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【女とキャリア】私は調整弁ではない

 来年3月の大学卒業後に食べていくツテを見つけるため、就活をした。その間、自身の性別を意識することは殆ど無かった。私の周りには、私が自由にキャリアを選択することを支持してくれる人ばかりがいる。少々負担に感じることもあるが、恵まれている環境だと思う。
 そんな恵まれている私ですら、モヤリとすることは多い。今日はそんな話だ。
 就活中、現代日本の若い女には2つのことが期待されていると感じた。シンプルに言えば、ひとつには資本主義社会における”標準的な労働者”になり経済に貢献すること、そしてふたつには動物の”メス”として役割を果たし人間社会に貢献すること、だ。この2つの女に対する要求は、矛盾していて、女の精神と身体に迷いを生じさせる。
 私はこの「2つの要求」のうち、個人的に、前者の存在を目指すことで社会における自身の立場を確立しようとしている。私が考える資本主義社会における”標準的な労働者”とは、男性のことだ。男性のなかでも、健常者で週5日毎日7時間以上、問題なく(問題なくみえるように)働ける男性のことだ。日本の資本主義社会において疑いなく「正しい」存在として肯定される存在のことだ。私はそういう存在になって、自尊心の充足と社会的な立場の確立を目指している。傍から見たら愚かにみえるかもしれないが、これは私にとっての生存戦略である。幸か不幸か私は、”メス”として役割を果たすことを、かなり早い段階で諦めた節がある。幼少期から、私は理屈抜きに可愛がってもらえる存在ではないと自認していた。容姿、態度、色々理由があるだろう。”メス”になることを諦めると、まず恋愛がうまくいかない。そして恋愛と自動的に結び付けられている結婚、出産も、これからたぶんうまくいかないだろう。そう思うと、”メス”として役割を果たそうとすることは私にとって非効率的で、ローリターンなことなのである。メスとして可愛くあれ、美しくあれ、というメッセージが溢れる世の中だが、どうしてもそのメッセージに乗っかりきれない。そのため私は”メス”ではなく”標準的な労働者”として「輝く」ことで、自分の価値を高める方向に自然に舵を切り続けているのだった。
 さて今この時代、20代日本人女として”標準的な労働者”を目指す私の姿勢はどう評価されるだろうか。私の体感でいえば、これは基本的に歓迎されていることである。ある程度国際感覚があって時代の空気を読めている組織ならば、こういう女は沢山いてくれた方がいい。私が就職予定の会社も、役員の女性比率をあげよう、女性の働き方を良くしようと、頑張っている(らしい)。
 さてそれでもやはり思うのは、結局女は調整弁なのか、というところである。このnoteのタイトルにもした。これまで家父長制でやってきた社会がいよいよ立ち行かなくなって、出来てしまった歪みの尻ぬぐいを女がさせられている。どうしてもそう思ってしまうのである。女の役員を増やそう、働きやすくしよう、というのだって、女の為を思ってのことではない。男性中心の組織では会社として評価されないから、また男性だけではいよいよ働き手がいなくなったから、そういう理由だろう。結局、これまで男が中心となってやってきたことが崩壊するのが惜しくて、生まれた穴に女性をあてがうことで崩壊を抑えようとしているのだろう。
 そりゃ当たり前だよ、ビジネスなんだから。女の為を思ってなんかやってられないよ、と言えばそれまでだろう。確かに、それまでなのだ。お金は生きるための手段であって、目的ではない。背景にどんな思惑があれど、女が男と同様に手段をつかめるなら、大歓迎ではないか。そう考えることもできるのかもしれない。今日本は過渡期で、そもそも男と同様に手段をつかめる立場にいない女性が大勢いる。女であるという理由だけで余計なことに足を引っ張られて、男と同じ舞台に上がれない女性が大勢いる。その中でも私は、恵まれている方で、男と同じように学び職を手にすることが出来た。それでも気持ちが晴れないのは、なぜだろうか。やはり、結局私の身体や精神の全てが、私の欲求ではなく、資本主義の要請に基づいて動いてきたことを意識してしまったからだろう。そしてその資本主義は、根本的に昔も今も変わらず、女のために存在していないのだ。あくまでもエリート男性が作ってきた仕組みの崩壊を防ぐために、”標準的な労働者”になり得たる私が使われる。調整弁のような自分の立場を、就職活動を通じて何となく感じたから、私はずっとモヤモヤしている。

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