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【短編小説】夏音

風鈴と金魚がテーマの話。

ちりんちりん

 風にのって涼やかな音が耳に届く。女は足を止め、周りを見渡した。
 しかし視界に映るのは右も左も青々としたとうもろこしばかりで、出所を探ることができない。耳をくすぐるのは葉を揺らしていく微風の足音だけだ。
 気のせいかと女は少しずれた麦わら帽子をかぶり直し、再び歩き出した。太陽はギラギラと照りつけ、白い肌に汗がにじむ。

ちりんちりん

 もう一度涼やかな音が耳をくすぐった。女は足を止め、今度こそ見失わないよう耳をすませる。

サアサア、サアサア、……ちりんちりん、サアサア、サアサア

 どうやら前方からその音は流れてきているらしい。女は麦わら帽子を一度深く被ると、先ほどより足早に歩き出した。
 とうもろこし畑を出れば左右に伸びる砂利道にでる。音がさらにはっきりしてきた。女は目を閉じて音の方向を探る。どうやら左の方から音は流れてくるらしい。女はしばし逡巡した後、左へ歩みを進めた。左の道は上り坂になっており、音はその先から聞こえてくる。女は流れる水の玉を拭いながら、坂を上り始めた。
 息を切らして何とか上りきると、そこには粗末な掘っ立て小屋と、ところどころはげているガラス屋の文字、そして棒の上に張った糸に何かを吊した構造物があった。遠目から見ると藤棚のようだ。しかし揺れているのは淡い紫ではない。きらめく硝子と色とりどりの紙。

「なんだろう、あれ」

 女は誘蛾灯に惹かれる蛾のように足を踏み入れた。
 そこは夏が奏でる音の屋根であった。風が通り抜ける度に涼を誘われる。見上げれば日にあたって輝く赤、青、黄など単色の硝子、朝顔や向日葵、花火を咲かせている硝子。さらに硝子だけでなく涼やかな鉄や暖かみのある陶器、丸型から富士山型、棒状のものまで色、形、材質の異なる大小さまざまな風鈴が揺れていた。

「見事なもんじゃろう」

 いきなり話しかけられて女は飛び上がった。振り返ると白髪の年寄りが立っている。髪もひげも伸び放題、おまけに顔は皺やシミだらけの小汚い老人だ。

「え、ええ。あなたが店主ですか? ここら辺で見たことのない店ですが」
「そりゃあ、人通りが少ない上に夏にしか開いておらんからのう。客なぞ久しぶりじゃわい」

 戸惑いながら尋ねた女に老人は快活に笑って答えた。

「おじいさんはここで風鈴を売っているんですか」
「風鈴だけではないぞ。ほれ、お前さんが望むのならこれでもいい」

 老人が杖で指差した先にはいくつもの鉢が置かれている。掘っ立て小屋の縁側に佇むそれを覗き込んで女はあっと声を上げた。
黒々とした水中に舞う豪奢な赤い袖。ふわりと香る清涼な水の匂い。

「おじいさん、金魚も育てているんですか? すごいですねえ」

 無意識のうちに感嘆の声が漏れた。舞妓のような金魚が何匹も黒塗の器のような水面を彩っている。

「そうじゃよ。わざわざ卵から育てておるんじゃ」
「へえ、卵からなんですか。こんなに立派な金魚ならもっと人通りの多いと
ころで開いたらどうです? もっと買い手がつくと思いますけど」

 女の提案に老人は緩く首を振った。

「老いぼれの道楽でやっているものじゃからいいのじゃよ。こうしてのんびりやっているだけでそれなりに楽しいからのう。ところで奥さん、何か買うかね?」
「ああ、えっとどうしましょうか」

 女はちらりと手元に視線を落とした。持っていたかごの中には緑のドレスに包まれた浅い黄色の粒たちが顔を覗かせている。

「その様子じゃあ金魚より風鈴のほうがいいんじゃないのかね」

 かごの中身を覗き見た老人が勧める。女は素直に頷いた。

「そうですね。ではあれ一つもらえますか」

 女は風鈴の一つをさす。滑らかな硝子の肌に夏の空を切り取ったような線が数本流れる小ぶりな風鈴だ。

「あいよ。ちょっと待っていなさい。割れないように箱に包むから」

 老人は小屋の奥から箱と脚立を持ってくると女が指した風鈴を下して箱に包んだ。

「お代はいくらですか」
「そうさね、千円でいいよ」

 代金を手渡すと老人は箱と一緒に小物入れをつけてきた。水色の布地に金魚が踊るかわいらしい小袋。

「おじいさん、私これ頼んでないですよ」

 女は慌てて老人に小物入れを返そうとする。老人はそれを手で押しとどめた。

「いいんじゃよ。ちょうど暇してたもんでね、奥さんのおかげで暇が潰れたからその礼じゃ。おまけだと思って受け取ってくれ」
「あ、ありがとうございます」

 戸惑いながらも女は受け取った。そして口を二、三度開閉した後、おずおずと尋ねた。

「おじいさん、また明日も来ていいですか。その、金魚があまりにも素敵だったもので」
「構わんよ。どうせ他に客も来んじゃろうし」
「いいんですか?」

 老人は鷹揚に頷いた。女は顔を輝かせ、その後子供のようにはしゃいだ声を出したことを恥じらうかのように帽子のつばで顔を隠す。咳払いを一つし、女はすました顔で軽く会釈した。

「わかりました、ありがとうございます。ではまた明日」
「あいよ」

 老人はひらひらと手を振る。女は炎天下の中足取り軽く歩いていった。
 ゆらゆらと陽炎が立ち上るそんな日のことである。

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