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【短編小説】星を追う愚か人たち

届かぬものに手を伸ばしてしまうのは人のさがか。

以前書いた二つの話とつながった話です。
ある意味同類だった少年からみた彼らの話。

 憧れと恋の境界線はどこにあるのだろう。
 そんなセンチメンタルっぽい陳腐な羅列が頭に浮かんだのは、物哀しさを感じさせる時間帯だからだろうか。それともあの二人のせいだろうか。三十分前まで賑やかだった部室も今はがらんどうだ。フラスコの影が伸びていくのを賢治はぼんやりと眺めた。
 事の発端は一週間前まで遡る。


「あのね、私ずっとあなたのことが好きでっ」

 二人きりの空き教室は今日のように燃えるような茜色に包まれていた。

「え……」

 頭を殴られたような衝撃が走る。スカートは大きな皺を作り、艶やかな茶髪から覗く顔は、夕陽でさえも誤魔化しがきかないほど赤く染まっていた。何より大きなたれ目にこもる熱は、流石に友愛の意味での好きではないことなんて察しがつく。

「えっと、あのさ」

 張りつく喉に無理やり息を通して、適切な言葉を抽出しようと試みる。しかし脳は回転すればするほど空回りし、賢治がもつどんな言葉でさえも彼女に傷をつけないのは不可能だった。鳴美は静かに自分を待っている。結局、役立たずの頭が弾き出した答えはこちらの持てるだけの誠意をもって断りを述べるだけであった。それが彼女に示せる最大限の敬意だったのだ。

「ごめん。僕は君をそんな目で見れないし、これからもみることはないよ。君のことは大切な友達だけど、それ以上の気持ちで接することはないと思う」

 深々と頭を下げると、小さく震える小鹿のような白い足が視界に入る。

「……うん、ちゃんと聞いてくれてありがとう。その、こんなこといった後になんだけど」

 声が湿り気を帯びていく。賢治は唇をきつく嚙んだ。

「まだ、友達では、いてくれるかな」
「もちろん」

 顔を上げる。彼女は下手くそな笑顔を作っていた。太陽を閉じ込めた珠が彼女の頬の上で踊った。

「そっか。やっぱり、優しいね。はじめて会ったときから、変わんない。そんなところが好きだったの」

 でも今日だけはごめん。消えかけた呟きは耳に小さなひっかき傷を刻みつける。あっという間に豊かな栗色は、視界から流れ去っていた。

「そっか。だから森田先輩が変なこと言っていたのか」

 空っぽの教室にか細い独り言が落ちる。

「お前さあ、それわざと? わざとだとしたら相当性格悪いよな? いやわざとでなくても最低だけどさ」
「なんですか。藪から棒に。ふざけているのはその顔だけにしてもらえます?」

 呆れと苛立ちをぶつけたが、普段のようにお母さんはそんな悪い子に育てた覚えはありませんと泣きまねをしたり、俺先輩なんだけどと苦笑されたりはしなかった。その顔には哀れみとも見下げ果てたとも区別のつかぬ色が現れている。

「あーもういいわ。忘れろ。じゃあな」
「はあ?」

 森田先輩はひらひら手を振って去っていく。飛び出るはずの槍たちは彼が矛を引っ込めたせいで、虚しく腹の底に落ちた。
 今思えば、彼女への煮え切らない態度に業を煮やしたのだろう。

「そんなこと言われてもしょうがないじゃないですか。僕、今の今まで気づかなかったし。ていうか知っていたならはっきり言ってくれればよかったものを」

 呟いた言葉は八つ当たりじみた非難の色をまとう。
 彼女は自分の優しさが好きだと言っていたが、それは憧れの錯覚ではないだろうか。そんな失礼なことを一瞬でも思ってしまったのは、胸にくすぶる思いが彼女に似たものがあったからか。
 藍色を帯びてきた空には一等輝く宵の明星が浮かんでいる。手を伸ばしてそれを掌に閉じ込める。実際掴むのは美しい星ではなく冷たい空気だが。

 ――人は届かぬからこそ手を伸ばしたくなるのだろうか。
 昔からそうだった。母の友人のゆかりお姉さん。薄紫の紫陽花が似合う彼女は幼い自分にとっての金星だった。大型ショッピングモールの一番上の棚に飾ってあったピカピカの実験器具。洗練されたデザインに一目惚れして、使いもしないくせに駄々をこねて母を困らせたものだった。海外ドラマに出てきたバケツサイズのアイスを頬張る少年に憧れたこともある。
 それでも喉から手が出るほど望んでも、何一つとして手に入ることはなかった。そのうち伸ばすことさえためらうようになった。求めたところで輝く星は触れることさえできないから。その諦めたはずの一等星と再会したのは小学生のときだった。
 その頃、自分は同年代よりも口が達者で、おまけに生来の気の強さから、特にガキ大将のような一部の子供たちからは疎まれることが多かった。それに関して後悔はない。間違ったことは口に出していないからだ。だが体格差だけはどうしようもない。その日もくだらない虐めに興じていたガキ大将に首を突っ込み、呼び出しを受けていた。

「お前ウザイんだよ! ナマイキいいやがって」

 突き飛ばされて尻餅をつく。周囲で嘲笑が上がった。賢治は無駄にでかい図体を睨みつけた。

「僕がなんかまちがったこといった? いってないよね。力でしかかいけつできないなんてよほどのうミソが小さいんだね。ああ、ごめん。そのちっぽけな頭じゃわからないか」
「なんだとてめえ!」

 拳が振り上げられる。来たる衝撃に備えて目をつぶった。が、痛みがくることはなかった。代わりに上がったのは奴の情けない悲鳴。恐る恐る目を開けると、見知らぬ少年が一人立っている。どうやら彼がガキ大将をのしたようだった。

「な、なんだよお前。コイツの友だちか?」
「いや? そこジャマだからどいてほしかっただけ」

 彼はあくまで淡々としていた。そこには同情も怒りもない。一瞬目が合ったが、深い森のような瞳は留まることなく通り過ぎた。

「はあ? ウソつくなよ。なんのようじでこんなところにくるんだよ」

 たしかに奴らの言うことももっともだ。放課後の図工室なんてよっぽどのことがなければ来ない。彼は一体何をしに来たのだろう。

「ここに置き忘れたねんど、そろそろ取りにいかないとセンセーにおこられるから」

 え、ねんど? 
 思いもよらない回答に、ガキ大将も取り巻きも賢治も顎を落としてしまった。固まる木偶の坊たちを放置して、彼はさっさと奥に進んでいく。埃がうっすらつもった棚の上に寂しく佇んでいたのは、でこぼこした塊だ。ぶどう? だろうか。授業でわざわざぶどうを作る人はいるのだろうか。でもどうこからどうみても大きなぶどうだ。
 後ろのガキ大将たちも目を彷徨わさせている。彼はそれを大事そうに抱え上げ、こちらを振り返った。

「で、いつまでつっ立っているわけ? ジャマなんだけど」

 その冷めた目にだんだん険吞な光が宿っていく。後ろの奴らは青ざめた。

「お、おぼえてろよ」

 今どきアニメですら聞かない三下まる出しの台詞を吐いて、よろめきながら去っていった。

「カッコわる」

 あまりにも惨めな後ろ姿に軽蔑がこぼれ出た。彼は騒がしい足音が消えていくのを無言で見守っていたが、やがて賢治の横を通り過ぎた。
 てっきり安っぽい慰めか、あるいは上から目線のお小言か、奴らのように冷たい一言でも浴びせられるかと思ったのに何もない。自分のことが見えていないのではと疑うほど彼は一瞥すらよこさなかった。

「あ、あの!」

 慌てて声を張り上げる。ようやく彼の足が止まった。一対の瞳が不思議そうにこちらを見やる。

「なに?」
「あの、ありがとうございました」
「べつに。アイツらがジャマだっただけだから」

 既に彼は背を向けている。再び歩き出した彼を、もう一度勇気を振り絞って呼び止めた。
「あ! あの、お名前は……」
「そうすけ。じゃ、もうオレ帰るから」

 そうすけ。彼の名を復唱した頃には、彼はもう廊下の角を曲がっていくところだった。

「そうすけ、さんかあ……」

 そのままへたり込んだ賢治はもう一度彼の名を呟く。ただの四文字はこの瞬間から砂糖菓子よりも美しいきらめきとなった。

「カッコよかったな……」

 見ず知らずの子供を颯爽と助けておきながら、礼一つすら求めない、荒野の一匹狼のような孤高の美しさ。この瞬間、流れ星が手のひらに落っこちてきたような星屑が散った。
 そこから彼のことを探りまくった。休み時間になった途端、教室を飛び出して、学年中のクラスを見て回ったが、小鳥の巣のようなくせっけは見当たらない。では上級生か。周囲にそうすけという名の男子はいないか、がむしゃらに聞きまくった。もともと田舎の学校だ。クラスの数もたかが知れている。彼の正体を突き止めるのにはそう時間はかからなかった。
 玉川総助。一つ上の少年で――僕の青星。


「……はは、鳴美のことを笑えないな」

 賢治は前髪をかき上げた。
 あの後急に押しかけた賢治に目を見開いたものの、金魚の糞のようについて回る賢治を邪険にせず、受け入れた度量の広さは流石という他ない。
 だが同時に、彼は賢治を隣に置くことはなかった。なぜなら既にあの人がいたから。――森田迅介。癪に障るからかいを飛ばしたかと思えば、的確なアドバイスをよこすこともある、つかみどころのない先輩。正直素直に尊敬しているとは口に出したくない人。しかし玉川先輩に肩を並べることができるのも彼だけだった。
 女であればよかったのか。そうであったならば鳴美のような行動をおこしたかも、いやないな。この感情は女子たちが好む色とは確実に違う。蜂蜜のようなしつこい甘さでも卑しい欲にまみれた穢れた感情でもない。夢中で星を追いかける子供のような愚直さだった。
 森田先輩に勝てるとは思っていなかった。玉川先輩を追いかけて入った剣道部も、高校では道を違えた。他にやりたいことがあったというのもあるが、どれほど打ち込んだところで敵わないと思い知ってしまったから。積み重ねてきた年月も、並び立つための努力も、玉川先輩への献身も、何もかも。
 ――玉川先輩と同い年だったら。
 馬鹿げた考えを振り落とす。詮無いことだ。例え森田先輩と条件を等しくしても、同じ関係は築けない。

「それでも、」

「誰かの一番じゃなくて、僕はあなたの一番になりたかった」

 威勢のいい運動部の掛け声も聞こえなくなった。夜の帳がおりていく。

「結局、人は当てはまるところが元々決まっているんだろう。で、僕はそれを見極めるのが致命的に下手くそなわけだ」

 口元に歪な弧を描く。耳の奥で先日叩きつけられた宣戦布告が鳴り響いた。


「いきなりかしこまってどうしたのさ。一人で多目的室にきてくれなんて、わざわざメールで伝えることでもないだろ。一言言ってくれるだけでよかったのに」

 呼び出されたのは人気のない空き教室だった。友人は緊張した面持ちでこちらを見つめている。

「いやメールじゃないと伝えられない用件だったから。わざわざごめん、賢治」
「それは構わないけど……。で、なに用件って、林太郎」

 形の良い眉に深い皺をよせて、大きく息を吐く。こちらを真っ直ぐ貫いたその目には、そらすことを許さない力があった。無意識のうちに喉が鳴る。

「あのさ、鳴美のことなんだけど」
「っ、」

 全身が強張った。例の件について林太郎が口を挟んでくるとは。いや考えれば、彼は鳴美の幼馴染だ。自分よりも付き合いは長い。思うところがあったとしても不思議ではなかった。口内が急速に乾いていく。

「いや、あのたしかに悪かったとは思うけど」
「賢治」

 並べたてようとしたあれこれは、その一言で喉の奥に引っ込んだ。普段の遠慮気味な部分は一切ない。静かだが、質量のある声が場を支配する。

「謝ってもらいたいわけじゃない」

 口を開きかけて、やめた。黙って友の続きを待つ。

「俺、鳴美のことが好きだから」
「えっ」

 さすがにこれには驚きの声が漏れた。全く気がつかなかった。いや鳴美の想いも気づけなかったくらいだからわからないのは当然なのだけど。でも、それならば自分の立場はかなり邪魔者だったのでは?

「だからっ、俺、いくら賢治が相手でも諦められない。ごめん」
「い、いやごめんも何もさ……」

 潔く頭を下げられても困惑は深まるばかり。迷子の指先が虚しく空をかく。

「じゃ、そういうことだからっ」

 弁明の間すら与えず林太郎は風のように去っていった。行き先を失った手が阿保みたいに浮いている。夢だったのか? ただ徐々に遠のいていく足音がこれが現実であることを突きつけていた。
 賢治は力なく近くの椅子に着席する。蹴飛ばされた椅子の影が自分の足元に伸びていた。

「……そう、がんばってね。僕は応援するからさ」

 もっとも僕が言ったところで嫌味にとられてしまうかもしれないけど。かすれ声が茜色に溶けた。

「本当だよ。僕は鳴美をとらないよ。大事な友達ではあるけどそういう目でみたことないから」

 その言葉を伝えるべき人物は既にいないというのに、念を押すように呟く。白壁に佇む影は一つだった。


 初めて会ったときは気弱な少年であったというのに、いつの間にあんなに男らしい表情をみせるようになったのだろう。

「でも振った相手にわざわざ宣言しにいくなんて、林太郎らしいよね」

 そのまま鳴美の傷心につけこんで、しれっと彼氏に収まってからでもよかっただろうに、正々堂々勝負をしかけにいくところがいかにも彼らしい。
 指先が滑らかなガラス肌に触れて、液体が揺れる。賢治は目を伏せた。

「媚薬、ね……」

 今日の部室で話題に上った名。化学部らしいことをしようぜと、のたまった一つ上の台風少女が挙げた案の中にあったそれ。もっとも年頃の部員たちはその手のものに敏感だったから、真面目な話から一転、下品な方向に転がっていくのは時間の問題だった。それを冷たい目で眺めていたものだったが、もともと媚薬というものは相手を惚れさせることだけが役割ではない。勃起不全の解消など深刻な悩みを解決する効果もある。何より飲んだだけで相手を惚れさせるなんて効果は眉唾物だ。そんなものがこの世に存在したならば、恋の悩みなどとうのとっくになくなっている。

「まあもし本当に意中の相手を振り向かせることができたらとは思う気持ちはわからないでもないけど」

 あの瞳が一時でも自分だけを映してくれたのならば。たとえそれが望むものではなかったとしても。往生際悪く浮かんだ考えを一蹴する。

「馬鹿馬鹿しい。そんなことしたって何にもならないだろ」

 ではあの二人ならどうだろう? 林太郎は自分たちとは違って、目がいい。上を向くばかりではなくて、道端の小さな花に気づけるような人だから、きっと正しいピースをはめることができるはずだ。
 それよりも心配なのは成就した後だ。あのときはなかなか男を魅せてくれたけれど、無事にくっついても元々奥手な林太郎のことだ。進展は遅々として進まない気がする。

「そのときはまあ最悪、僕がこれでも盛ってあげようかな」

 片想いなら不毛なだけだが、両想いなら幸せな結末に導くに違いない。下校時間を知らせるチャイムが鳴り響く。賢治は微笑んで教室を後にした。


補足 青星:シリウスの和名

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