ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」【最終話の感想/分析】 これからも“人生を楽しむ”という宣言。
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幸せであたたかい最終回だった。
すべての登場人物が微笑んでいて、明日に希望があって、なにかに目標をもち、人生ってイイもんだなと思えるような“日常”。
第7話で、「人は時々寂しくなるけれど、人生を楽しめる。楽しんでいいに決まってる」というセリフが語られたが、まさにその体現のような最終回だ。ふりかえってみよう。(ここから先はネタバレあり)
◆◇
過去と現在と未来は“繋がっている”
“時間というものには 過去/現在/未来なんてなくて、すべてが今とつながっている”。
これはこのドラマのなかで、一貫して提示されてきた大切なテーマのひとつだ。
小鳥遊が、公園のベンチで「5歳のあなたと、5歳の彼女は、いまも手を繋いでいて、今からだっていつだって気持ちを伝えることができる」と、そうとわ子に語った。
そしてこの最終話では、この思想を発展させたように示されたのが、“輪廻”のような人生観だ。
輪廻というと、“何度もくりかえす”ような概念だけど、というよりは、2つの類似する共通項が同時に“いま(現在)”に立ち現れて、まるで“過去と現在がつながっている”ようにとわ子の目にうつる。
そういう出来事が最終話ではいくつも起こった。
たとえば、こうだ。
娘の唄ちゃんが言う。
「おばあちゃんの生きた人生は、私の未来かもしれない」と。
そして「会いに行こうよ」と。
こうして、“いま”の唄と、“未来”の唄が、同じ空間にあらわれる。
そういう“輪廻”。
たとえばとわ子は、マーさんの話しを聞きながら、亡くなった“親友のかごめのこと”を思い出している。
母親とマーさんは小学生の頃に出会い、一緒にバレエ教室に通い、そして二人だけの“秘密”を共有した。
幼馴染み。
生きにくさ。
社会との距離感。
それは、“かごめにとっての終生の課題”ともリンクする。
男の人を普通に愛せなかった親友。
まわりの人たちが“山”にみえて、“自分は大人になれない”と悲しむ夜もあったかごめ。
それでも毎日を楽しそうに過ごしていた。
ケラケラ笑ったり、夢だったマンガ家に再挑戦したり、パクパクつまみ食いしたり食べ歩きしたりしながら。
そしたら、“コロッケを食べながら” アパートの扉をあけたマーさん。
“輪廻”。
たとえばとわ子の父親は、母親のなにげない日常的な仕草や言葉から、“この人は誰かに恋をしている”ということを感じとっていたのかもしれない。そう気づく、とわ子。
それは、とわ子にとっての“1番目の結婚”ともリンクする。
とわ子は八作に告白した。「20代の頃の私は、あなたが誰かに恋をしていることがどうしても許せなかったの」と。
そうして別れた二人。
これも“輪廻”。
そして、マーさんは言う。
「つき子がそっちを選んだからこそ、こんな素敵な娘が生まれて、孫も生まれて。選んで正解だったんだよ。」
つき子、とわ子、唄と、世代がバトントスされて繋がれていく。
“輪廻”。
すべてのものごとが“いま”と手を繋いでいる。
“過去”と。そして“未来”と。
◆◇
とわ子には、忘れられない母親の言葉がある。
亡くなった母親の、折に触れて思い出してしまう言葉。第1話で回想された、子供の頃のつつましやかなキッチンのシーン。
「“ひとりでも大丈夫な人”は大事にされないものなんだよ。
とわ子はどう?
ひとりでも大丈夫になりたい? それとも、誰かに大事にされたい?」
とわ子の目にはずっと“しあわせそうに見えなかった”母親の背中が焼きついている。
でも、「大丈夫、そんなことはなかったよ」と、マーさんは断言した。
「あなたのお母さんは、ちゃんと娘を、そして家族を、愛している人だった」と。
「彼女は、幸せな人生だったんだよ」と。
とわ子の目には、“しあわせそうに映らなかっただけ”なのかもしれない。そう思い込んで、そういうフィルターで、母親のことを見てしまっていたのかもしれない。
本当の好きな人と一緒に暮らせなかったから“人生の選択ミスをした”だとか、
そのあと家庭も結局うまくいかなくて離婚もしたから“不幸せ”だとか、
とわ子でさえも、母親のことを、そういう“一般常識の色眼鏡”で見てしまっていたのかもしれない。
第5話に登場したイベント会社の社長、門谷は、とわ子のことを「バツ3で、かわいそうな人」と呼んだ。ホラー映画かこれは…ととわ子は嘆いた。でも門谷の目には“ほんとうにそう見えていた”のだと思う。
とわ子から見た母親というのも、そういうことだったのかもしれない。勝手な決めつけ。
ここまで考えたところで、また、小鳥遊が口にしたセリフを思い出す。
「人生にはルールがあって、
1つは、“亡くなった人を不幸と思ってはならない”こと。
人生って、小説や映画じゃないから、幸せな結末も悲しい結末も、やり残したこともない。
あるのは、その人が“どういう人だったか”ということだけ。」
人生とは、そういうことなのである。
◆◇
“矛盾していてもいい”という救い!
とわ子の母親は、“家族も”愛していたし、“マーさんのことも”愛していた。この2つは“矛盾”している。でもね、とマーさんは言う。
「家族を愛していたのも事実。自由になれたらと思っていたのも事実。矛盾してる。でも、誰だって、心に穴を持って生まれてきてさ、それ埋めるためにジタバタして生きてるんだもん。
愛を守りたい。恋におぼれたい。
1人の中にいくつもあって、どれも嘘じゃない。
どれも、つき子。」
“人生は矛盾していてもいい。”
なんて救われる言葉なのだろう!
人生なんて矛盾だらけだ。
第9話でとわ子は、八作に打ち明けた。
「あなたを選ぶことにしたから、1人で生きていくことに決めた」と。
ここにも大きな“矛盾”がある。輪廻。
たとえば他にも「元夫たちとは、これからも楽しく暮らしていく」というのも矛盾だし、「後片付けが大変そうだから、パーティーをする」というのも矛盾。
あるとき何かが起こってしまって、別れたとしても、“あたたかく過ごした時間”は今も変わらず手元に残り続ける。
別れたからといって、過去にさかのぼってすべてを消し去ってなかったことにするなんて不幸だ。過去と現在はこれからもいつまでも手を繋いでいて、“今からだっていつだって会える”のである。
慎森はそのことを、パーティーの翌朝で例えてみせる。
「次の朝、意味なく並べられたワインのコルク、テーブルに残ったグラスのあと。みんな楽しかった思い出でしょ?愛に囲まれて生きてる証拠なんだよ?」
だからとわ子は父親に言う。
「いまさらでいいから教えてよ、自転車の乗り方」と。
“大人なのに、自転車を教わる”。
人生は矛盾していていいし、
“いまさら”なんて思う必要は、何もないのだ。
◇◆
さて、まとめよう。
このドラマのエンディングには、なにひとつエキサイティングな出来事が発生したりはしない。
たとえば時限爆弾が爆発するかどうかとか、結婚式の時間に間に合わないからドレスのまま街中を駆けるとか、そういう“非日常のハレ”が描かれたりはしない。
“日常のケ”の風景ばかりなのに、
それなのにとても多幸感にあふれていて、人生は美しいと感じられる場面が次々とうつしだされていく。
夜中に目を覚ますと、三人の元夫がグラスを傾けながら、とわ子の寝顔を優しく見守っていたり、
何を話してたのと尋ねると、くすくす笑って、「ぼくたちはみんな、君のことが好きだってことだよ」と告白されたり、
慎森は、ちょっと雑談ができるようになったり、
鹿太郎は、あいかわらず器が小さかったり、
八作は、今日も不本意に女の子から一目惚れされていたり、
元夫たちとの恋は成就しなかった3人の女性たちも、それぞれに自分らしいやりがいを見つけて、たくましく過ごしていることも知れたし、
いろいろあったけど、しろくまハウジングの仲間たちもみんな元気そうだし、
そして、そして、“元夫ボーリング”の美しさ!
カンカンカーンと鳴りひびく音!
その永遠性。
その愛おしさ。
“ケ”の中にこそ“ハレ”があり、今日明日の幸せが“ふつうの中”にこそ見つかる。
そうして、私たちは“いろいろな呪い”から解放される。
「◯◯だから、◯◯だ」といった、偏見や思い込みから脱出する!
離婚したから不幸せだ、とか、
ひとりだから寂しい、とか、
死んだから会えない、とか。
そういう考え方にしばられてはならない。
だから、そう、
シナモンロールをぽろぽろとこぼしまくろうとも、まるで気にしない。
大豆田とわ子は、そして私たちは、これからも“人生を楽しむ”のである!
(おわり)
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