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大河『いだてん』の分析 no.6

1話ずつ、5つの要素をとりあげて感想と分析します。

今回の記事は【第6話 お江戸日本橋】について。ストックホルムオリンピックへの日本代表を選考した嘉納治五郎たちだが、金栗四三も三島弥彦もストックホルムには行きたくないという。

前回の第5話の記事はこちら。https://note.mu/torinokimoti/n/n9926a4fc5dd8

1、テーマは「お金の工面」

第6話のテーマをあげるとすると「お金は大事だよ」という点だろう。
ここの“リアリティ”に、脚本家クドカンのこだわりが見てとれる。「オリンピックに初出場するとはどういうことか」という問いに、クドカンは「お金を工面する難しさ」を描いているのだが、正直、お金なんていう暗部をわざわざ語らなくても物語はドラマチックに成立させられるはずである。たとえば、どう練習するかとか誰に師事するかといった成長過程にフォーカスを当てる方法だってあるはずだが、あえて、スポーツ競技自体とは直接関係ない“お金の工面”に着目させている。

これはたぶん、1960年の東京オリンピック誘致の物語にもつながり共通テーマになるのだろうと予想できる。“いかにしてお金を工面するのか”について、1910年と1960年、時代を越えて戦う人々が描かれることが伺える。

2、落語『富久』を通じて交差する主人公たち

“お金”というキーワードともつながるが、今回の第6話の骨組みに組み込まれている古典落語は『富久(とみきゅう)』だ。

『富久』を通じて、いだてんを構成する4人の主人公たちによる“4つの世界”が日本橋というシンボルを挟んでからみあっているので、まずは解きほぐして整理してみよう。

①1910年の金栗四三(中村勘九郎)
播磨屋の親父たちが、オリンピックに向けた練習をやるには、御茶ノ水から学校がある茗荷谷までの通学路の往復よりも「ストックホルムが石畳みの町なのであれば、日本橋がいい。上野から浅草、そこから日本橋を抜けて芝というコースがいいだろう」とアドバイスを受け、四三はそのコースを日課として走り始める。
②1910年の美濃部孝蔵(森山未來)
師匠になった橘家円喬はこのころ人気のピークで、上野、浅草、人形町、日本橋と、一日に4地域の寄席をハシゴ。孝蔵は、師匠を人力車に乗せてそのルートを毎日走る。車に乗りながら師匠が落語をさらう(稽古する)ので、孝蔵は車夫をしながら背中で、師匠の落語を学んでいった。
③1960年の古今亭志ん生(ビートたけし)
弟子の五りんの父親が「志ん生の富久は絶品」という手紙を残したと言って富久を聞きたがるので、寄席でかけてやる。五りんは富久の何が絶品なのかわからない。志ん生がいう、「オレじゃねェんじゃないか。オレは満州で富久をかけた覚えがねェし」。五りんの父親は、どこで志ん生の『富久』を聴いたのか。
④1960年の田畑政治(阿部サダヲ)
芝から日本橋へのタクシーに乗車中、ラジオからは志ん生の『富久』が流れてくる。道が大渋滞で全然進まないが、やっと日本橋までたどりつく。

時代を越えて、空間を超えて、“日本橋の上”で4人の世界が交差する。
特に金栗四三と美濃部孝蔵が実際に交差するシーンがシンボリックに描かれ(タイトル画像のシーン)、遠くに花火が打ち上がる。

『富久』のサゲはこうだ。
「これも大神宮様のおかげです。これで方々に『おはらい』ができます」(借金の支払いと、神棚の札の交換を意味する「お祓い」とをかけている)

借金の支払い。志ん生の『富久』は過去の大名人たちが演じた富久に比べて、ふてぶてしくもたくましい久蔵を演じた。自分自身も若い頃貧窮した生活を送ってきた志ん生だからこそ、久蔵の不安定な暮らしの不安さや絶望感を生々しくとりいれた『富久』だったという。

富久を通じて「お金は大事だよー」というテーマとも交差するわけである。

3、「芝から浅草」の距離感

「浅草ー芝」間の距離を実際に現代のGoogleマップで計測してみた(2019年2月現在)。
浅草から向かう場合には、雷門から江戸通りを使うので自然と日本橋を通過して、銀座と新橋の繁華街を抜けて芝へ。その距離、約10キロ。

『富久』の中で火事が起こるのは元々は浅草と日本橋の二箇所が原型だったが、志ん生がアレンジをして“浅草と芝に変えた”というのは実話のようだ。
芝にある大旦那の家のほうで火事だと聞いて主人公の久蔵は自宅の浅草から芝へ走って向かい、その後、今度は浅草の自分の家のほうで火事だと聞いて慌てて走って帰るという話し。
なぜ志ん生がその距離を伸ばしたのかはよくわかっていないが、より遠くて“普通の人には走れない距離”だからこそ、ハァハァゼェゼェ無理して走るほうが面白いからと考えられている。

『いだてん』の中ではきっと、今後に金栗四三に出会った志ん生が、彼の練習風景を見て『富久』を浅草ー芝のあいだに揃えたということになるだろう。「実際に走っている兄ちゃんがいるのに浅草-日本橋にしておくわけにいかねえだろう」とか言って。史実との絶妙な重なり方も魅力的だ。

片道10キロに加えて、四三の寄宿舎は御茶ノ水にあったため、御茶ノ水から上野経由で浅草が約5キロなので合計で片道15キロ。
つまり、往復だと30キロ。
これがこの時代の金栗四三の練習距離となる。

オリンピックのマラソン選手としては、適度な距離かなと思う。

4、50年ひと昔

嘉納治五郎が、金栗四三を相手にオリンピック出場を説得するシーンで「日米修好通商条約からたった50年しか経っていない」というセリフがある。
有名な日米修好通商条約は、1858年のことである。もともとは鎖国の江戸幕府がじょじょに開国を迫られていく。1910年からみると、たった50年前の出来事なのだ。まだその時代を自分の目で見てきた人たちが、たくさん在命している頃だ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日米修好通商条約

1910年、スポーツ競技を通じて世界に踏み出そうとする嘉納治五郎。
そして1960年、東京オリンピック誘致に奔走する田畑政治。
そしてその50年後が、ほぼ現代にあたる2010年代。

50年ひと昔。
50年ずつの大きな区切りでみると、我々日本がいかにドラスティックに成長してきたかがよくわかる。

5、1960年に日本橋を走る足袋の男

第6話になって、やっと少しずつ登場してきた1960年代の主人公、田畑政治(阿部サダヲ)。
タクシーに乗る彼のそばを、足袋で走り過ぎる人物が映る。第1話のオープニング直後にも、タクシーに乗る志ん生を追い越し走り去ったシルエットと同じだ。

金栗四三を思わせる。
まだ四三は、1960年には在命だが、1891年生まれなので、すでに70歳。
走り去る後ろ姿は老人ではなかったが。

なんらかの幻影なのであろうか。
もしくは若々しく走り続けている四三なのか。
ゆくゆく、判明することだろう。
日本橋に四三の思いはこびりついている。

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