えて、決められた寿命よりも先にこっちに来ちまうんだよ。うちの上司はそれでもいいかって納得したんだけどさあ、他がグチグチ口出したみたいで、今はアンタみたいにさだめより先に来ようとする人間の説得も俺たちの仕事なの」
「ふうん。じゃあ私がもつ背景も全部知っていたわけだ」

先ほどの違和感がわかった。彼は全て知っていた上で話を持ちかけたのだ。

「そうだな。だから俺をよこしたんだろ、うちの上司」

ならば仕方ないと思うが、心のどこかですきま風が吹く。それを見越したのか彼はふっと笑った。

「でも俺が言ったことは本心だよ。説得の仕方はそれぞれに任されているし、アンタの弟に手紙を書いてくれって頼んだのも俺の独断。な、俺が噓つくように見える?」

こてんと首をかしげて覗き込む姿は子供っぽい。二十歳というのはこんなにも子供と大人の境界にいるものだっただろうか。弟、春明はどうだっただろうか。ちょうど彼と同い年まで生きた弟の姿は思いだせず、ただ幼い頃の無邪気な笑顔だけが脳裏に浮かんだ。

「いや見えないね」

同意すると彼は笑みを深めた。

「だろ?」
「でももし私が春明の手紙を読み聞かされても決心が変わらなかったらどうするんだい?」
「え、諦めるけど。俺ができる手札使い切っちまったし」
「え……」

あまりにも平然と言われたので絶句した。彼はしゃがんで、再び柿の種をつまみ始めた。ボリボリとかき餅が砕ける音が響き渡る。

「な、諦めるのかい!? 君の仕事なんだろう!?」

思わず声を荒げると彼は不思議そうにこちらを見つめた。口の端にオレンジの欠片がつけながら。

「そうだけど俺ができることはもうねえし、アンタがそうしたいっていうんなら俺が口出しすることでもないしな。俺はやめたほうがいいんじゃないとは思うけど、あくまで提案だ。無理くりに押しつけたいとは思ってねえよ」

夜の海のように凪いだ瞳に力が抜けていく。それでも心のどこかで認めたくないと叫ぶ自分がいた。男は粉々に砕けた気力をかき集めて、もたつく舌で反論した。

「そ、それはそうかもしれないけど、仕事を放ってもいいのかい。君の上司は怒るだろう?」

それを彼は鋭い刃物で切るように一刀両断した。

「いや別に。死神なんて人の意思を変えられるほど力をもっているとも思ってないし、できなかったらそうか、残念だとしか言わないぞ。それについては重々承知しているからな」

男の身体から全ての力がぬける。なんなのだろう彼らは。もはや彼らが何のために動いているのかさっぱりわからなかった。

「君たちは私たちを助けたいのか見捨てたいのかどっちなんだい。死神なんだから私たちよりもすごい存在じゃないのかい?」
「いんや? 俺たちができることなんてほんのわずかだぜ。俺たちそんなに大した力もっていないしな。それに」

彼の瞳が真っ直ぐ男を貫く。底にある確固とした光はこちらをたじろがせるのに十分な力をもっていた。

「アンタが自分の意思で変わらなきゃ意味ないだろ。俺たちは今みたいにいつだって駆けつけられるわけじゃないんだぜ。天寿を全うしてほしいとは願っているが、如何せん仕事が多すぎてね。最近は人間が増えすぎて人員不足に拍車がかかっているし」

残業が多すぎて嫌になっちまう、とわざとらしく肩をすくめて彼は言った。

「じゃあ私は正真正銘恵まれていたってわけか」

にやっと彼は口角を上げた。

「そうだぜ? しかも後二回は様子見に来る決まりがあるからな。このエリートの俺が後二回も来てやるんだぜ? 本当に恵まれているよアンタ」
「君が? 冗談だろう」
「噓じゃねえって! 俺めちゃくちゃエリートだからな。同期の中で一番できるし、書類仕事じゃなきゃなんでもできるんだよ!」

肩を怒らせ、大きな身振り手振りで訴える死神を手で宥める。

「わかった、わかった。そういうことにしておこう」
「ったく俺の仕事ぶり見ていないからそんなこと言えるんだぜ」

ふてくされたように彼はぼやいた。

「ところで君はあと二回私に会いにくるんだろう?」
「そうだけど?」
「じゃあ名前くらい教えてくれないかい。君は私のことを知っているのに私は名前すら知らないなんて不公平じゃないか」

すると彼はなぜか梅干しを食べたような表情を浮かべた。頭をかきつつ気まずげに彼は言う。

「あーそりゃそうだけど、こっちの規則もあってだな……」
「そんなに厳しいのかい? 名前くらいいいじゃないか。そもそも名前知った程度でどうこうできるものでもなし」
「そりゃあそうなんだけどさ」

彼はうなりながら顎に手をあててしばし考え込んでいたが、やがてこちらにつっとおもてを上げた。そこには蛍光灯のぼんやりした明かりでもわかる強い光が宿っていた。

「まあそのくらいなら大丈夫だろう。俺の名前はソウマ。よろしく」

手を差し出され、つられて思わず彼の手を握る。ひんやりとした手だった。だが力強い手だった。

「ソウマか。いい名前じゃないか。どんな字を書くんだい?」
「それは勘弁してくれ。そこまで言っちゃあマジであの方に雷落とされる」

大げさに身を震わせ、おどけた様子でソウマはこちらの質問を躱した。彼は肝心なところは宙を舞う木の葉のようにつかみどころがないと改めて男は思った。彼はとっつきやすそうにみえて、大事なところは踏みこめさせない。それに一抹の寂しさ感じるも、素知らぬふりして男は口を開いた。

「そうかい。じゃあまだ食べるかい?」

飲むかと聞きたかったが、あいにくもう缶はない。三つの空き缶だけがコンクリートの床に散らばっていた。残るは冷めた唐揚げと手をつける直前のポテトサラダ、半分以上なくなった柿の種だけだ。彼はちらりとそれらに視線をよこし、そして男に視線を移す。その夜の瞳はこれ以上ないほどやわらかな光を宿していた。

「いやもう帰る。そろそろ帰らねえと夕飯間に合わなくなるから」

彼は小さく笑って大鎌を担ぎ直した。

「じゃあまたな!」

太陽のような笑みと共に彼は夜にかき消えた。静寂が訪れ、彼がいたこと自体夢ではないかと思ってしまう。だが食べた覚えのない柿の種の減りよう、飲み干された一つのビール缶、何より――

「春明、本当にできすぎだよ。これじゃ兄の顔もたたないじゃないか……」

手元にはよれてしわくちゃになった一枚の紙。そこに書かれた筆跡はたしかに弟のものだった。


「で、どうよ進捗は?」

突然横から覗き込む気配がして男は飛びあがった。勢い良く飛び退り、早鐘のように打つ心臓をおさえながら恐る恐る振り向くと、満面の笑みを浮かべたソウマが立っていた。

「なんだ君か。驚かさないでくれ。今火を使っているところだったんだぞ。火事になったらどうするつもりだ」
「あれ、まずはどこかから入ったんだって聞くところじゃねえの?」

いたずらが成功した子供のように笑う彼に深くため息をついた。

「君は死神だからね。どこからだって入ってこれるんだろう」

鍵はたしかにかけた覚えがある。窓をみても鍵が開いた形跡はない。不審な気配も感じなかった。しかし相手は死神なのだ。鍵のかけた部屋に音もなく忍びこむなど造作もないだろう。

「なーんだ。もっと驚くかと思ったのに」
「ご期待にそえなくて申し訳ない。でも驚くという点では十分な反応をしたと思うがね」
「いやアンタ、自分が思っているより顔にでないからな。あーつまんねえ」

口をとがらせる彼に本日二度目のため息をついた。先ほど少なくとも一メートルは距離をとったのを見なかったのだろうか。それとも彼の目は節穴なのか。一回りも年下なのに私より目が悪いとは可哀想に。

「で、今日の夕飯なに?」
「君は私の弟かね。春明でももう少しがっつかないよ」

その点春明は物分かりのいい子であった。忙しいならごめんね、夕ご飯もうすぐできる?と申し訳なさそうに眉を下げ、おずおずと伺いにくるいじらしさといったら! おまけに皿を出したり洗い物をしてくれたりとできる範囲の限り手伝ってくれさえしたのだ。

「そりゃアンタの弟じゃないからな。あとアンタそれ多分小学生までの記憶だぞ。中学生になったら俺の訊き方とそんなに変わんねえからな」
「死神っていうのは頭の中まで読める能力があるのかい。もしそうだとしてもそういうのは心に秘めておくのがマナーだろう」
「いやアンタの記録と表情で判断できるわ。これでもかってくらい顔が緩んだからな」

ソウマは冷めた目つきでこちらを眺めている。古びた黒のローブ姿は相変わらずだが、その肩には例の大鎌は見当たらない。手狭な部屋では流石に危険だと判断したのだろうか。そうだとしたならばいいが。床でも傷つけられたらたまったものじゃない。

「まったく同じ歳だった春明はここまで食い意地はっていなかったぞ。君の弟たちの苦労をお察しするよ」
「別に盗み食いしようと企んでいるわけじゃないんだからいいだろ。その鍋の中身なにかって聞いただけなのにさあ」

ぶつぶつ呟くソウマは不満気にこちらを睨んだ。鍋の中には不揃いな野菜とスーパーのパックから取り出しただけの肉が踊っている。

「見ればわかるだろう。豚汁さ」
「てっきり生姜焼きを作っているのかと思ったぜ。好物なんだろ?」
「流石に好物だっていつも作るわけじゃないさ。君が今日来ることも知らなかったしね」

焼魚にカットサラダ、豚汁、白飯を並べて男は席につく。侘しい独り身なのでもう一人分の座布団すらもっておらず、タンスから適当にタオルを引き出し、それを向かいに敷いてソウマに勧めた。

「おっ、どうも。別に床に直でもいいのに」

軽く頭をさげ、ソウマは正面に胡坐をかいて座る。

「私は今から夕食をとるがいいかい?」
「どうぞお好きに。そもそも家主はアンタだろ」

変なのと笑う彼はやはり実年齢より幼く見えた。箸が食器にあたる音が鳴り響く。

「……仕事辞めてきたよ」

独り言のように呟いた。片肘をつきながらソウマはふうんと相槌を打つ。

「そうかい。そりゃよかったじゃん」
「ああ。幸いにも拾ってくれるところがあってね、そこで働くことになったよ。前よりも求められるレベルは高いが、前とは比べ物にならないくらいやりがいのある職場さ」

辞表を叩き付けたときは爽快だった。禿げ頭に脂汗がにじみ、お前を拾うところなんてないと唾を飛ばした元上司にいえもう転職先決まっておりますのでと言ったとき、一番表情筋が仕事していただろう。現にその後、元会社の後輩からすごいいい笑顔でしたねと言われたくらいだ。まあたしかにあの怒鳴ることだけが仕事の上司が崩れ落ちるのは今でも笑えるところだが。

「そうそう、知ってた? 俺の一つ下の弟の一番の好物さ、豚汁なんだぜ。だからさアンタが豚汁作っているところ見てそうやって作るんだなって感心したとこ」

何の気もなしに発せられた言葉に男は目を丸くした。何かと自分と気が合う兄弟のようだ。それにしても豚汁が好きとはなかなかニッチなところをつく。豚汁を嫌いな人はあまりいないだろうが、逆にわざわざ好きなものに挙げる人も少数派だろう。

「へえ、それは奇遇だ。というかソウマは手伝いしないのかい?」
「俺、優秀だから手伝い覚える前に仕事するようになっちゃったんだよなあ。だからお袋はその反省を踏まえて下二人にはみっちり家事たたきこんでる」
「手伝いはしたほうがいいよ。親孝行はできるうちにしておいたほうがいいしね。まあ私が言えた義理じゃないけど」

この前連絡したとき親は泣いていた。実際に会ったときはもっと酷く、こんなに瘦せてと泣き崩れる両親の姿は埋もれていた罪悪感を刺激するには十分であった。親は薄々わかっていたのだろう。独りよがりの贖罪とも言えぬ自罰的な行動を。抱きしめ返したとき大きかったはずの身体は腕の中に収まるくらい小さくなり、頭は完全に白髪になっていた。

「たしかにな。今度からやってみるわ。ところでさアンタ、生姜焼きって得意料理?」
「そりゃ好物だからね。他のやつよりかは上手くできる自信があるけど……」

一体なぜ今そんなことを尋ねるのか真意がわからず、男は首を捻った。

「いや末っ子がさ、最近もっと料理の質をあげたいって悩んでいてさ。俺は十分満足しているんだけど、どうしても本人は納得できないらしくて、アンタの話をしたら美味い生姜焼きの作り方を知っているんじゃないか、訊いてきてくれって頼まれたんだよ」
「なるほどね。でももうずいぶん料理なんて作っていなかったからねえ……レシピ書いてもいいけど、どうしてもうろ覚えになってしまうよ。それでもいいかい?」

弟だけでなく他人からも褒められる唯一の料理だったが、如何せん正確に測るわけではないため分量は大さじ一杯などではなく、醬油ひと回しなど抽象的な表現になってしまう。それでもいいのかと念を押すとソウマは鷹揚に頷いた。

「いや助かる。末っ子が最近ずっと悩んでいるみたいだったからさ」
「真面目でいい弟をもったじゃないか」
「それにかわいいも追加しろよ」

だらしなく頬を緩ませながら答えるソウマを見てふとからかいの気持ちが湧いてきた。

「でも私の弟には敵わないだろう。なんたって下手くそで目もあてられない惨状だったころですら美味いと言って食べてくれたような子だぞ」
「いーや、家の弟たちのほうがかわいいね。特に末っ子。それに俺だってどんなに黒焦げの料理出されても完食できる自信あるし。そもそもそんな料理作らないけどな!」

眉を上げ、突っかかってくるソウマをみると笑いがあふれてくる。負けず嫌いなところは反抗期のときの春明に本当に少しだけ似ていた。

「じゃ、料理勝負でもするかい? もっとも負ける気はないけど」
「へえ、そんなこと言っていいんだな。言っておくが俺の末っ子相当上手いからな」

挑発するように吹っ掛ければ、鼻で笑って返される。

「なんで当人じゃない君が自慢げなんだい。ま、いいや。ほらこれだよ」

レシピをその辺に転がっていたメモ帳から一枚破り取り、さらさらと書き記して手渡す。途端に不遜な態度は噓のように消え、爽やかな笑顔が現れた。

「おお、ありがとうな。これで俺のお使い済んだし帰るわ。じゃ、またな」
「えっ、もう帰るのかい」

引き止めようと伸ばした手は空を切る。ソウマの姿は忽然と消えていた。

あまりにも気ままな知り合いに肩を落として男は再び箸をもった。ひとりぼっちの部屋が今日はわずかに暖かいような気がしたのは気のせいだろう。


奔放な死神の最後の訪問は意外とすぐにやってきた。

「よう。今日は生姜焼きなんだな」

台所に食材を並べ、さてこれから調理を始めるぞと腕まくりをしたところで聞き覚えのある声が背後から飛んできた。

「ソウマ、だから調理中は話しかけないでくれないかと言わなかったかね」
「いやアンタが言ったのは火がついているときに話しかけるな、だ。俺はちゃんと約束守ったぜ」

もう忘れちまったのかと呆れた視線をよこすソウマはいつも通り裾が少々破れたローブ姿だ。

「そうそう、末っ子がすごく役に立ったから礼を言っておいてくれって頼まれたぜ。あと料理勝負受けてたつってさ。そうそう、隠し味が味噌なのには驚いていたな。あと味付けの割合もちょっと違うって」
「そりゃあそうだろう。私の家の味だからね」

料理が上手くなりたいとねだった自分に母が教えてくれたものだ。家庭料理はそれぞれの家庭の味がでる。そこが醍醐味だが、ソウマの家の味付けはどうなのだろう。興味がわくが、その前に一つ問題がある。

「でも私と君が会うのは今日で最後じゃないのかい?」
「いやその規則は最低限の回数だからな。普通は忙しいから三回で済ませるが、それ以上来たって何の問題もない。増やしたってその増やした本人が忙しくなるだけだし」
「へえそこはぬるいんだね。じゃあ数か月後くらいかい?」
「えーっとそうだな……末っ子はまだ仕事に出られる年齢じゃないし、一人前になるまで考えると……」

指折り数えてソウマは告げた。

「七年だな」
「な、七年!?」

飛びあがった男にソウマは首肯した。

「ああ。今末っ子はまだ小さいし、初めはいろいろ学ぶことがあるからな。だから七年」
「君と弟君は何歳差なんだい?」
「ん? 七歳差だけど」
「ずいぶん離れているね!? まてよ、そうなると君の言う七年は……」
「今の俺と同じ歳になったらということになるな。まさか怖気ついたのか? 自分から仕掛けておいてそれはないよなあ?」

謀られた。条件は後出しとは言え約束は自分から取り付けてしまったし、大人げなく反故にするのも憚られる。その全てを見越した上でソウマは持ちかけてきたのだ。してやったりと笑う彼が憎たらしい。

「君、どこまで企んでいたんだい」
「企んだなんて人聞きの悪い。俺にアンタの思考を操る力なんてないぜ。たまたまだろ、たまたま」

流石に全部図っていたわけではないだろうが、最初から最後まで偶然とも考えにくい。

思えば彼のおかげで前に進むことができ、目を背けていた春明との思い出にも自然と向き合えるようになったのだ。

おまけに彼は自称とは言えエリートなので、こちらを意のままに動かすのも苦ではないだろう。

「じゃ、そういうことだから」

ひらひらと手を振って出ていこうとするソウマを慌てて引き止めた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。七年だぞ。何があるかわからないじゃないか。私も君の弟君も覚えていないかもしれないし、その間に私が死ぬかも」「それはないな」

力強い声が遮った。いつの間に取り出したのか一冊の本を指でたたきながら断言した。分厚いそれは、使いこまれているのかページがところどころ黄ばんでいるが傷んでいるようではなかったし、漆黒の革表紙は端がピンと伸び、滑らかな輝きをもっている。

「なんでそんなこと」
「なんでかって? 俺は死神だぜ? わからないわけがないだろう。アンタの寿命は、あと七年以上あるね。この本にもそう書いてある」

彼は自信満々に言い切る。こちらの躊躇いを切り落とすようにはっきりと。

「そ、そんなことこと言っても私は一度諦めようとした人間なのに?」
「いいや、もうアンタは諦めないね」

こちらを見据える黒には一分の迷いもない。でかかった言葉はその真っ直ぐな眼差しに気圧され、喉の奥に引っ込む。

「な、なんでそう言い切れるんだい」

最後の抵抗のように絞り出した言葉は掠れていた。

「だって弟の約束を守らないわけないだろ。アンタは兄貴なんだから」

当然のことだろうとのたまった彼は今度こそ空気に溶けて消えた。

「まったくどこまでも自由な死神だよ……」

疲れ切った声が部屋に落ちる。残るは自分とシンクに並べられた食材たちだけ。男は深々とため息をついた。

「しょうがない。やるか」

結果からいうと悲惨だった。肉に片栗粉つけるのを忘れるし、火加減は間違えて肉は固くなってしまっている。醬油をいれすぎたのか白米で中和できぬほどしょっぱい。

「はあ……これじゃソウマのこと笑えないな」

うなだれたそのときだった。

――兄貴が作る生姜焼きはいつも一番だよ

やわらかな声が響いて男は振り返る。部屋には当然自分以外誰もいない。しかし風もないのに鼻腔を陽だまりのような暖かな匂いがふわりとくすぐっていった。

誰の仕業かなんて口に出さなくてもわかる。

気づけば、頬に一筋熱いものが垂れ、口から掠れた笑い声がこぼれていた。

「……そうだな。兄ちゃん頑張るよ」

ソウマの末っ子がどれほど料理上手だろうが負けてられない。なぜなら自分はあの子の兄だからだ。

口に放り込んだ生姜焼きは先ほどよりさらに塩気が強くなってしまっていたが、どこか懐かしい味がした。

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