【短編小説】グラスの夏海
グラスの中は小さな海。
誘いこまれてしまった青年とちょっと変わったクリームソーダ。暇を持て余した店主を添えて。
カランコロンと真鍮の呼び鈴が鳴る。本を読んでいた初老の男は顔を上げた。
「おやいらっしゃい」
きょろきょろと周りを見渡しながら入ってきたのは若い男だった。大学生くらいだろうか。白いシャツに茶色の短パン、面立ちはいかにも教室の隅で縮こまっているような顔つきでぱっとしない。記憶を探ってみたが、見覚えのない顔だ。
男は密かに商品たちに目を向けた。いつも耳をふさぎたくなるほどおしゃべりな彼らは何食わぬ顔でたたずんでいる。
この中にいる誰かが呼んだのだろうか。まあいい。最近顔見知りばかりで些か退屈していたところだ。
店主は本をパタリと閉じ、青年に微笑みかけた。
「お客様はここが初めてですか?」
「あ、えっと……」
「いいんですよ。好きにみていってください」
どの道この店に入ってきた時点で、運命は決まっているのだ。さてさて、今日はどんな縁が結ばれるのだろう?
店主は手を動かす振りをして、俯きながらひっそりと笑った。
少し休憩するだけだったのに妙な店にきてしまった。と、青年は内心頭を抱えていた。
それもこれも暑さのせいだ。青年は扉についたダイヤ型の小窓から外を睨みつけた。
梅雨が明け、ここ連日真夏日が続いていたが、今日は特に酷かった。灼熱の太陽が街を炙り、アスファルトの上にはゆらゆらと湯気のような空気の揺れがみえる。日向を歩く人はほとんど見られず、せいぜい毎日決まった時間に走っているタンクトップのランナーくらいだ。
こんなときに出かけようと考えてしまった自分が恨めしい。
しかし冷蔵庫が空になってしまった以上買い物には出かけなければならない。そこで買い物ついでに、と服や雑貨まで見てみようと欲をかいたのがいけなかったのだ。
青年は改めて店内を見渡した。こぢんまりとした店内には天井から床までところ狭しと大小さまざまな商品が並べられている。
窓から垂れ下がるピンクのハート型の葉、見たこともない文字が躍る分厚い本、宝石が散りばめられたネックレスに、アフリカの少数民族が使っていそうな木彫りの面。天井から垂れ下がる自分の頭ほどはある大きな三日月の照明は一体誰が買うというのだろう。
店には窓もあったが、商品で埋め尽くされ、その役目を果たしていない。
一刻も早く出たいところだったが、何も商品を手に取らずに出るのも冷やかしだと思われそうで気が引ける。
(とりあえず商品を見る振りをして適当な時間になったら店を出るか……)
青年は一番手近にあった卵の置物に手を伸ばした。いわゆるイースターエッグと呼ばれるものだろうか。可愛らしいパステルブルーの肌に蔦のように細やかな装飾が這っている。蔓の先でほころぶ桃色の花がいいアクセントだ。もはや単なる置物というより芸術品に近い代物だった。
だがそれにしてはやけに重い。そっと振ってみると、ごとん、と何かが揺れ動く鈍い音がした。
イースターエッグはちょうど正中線で開くような仕組みになっている。青年は押し上げようとしてみたが、一向に開く気配はなかった。
まだ起きる時刻ではないのだ。眠りから覚めるまでは見守ってやらなければならない。
なぜだかそんな考えが頭に浮かび、青年の手は無意識のうちに卵を置き、別の棚に足を向けていた。
別の棚にはマトリョーシカやら人形やら髑髏やらよくわからない置物が並んでいる。
マトリョーシカは普通の人間ではなく、なぜか鳥であった。さながら醜いアヒルの子のように汚い灰色の雛から順を追うにつれ、美しい純白の白鳥へと変化していく。
一番大きな白鳥に触れてみると指先がやわらかな羽に埋まり、青年はぎょっと目を見開いた。指を引き抜きたいが、乱暴に扱えばこの鳥を怪我させてしまうようで怖い。そのまま固まっているうちにじんわりと温もりまでも伝わってきた。
冷房がきいているせいか、包みこむような暖かさはそこから去る気を失せさせる。
その心地よさに青年はしばらく浸っていたが、ふいに脳内に潮騒が響いた。耳から入ってきたのではない。直接頭の中に海が広がったのだ。と、次の瞬間だった。
泡の弾けるくぐもった音、身体を包みこむ水の感触、視界いっぱいに広がる紺碧。
青年はたしかに雑多な店内ではなく、深い海の中にいた。
鯨の群れが悠々と脇を通り抜けていく。底はなく、ただ暗い青が口を開けているだけだ。かと思えば太陽の光がさんさんと差しこむサンゴ礁の中にいて、熱帯魚たちが青年の足先をつついては戯れていた。
万華鏡のように景色がくるくると変わる。ひしめく氷とペンギン、自分の背よりはるかに高い海藻の森、冬山の枯れ木立のように茶一色のごつごつとした岩礁、一筋の光も差しこまない深海。
はっと息を吸う。水面から顔を出したように突然周囲の音が戻ってきて、青年はようやく自分の足が底の見えない水中ではなく、木目の床の上にあることを自覚した。
今の感覚は一体……?
いつの間にか白鳥のマトリョーシカは元の位置に戻っていた。
ふと視界の端に何かがきらめく。青年が思わず顔を向けると、瓶がずらりと並んだ棚の中央に、それは腰かけていた。
ああ、これだと思った。
ふらふらと足が吸い寄せられていく。その棚には乾燥したハーブらしき草を詰めた瓶やら星屑を敷き詰めた砂の瓶やら逆に何も入っていない瓶やら、例にもれず奇妙な商品が並んでいたが、もはや青年の目にはそれしか映っていなかった。
それは一見すると、クリームソーダのような見た目をしていた。透き通った紺碧にぶくぶくと泡が踊っている。正確に切り出した透明な立方体が絶妙なバランスで積みあがっており、触れるたびにカランと涼しげな音が鳴った。真っ白なバニラアイスが南国の島よろしく浮いている。手にとると硝子の冷たさが心地よい。
しかし通常のクリームソーダと異なるのは、美しいソーダの海の中に、色とりどりの魚が泳いでいることである。
鮮やかな赤や黄色の魚たちは舞姫のように優雅に踊りながら入れ替わり立ち替わり、見る者の目を楽しませてくれる。
一体どんな仕組みなのだろう。まつ毛が触れそうなほど顔を近づけてみても、プラスチック特有の人工物らしい安っぽさはなく、むしろ鱗一枚一枚まで精巧に作られているのがわかっただけであった。いや作られているどころか本当に生きているかのようだ。
ありえない。青年は首を振った。
こんなグラスに生きている魚が入ってたまるか。しかも泳いでいるのはどうみても南国の魚たちだ。魚の知識がまるでない自分だって、熱帯に暮らす魚の水槽に氷をうかべるなど正気の沙汰ではないことくらい理解できる。
これは最新の技術を詰めこんだ動く模型か映像なのだ。そう思いこもうとする青年を笑うかのように潮の匂いが鼻腔をくすぐっていった。
「にしたってとんでもない出来だな……」
青年は感嘆の息をついた。
ああ、これが欲しい。借金したとしてもこれが欲しい。どんなに高額な値段を吹っかけられてもこれが欲しくてたまらない。
たとえば、もしこれのために秘境にある宝をとってこいと命じられたのならば、どんなに深いジャングルだって、だだっ広い砂漠だって、何の躊躇いもなく飛びこめるだろう。
もしも世界で一番大きなダイヤを交換だと言われたならば起業でも何でもして、死にもの狂いで金を稼ぎ、ダイヤを手に入れようとするだろう。それがどうしてもできないのであれば、盗みをはたらくのも厭わない。
青年の頭はいっそ狂気ともいえるような熱に浮かされていた。
「気に入られましたかな?」
突然背後から声をかけられ、青年は飛び上がった。気づけば真後ろに店主の男がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。
「え、あ、いや……」
面と向かって問われると口ごもってしまう。青年は視線をそらした。
「ずいぶん熱心にみられていたご様子でしたので、つい声をかけてしまったのですが、お気に召しませんでしたか?」
男は穏やかな口調で続ける。悪意がないのはわかっているが、今ここで踏みこんでくるのは勘弁してほしかった。
手の中に収まった海に浮かぶ氷がきらりと反射する。まるで勇気を出して、と励ますかのように。青年は唇をかんだ。
湧き上がってきた欲求は嘘ではない。今もなお、喉から手が出るほど欲しいと、自分のものにしたいと心が訴え続けている。ただそれを包み隠さず晒してしまう気にはならなかった。
青年はどうして会ったばかりの器にここまで心惹かれるのか理解できなかった。ただ唯一わかるのはこのグラスを手放したくないと強く本能が叫んでいることだけだ。
店主は未だに笑みを崩さぬまま青年の言葉を待っている。青年は再び商品に目を落とし、あることに気がついた。
「あの」
「はい、なんでございましょう」
「どうして、この商品には値札がついていないんですか?」
店主の男はゆっくりと笑みを深めた。
「よくお気づきになられましたねえ。実はここにある商品全て値段がついていないんですよ」
「えっ、そうなんですか?」
青年は慌てて周りを観察してみた。薬草らしき草が入った瓶にも、白鳥のマトリョーシカにも、天井から吊り下がる月にも、なるほど、たしかにどこをみても値札らしきものは見当たらない。
「じゃあ商品が欲しいと思った場合にはどうすれば……」
まさか回らない寿司屋のように時価があるのだろうか。それとも全て非売品とかそういうオチなのか。
青年の顔がこわばっていくのを見、店主は体を揺らして笑った。
「薄々お気づきかと思いますが、ここは少し普通では手に入らない、不思議な商品ばかりを取り扱っておりましてね。お客様が選ぶのではなく商品が選ぶのですよ」
「まさか。ファンタジーでもあるまいし」
にべもなく切り捨てた青年に、店主は鳶色の目を細めた。
「でも心当たりがあるのではないですか。そう、たとえばふとした瞬間にここではなくまったく別の場所にいるような感覚に陥ったりだとか」
見透かすような眼差しに、青年の肩が跳ねる。
「まあ、話を戻しましょうか。そうですね、値段は全てお客様の一存に任せてありますが、一応相場はございましてね。どの商品を選ぶにしても、最低六桁は下らないかと」
「六桁!?」
指折り数えてみて、青年はその値段に腰を抜かした。おいそれと学生が払える値段ではない。銀行の預金残高を思い浮かべ、血の気が引いていく。
どうしよう。ローンが組めるか交渉してみるか? いやしかしこんな個人店でローン契約なんてできるのだろうか。というか六桁以上の金をポンと払えるなんて、この店の顧客たちは一体どれだけ大金持ちなんだ。
そのとき、手元のグラスがチカチカと光を反射するようにきらめいた。
「おや、どうしたのですか? ああ、なるほど。はいはい、わかりましたよ。まったく貴方の価値観はいつまでもたっても理解できませんねえ」
独り言にしては妙なことを呟いた男は改めて青年に向き直った。
「とは言ってもお客様はご新規の方ですし、特別にサービスいたしましょう。今手持ちにあるお札で十分でございますよ」
「えっ、でも俺の手持ちそんなにありませんよ? 時間をくれるのであれば、近くのATMまで走りますけど」
財布の中はどれだけかき集めても諭吉の半分にも満たない。提示された最低限の額の十分の一にも届かないのだ。
「それでも構いませんよ。これはもう半分趣味の域に足をいれておりますし、礼を言うならばその子に」
節くれだった指が指したのは手の中に収まったクリームソーダだ。
「は、はあ」
よくわからないが、破格の値段で譲ってくれるらしい。青年は鞄の中から紙幣を引き抜き、店主に渡した。
店主はどこからともなく真っ白な箱を取り出すと、グラスをその中にしまいこんだ。
「もうお分かりかと思いますが、これはインテリアであって飲み物ではないので、決して口はつけませぬよう」
当たり前だ。飲んでしまったら、この美しい海を手元に置いておけないではないか。
そんな言葉が喉まで出かかったが、青年は舌にのせる寸前で踏みとどまった。
「それから水が濁ったり魚の姿が見えなくなったりしたときにはまたここにいらしてください。あと、バニラアイスの島に飾りのパラソルなどをのせますと、より華やかさが増しますよ」
「はあ」
パラソルって、たまにカクテルなどについてくるあの小さな飾りのことだろうか。たしかに南国らしさは増すだろうが、一体なんでそんなことを。
「上手く環境を整えますと、バニラアイスの島にさくらんぼの妖精がやってきますよ。とても可愛らしいのでぜひ頑張ってくださいね」
いやさくらんぼの妖精ってなんだ。さくらんぼを抱えた妖精なのか。さくらんぼモチーフの服を着た妖精なのか、はたまたゆるキャラみたいにさくらんぼの帽子をかぶったクマかウサギか何かの動物型か。どの道この造形が最高なので余計なものなんて来ないでくれ。
「さくらんぼの妖精は顔がさくらんぼ、身体は白くて丸っこい人型ですよ」
青年の考えを読んだかのように店主が付け加えた。
想像と全く違った。まさかの異形頭である。それ、本当に可愛いのだろうか。
「えっと、そのさくらんぼの妖精はとにかく、何かやらなきゃいけないことはありますか?」
「そうですねえ……日差しがよく当たるところを好みますが、一番はお客様の愛情でしょうか。毎日朝と寝る前にはグラスを磨いてあげてくださいね。異変を感じましたら先ほども述べましたように、店にいらしてください」
できましたよ、と箱をさらに紙や緩衝材でぐるぐる巻きにした塊をビニール袋にいれて渡される。
青年はドアノブに手をかけたところでふと足を止めた。
「あの、ここに来ればみてもらえるんですよね」
自分でもなぜこんな問いを口にしたかわからなかった。しかしここで確認しておかなければ陽炎のようにふっと消えてしまうような、いいようのない不安が浮かんだのだ。
店主は口元に弧を描いた。
「ご安心ください。お客様が必要とされたとき、この店は再び扉を開きますよ」
答えになっているのかなっていないのか、曖昧な返事を返し、男は青年の背を押した。
「またのご来店をお待ちしております」
カランコロンと鈴が鳴る。扉を開ければ再びむわっとした熱気が身体を包んだ。
青年は数歩歩いて振り返った。そこには歴史を感じる重厚な木製の扉はなく、薄汚れたコンクリートの壁が立っているだけであった。
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