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三千年前のアートを探して

 ペットボトルの水が底をついたとき、僕は目の前の風景に唖然とした。
 マズイことになった・・・・・・
 右手には百万ヘクタールの水田、左手にも百万ヘクタールの水田、どちらの地平線にも、ケーキのデコレーションみたいに森がモコモコと迫っている。足下の線路は、やはり地平線の辺りで黄色い霞の中に消えていた。
 場所はネパール・インド国境付近だ。
 気温は四十度近くあっただろう。立っているだけで息苦しくなるような熱暑に、ついつい余分に水を飲んでしまったのだ。
 それだけではない。
 日本の薬局で買った熱帯夜の必需品、クールローションを何度も肌に塗りたくったのだが、ひんやり感じるのは一瞬に過ぎなかった。汗は流れ落ちていくのに、身体は火照って苦しくなっていく。体温調節が間に合わずに、熱を持ち始めたのだ。
「やばい、熱中症になっちゃうぞ」
 休もうにも木陰がなく、僕はやむをえず、腕や首筋にミネラルウォーターをかけて身体を冷やしたのだった。
 持参したペットボトルはたったの二本。それを使い切るまで、一時間もかからなかった。
 この時点で、僕は引き返そうかとも考えた。
 でも、あの霞の向こうが次の町だったとしたら? そう考えるとどうしても戻りたくなかった。戻ればまた一時間、水分補給できないことは分かっているのだ。
 僕はインド国境方面に向かって歩き続けた。
 集落が見えたのは、そこからさらに三十分後だった。
 線路を離れ、集落の目抜き通りで雑貨屋を探す。ペットボトルが積んである店を見つけると、「助かった!」とばかりに飛びこんだ。ところが、そこにあったのはすべて空のボトル。
 僕は「水をくれ」と声を上げた。
 奥から出てきたのは十歳にもならない少年だった。英語ができないようだったので、僕はボトルを持ってジェスチャーで伝えた。
 店番の子は一度奥に戻り、二分ほどして戻ってきた。手に持っていたのは、ミネラルウォーターのボトル・・・・・・に入った、黒っぽい液体だった。
「なんじゃこりゃ! 僕は水が欲しいんだよ!」
 そう言っても英語が分からないらしく、僕に押しつけようとしてくる。
「ノー、ノー!」
 店番は「やれやれ、分からん奴がきた」とでも言うみたいに肩をすくめ、また奥に引っ込んでしまった。
 しばらくして、汚れた肌着姿のおじさんが一緒にやってきた。また、手には同じペットボトルを持っている。
 僕を見るなり、いきなり「チャイナか?」と言って笑った。
「ジャパニーズですよ。僕は水が欲しいんです。これは一体なんですか」
「燃料だ。飲むか?」と言ってヒヒヒと笑う。
「燃料! 水はないんですか」
「ない」
「じゃ、コーラでもミリンダでも良いから、飲み物が欲しいです」
「ノー。ここにはない。燃料屋だからな」
「飲み物を売っているところはないんですか」
「この村にはないな」
「じゃあ、みんな何を飲んでいるんですか」
「水だよ」
「水はないんでしょう?」
「水はある。あれだ」
 おじさんが僕の背後を指さした。
 僕はまたしても唖然としてしまった。もう、助からないんじゃないかという気がしてきた。

 ネパールは僕にとって「ずっと仲良くなりたいと思っていた知り合い」だった。この例えで周辺国のことを言うと、インドは「悪い噂のせいで敬遠していた知り合い」であり、バングラデシュは、「あまり噂もされないが、そう言えばクラスにそんな奴もいたな」的な知り合いだ。
 旅先で出会ったバックパッカーたちはみんな、ネパールのことを良く言っていた。まず、人当たりが良い。控え目で親切で、お隣のインド人をおとなしくしたような感じなので、インドに疲れた旅人には絶好の癒やしの国だというのだ。他にも、ご飯が美味しい。宿が安い。彼方にヒマラヤ山系をたたえた景色も素晴らしいうえに、暑すぎず寒すぎずの気候が最高に気持ち良い。などという意見もよく聞いた。
 みんながみんなそう言っているのなら、罠ではないだろう。だが、ネパールとお近づきになりたいと思い始めたのは、実は彼らの意見を聞くよりももっと前のことだった。
 出会いは大学時代にさかのぼる。
 当時、僕はよく友人とエスニック系のレストランに入っては、旅気分に浸ったり、旅の先達を気取ったり、知識をひけらかして、間違っていたことが判明したりしていた。
 その晩は国分寺でタイ料理を食べることになっていたのだが、店の前まで行って休みであることを知り、代わりに見つけたネパール料理店に入ったのだった。
 店内はヒンドゥー・ミュージックでにぎやかだったが、客は僕とキューザックくん(仮名、男、純日本人)の二人だけ。ごちゃごちゃと飾られたネパール雑貨の中にテレビがあり、ネパール観光当局が作ったらしいコマーシャルビデオが延々と流れていた。
 僕らはダルバートというネパール・カレー定食を注文した。文句なくウマかったが、ネパール人の男たちが二人、不安そうな面持ちでこちらを見ているのが気になってしかたなかった。まるで料理選手権の審査待ちだ。おそらく、オープンしたは良いものの、連日のようにこのくらいしか客が来ないのだろう。
 耐えきれなくなって、僕は彼らに向かって「めちゃくちゃ美味しいです!」と言った。キューザックくんも、「デリシャス、デリシャス!」と言った。
 それがきっかけで、ネパール人たちにスイッチが入った。ダルバートを彩るカレーの種類や漬け物の解説が始まり、最後にはヨーグルトをサービスで出してくれた。
 ひとしきり喋ると、何だか宴もたけなわという雰囲気になってきた。もう誰も喋っていないのに、満たされたような感じだ。
 ヒンドゥーミュージックが止み、観光当局のビデオの音だけが聞こえていた。五重塔みたいな世界遺産、ダルバール広場が映っていた。
「お兄さんたち、ネパールは行きましたか?」従業員の一人が言った。
「いいえ、行ったことないです」
「そうですか。それはもったいない。ネパールは本当に良いところですよ。いつかきっと、行ってみて下さい」
 そんな流暢な日本語ではなかったが、雰囲気はそんな感じだった。
 僕は単純に、祖国のことをそんな風に言えるのはすごいな、と思っていた。もちろん、彼らがネパールを離れ、異国で暮らしているからというのもあるかもしれない。でも、それを差し引いても、やっぱりすごい。僕だって日本は良いところだと思うが、あんなムードでは言えないだろう。褒めたあとで「物価は高いけどね」とか、「休日が少ないけどね」とか言ってしまいそうだ。
 帰り際、ネパール人の二人は、家族や友人にこのレストランを口コミで広めるよう、何度も念を押した。
 あのレストランは、今はもうない。それどころか、大学を卒業する頃にはなくなっていた。本当に美味しくて親切な店だったのに、残念な話だ。僕は、あのネパールレストランよりも不味くて不親切な店を無数に知っている。日本の飲食業界は、味やホスピタリティとは別のモノを中心に回っているのだろう。
 それはともかく、あのレストランを出たとき、「いつかネパールへ行くことになりそうだな」と感じたのだった。それは本当に、強い予感だった。その後実際に行ったので、今となってはロマンチックなことでも何でも言えるのである。

 二〇一一年十月の真夜中、僕は中国の広州を経由して、ネパールの首都カトマンドゥに降り立った。
 深夜零時なのに、トリブヴァン空港の外はホテルの客引きが旺盛で、僕はその中から直感的に人の良さそうな顔を選び出し、値段を聞いてミニヴァンに乗せてもらった。
 カトマンドゥ盆地は闇に沈んでいた。橙色の街路灯の数も少なく、アスファルトは荒れ放題。これなら東南アジア随一の辺境国(当時)、ミャンマーのヤンゴンの方がまだマシなんじゃないかと、ぼんやりしながら考えていた。
「ジャパニーズ、ネパールは初めてか?」運転手が言った。
 ここがバンコクやインドなら、初めてでも初めてとは言わなかっただろう。初めての告白=「カモになります宣言」だ。でも、この人なら大丈夫そうな気がした。
「イエス。初めてなんです」
「何しに来た?」
「観光です」
「トレッキングか?」
「ノー。ジャナクプルへ、ミティラー画を見に行く予定です」
「ジャナクプル!」運転手がこちらを見やった。
 その瞬間、どこからかクラクションが鳴った。暗い市街地を、車がひしめき合って走っているのだ。
「なんであんなところへ行くんだ? 初めてならポカラへ行ってトレッキングをするのがベストだ。ヒマラヤ山脈も見られる。ヒマラヤを知っているか?」
「知ってますよ! でもジャナクプルへ行くんです。ミティラー画を見るんです」
「オウ・ノー」運転手は首を振った。
 ミティラー画というのは、インド北部とネパール南部にまたがる地域で伝統的に描かれている民族画だ。その起源はヒンドゥー教より古く、アーリア人がインドに侵攻してくる前にまでさかのぼる。元々は家の土壁に描かれていたものだが、近年は販売用に紙や陶器にも描かれ、日本でもマニアックなエスニック雑貨店へ行けば買うことができる。
 僕はそれを、是非とも生で見たかった。なんせ三千年も前から伝統的に描かれていた民族画なのだ。格好良く言えば、どんな土地で、どんな生活の中で描かれているのか、現地へ行って味わってみたかった。下心の声も取り入れれば、現地へ行けば日本では手に入らないようなミティラー画に出会えるかもしれず、あわよくばそれを購入し、自分のエスニック雑貨コレクションに追加したかった。
 インドではなくネパールを選んだのは、インドを前に尻込みしたから、ではもちろんない。この旅行の元ネタは、雑誌『旅行人』に掲載されていた「インド民俗画」と、そこから派生した蔵前仁一さんの『わけいってもわけいってもインド』という単行本だった。蔵前さんはこの本の中で、民俗画を探してインド全域をあちこち飛び回っておられた。同じことをしたのでは本の内容を辿る旅になってしまうので、まったく未開拓の場所へ行きたいと思ったのだ。そのうえ、僕は会社に雇用されている身だったので、旅の日程にも自ずと限界があった。
 そういうわけで、比較的アプローチの簡単そうなネパール南部、タライ平野を目指すことになったわけだが、もちろんそんな経緯を説明する英語力も気力もなかったので、ひたすら「ミティラー画が好きだ」「ミティラー画が見たいのだ」と繰り返した。
 ところが、カトマンドゥの中心部に入ったと思われる頃、運転手がぼそりと言った。
「ジャパニーズ、ジャナクプルへは行けない」
 出たよ、と僕は思った。
 この男、思っていたよりクセモノかもしれない。行けないことにして自分の都合に引き込むのは、クセモノ・アジア人の常套手段だ。
「ほう。どうして行けないんですか」
「祭りがあるんだ。各地からカトマンドゥに戻ってくる連中もいれば、カトマンドゥから各地のホームタウンに戻っていく連中もいる。交通機関が混み合うんだ」
「なるほど。それでも、席一つくらいは空いているんじゃないですか?」
「もちろんだ。インポッシブルとは言えないが、ヴェリハードだろうな」
「なるほど。それならポカラへ行ってトレッキングするのも、ヴェリハードですよね」
「ポカラなら行ける。ポッシブルだ」
「どうして? 交通機関が混み合うんですよね?」
「ポカラへは、ツーリスト専用のバスがあるからだ」
「バスがあっても、道は混んでいるんじゃないですか?」
「ツーリスト専用のバスだから大丈夫だ。VIPだ」
 VIPなら他のバスをはね飛ばして突っ走っても良い、とでも言うのだろうか。
 やはり、この人はポカラ行きのバスチケットとトレッキングを売りつけようとしている。僕はそう判断し、交通機関の話題になったら貝になろうと考えた。
 ところが、翌朝ゲストハウスのレセプションで祭りと交通機関のことを質問したら、同じ答えが返ってきてひっくり返った。
「ミスター、ガイドブックは持っていないんですか? この時期はネパール全土でお祭りがあるので、旅行者はほとんどカトマンドゥから出られませんよ」
「ポカラへは行けるって聞いたんですけど」
「確かに行けますけど、通常より時間がかかります。飛行機ならノープロブレムですが」
 飛行機なんて、日本を出るとき以外はなるべく乗りたくない。バスの何倍の値段になると思っているのだ。
 とりあえず町を歩いて情報収集することにした。
「ミスター、ウェイト。両替のご入り用は?」
「両替なら銀行でやりますよ」
「ノー。今はお祭りで、銀行は開いていませんよ」
 一瞬、心に何かが刺さった。空港では両替しなかったし、宿泊代の支払いは米ドルだ。送迎は無料だったので、僕はまだネパールルピーを用意していなかったのだ。
 が、まあなんとかなるだろう。レートだけ聞いて「とりあえず朝飯」と言って出てしまった。
 案の定、両替所はちゃんとあり、営業もしていた。

 旅に出て興奮するのは、なんと言っても朝だ。
 我が身を拘束する会社も上司もタイムカードも遥か遠く、ベッドを出る時間も自由だし、どこへ行くのも、いつ朝ご飯を食べるのも、どこで計画変更するのも自由自在なのだ。これほど解放的な気分でいられることが、他にあるだろうか。ホテルを出て右へ行くか左に行くか、それすら決めておかなくても良いのだから!
 カトマンドゥ初日の朝、僕はすべてがゼロクリアされた状態でゲストハウスを出た。せっかく自由の身なのだから、自らを縛りつけることすらしたくない。『地球の歩き方』も『ロンリープラネット』も、いつからか持ち歩かなくなっていたし、ゲストハウスによく置いてある手作りのフリーマップも、投宿したノルリン・ゲストハウスにはなかった。これで僕は、まっさらな状態で旅を始めることができる。
 旧市街地の建物は高く、密集していて、小路はどこも混雑していた(このエリアは二〇一五年四月に起きたネパール大地震で倒壊してしまった)。野菜の並ぶ朝市があり、その傍らには黄色や赤の香辛料が山になっている。外国人ツーリスト向けのレストランはまだ開いていなかったが、地元民の集う大衆食堂には活気があった。
 僕はまだネパールルピーを持っていなかったので、とりあえず両替所を何軒か回り、まともなレートのところで百ドル分だけ両替した。
 これでひとまず金の心配はいらなくなった。するともう、先ほど見つけた大衆食堂まで引き返すのはつまらない気がした。目の前は五叉路だ。どの道もサリーを着たおばさんと牛で大混雑しており、向こうが見通せない。
 僕は興奮し、屋台で激甘のチャイを飲みながらどっちへ行こうか思案した。どこを選んでも、面白そうな風景や店に出会えそうな雰囲気だった。ペットボトルすら持っていない状態というのも、また気分が良い。バックパッカーは、とかくペットボトルを持ち歩きがちである。日中韓の東アジア系はミネラルウォーターを持っていることが多いのだが、白人はコーラを水代わりに飲んでいるふしがあり、大ボトルで持ち歩いているためにデイパックまで巨大だ。
 僕は本当は、何も持ち歩きたくない。理想を言えば、パスポートすら持たず、ポケットに小銭だけ入れてうろつきたいくらいだ。もちろん、カメラなんてもってのほかで、あんなものがあるから肩がこるし、気を使うことが増えてしまうのだ。
 が、帰国したら職場の人々に写真を見せることになるので、多少の気合いは入ったのである。コンパクトデジカメに格下げはしたが、カメラは外せなかった。それならせめて、重たいペットボトルは極力持たずにいたいものだ。
 カトマンドゥの市街地では、それが叶いそうだった。咽が渇いたら、二、三分おきに目に入るチャイ屋台に立ち寄れば良い。
 旧市街地は、迷路的な見かけのわりには張り合いがなかった。一時間もたつころには土地勘がついて、どこへ向かえばどこに出るのか、だいたい把握してしまったのだ。もちろん、ゲストハウスへの帰り道も分かってしまい、何となく、楽しみの一つを消化してしまったような気分になった。もう少し、「ここを進んだらあそこに出ると思っていたのに、全然違うじゃないか!」的な混乱を提供してほしかったような気もする。
 朝ご飯にネパール・カレーを食べて、交通機関の情報収集に取りかかった。
 ある旅行代理店では、大学の教授みたいなスマートな振る舞いのおじさんが出てきて、この時期の交通状況を説明してくれた。やはり祭りの影響で、ネパールは全土において交通機関が満席になってしまうとのこと。ただし、飛行機は別。
 僕はこの、「飛行機は別」が引っかかった。
 旅行代理店の方々も商売、バスより飛行機のチケットの手数料をとったほうが儲かるから、そんなことを言っているような気がしてならない。
「ミスター、そんなにジャナクプルに行きたいなら止めないが、僕はオススメしないね」
「オーケイ、もう少し情報収集してから、また来ますよ」
 おじさんはリマルと名乗り、出がけに名刺をくれた。彼の英語が一番聞きとりやすかったので、何か頼むなら彼にしようと心に決めて店を出た。
 ダルバール広場に座って、どうしたものかと考えた。国分寺のレストランで見た風景だ。その中に、いま自分はいる。それが何だか奇妙な心地だった。レイ・ブラッドベリの短編に『二人がここにいる不思議』というのがあるが、「いま自分がここにいる不思議」といったところだろうか。
 そんなことを考えていると、「ヘイ、チャイニーズ」と声がかかった。鞄も何も持っていない、何をしているのかまったく分からない若い男だった。ネパールは何度目だ? 飯は食べたか? どこに泊まっているんだ? 今日はどこへ行く予定だ? と、世間話とも偽ガイドの前口上ともとれることを、癖の強い英語で質問してくる。見るからに暇そうだった。僕は一つ、彼で試すことにした。
「チャイニーズじゃない。ジャパニーズだよ。お祭りがあるって聞いたけど」
「ああ、あるある!」とテンションが一段階あがった。「この先の広場でもやるぞ。子ヤギを生け贄にするんだ。見るか?」
「生け贄って、どんな風に?」
「首を切り落とすんだ」男は手振りでそれを示し、げひひと笑った。
 子ヤギの首が吹っ飛ぶところを想像して、僕は貧血を起こしそうになった。慌てて話題を変えた。
「ネパール全土からカトマンドゥに人が集まって来るの?」
「全員来るわけじゃない。全員来たら他が空っぽだろ? カトマンドゥから実家に帰る人もいるさ。俺ももうすぐ帰るんだ」
「へえ、どこへ?」
 彼は何か言ったが、聴きとれなかった。
「ソーリー、分からない」
「ネパール東部の町さ。フォーリナーは誰も知らないよ」
「バスで帰るの? それとも飛行機?」
「バス。飛行機はベリベリエクスペンシブだからね」
「分かる分かる。でもバスは混むんだろう?」
「ああ、クレイジーだよ。俺も一ヶ月前にチケットをとったんだ」
「みんな一ヶ月前にチケットをとるの?」
「みんなじゃないけど、そうしないとチケットがなくなっちまうからさ」
 なるほど、交通機関が麻痺しているというのは、本当のことかもしれない。麻痺とは言わなくても、チケットをとるのはかなり難しいのだろう。
 ジャナクプルまでバスで移動するという計画は、早くも頓挫してしまうのかもしれない。
「バスターミナルはこの近く?」
「ヘイ、フレンド、バスパルクへ何しに行くんだ? チケットなんかとれないぞ」
「バスパルク?」
「イエス。バスパルクへ行きたいんだろう? 何しに行く?」
 なるほど、ネパールではバスターミナルではなく、バスパークというのか。そして更に、Rの音をそうやって発音するのだな。彼の英語がやたらと聴きとりにくいのは、そういうわけであった。
「ただ見たいだけだよ。どっち?」
 男は頭をかきながら、だいたいの方角を指さす。
「あの道は、どっちへ行けば良い?」
 僕は広場から見える三叉路を指さした。
 男はさらに激しく頭をかきながら悩みに悩んだあげく、「左だ」と言った。
「連れて行ってくれないか?」
 と頼むと、男は困った顔をして、「ソーリー、行かなきゃならないところがあるんだよ」と言う。
 てっきりどこまでもついてきてガイド料を請求してくるかと思ったら、「シーユー!」と気持ちよく去っていったのだった。
 僕はしかたなく、一人でバスターミナル・・・・・・ではなくバスパルクを目指すことにした。問題の三叉路まで来ると、念のために近くのチャイ屋で道を尋ねた。チャイ屋の親父は英語ができなかったが、座って話していた男の中に一人、英語を話す人がいて、「バスパルクは右だよ」と教えてくれた。

 バスパルクは旧市街地から歩いてすぐだった。泥っぽい凸凹の窪地に、いくつものバスが無秩序に並んでいる。上半身裸の男たちが、バスの腹を開けて、オイルまみれになりながら臓物をいじくっていた。バスパルクの中で、突発的に修理をしているらしい。
 チケットオフィスでジャナクプル行きのチケットが欲しいと言うと、受けつけのおじさんは顔色を変えた。
「いつ行きたいんだ?」
「なるべく早く」
「ノー。今はネパールの祭りのシーズンだ。バスのチケットはない」
「ならいつなら良いんだ?」
「アフター・フェスティバルだ」
「それはいつ?」
「七日だ。だが祭りの直後も混雑する」
 七日と言えば、今から五日も先だ。待っていたら、旅行の日程をほとんど消化してしまうではないか。
「チャイニーズ、飛行機ならノープロブレムだぞ。飛行機ならこの時期でもチケットがとれる」
「僕はジャパニーズです。でも、飛行機は高いでしょう?」
「バスよりは高いだろうな」男はにやっと笑った。「ところで、どうしてジャナクプルなんかへ行くんだ。ネパールに来るフォーリナーはみんな、ポカラへ行ってトレッキングをするもんだぞ。ツーリスト用のバスならまだチケットがある。そっちにしたらどうだ」
 出た、ポカラ推し。
「僕はジャナクプルに行きたいんですよ」
「どうしてそんなところへ行くんだ。行かない方が良い」
「どうしてみんなそう言うんです?」
「南部なんか行ったって何もないからだ。エヴェレストも、綺麗な景色もない。ネパールの魅力はみんな山間部にあるんだよ」
「山間部が綺麗なのは知っていますよ。僕も好きです。でも今回は、ジャナクプルへ行きたいんですよ」
「デンジャラスなんだ。南部のタライ平野も、そこへ行く道も」
「危険? どんな風に?」
「道が荒れてる。俺たちのガバルメンがちゃんとしていないからだ」
 ガバルメン。
 一瞬「頑張るメン」に聞こえたが、もちろんそんなことはない。頑張るメンなら、多少道が荒れていても頑張るはずだ。
 おじさんが悪口を言い始めたので分かった。Rをそういう風に発音した「政府」のことだったのだ。
 しかし、「道が荒れていて危険だから行かない方が良い」なんて、素晴らしく旅行者に優しい人たちだ。素晴らしすぎて、これには裏事情があると疑わずにはいられない。荒れた道ならミャンマーだって負けてないし、同じ山岳国のラオスだって、ガードレールなしの断崖絶壁を大型バスが通っているくらいだ。そんなのは経験済みである。
 状況が少し見えてきたところで旧市街地に戻り、先ほど入った旅行代理店にもう一度顔を出した。
 さっきと同じ聡明そうなおじさん、リマルさんが出てきて、「ミスター、決めたか?」と笑った。
 バスに乗りたいならポカラ。ジャナクプルへ行きたいなら飛行機しかない、と選択を迫ったおじさんだ。
 仕方ないが、ジャナクプル行きの飛行機チケットを片道分だけとってもらうことにした。祭りが終わるまでカトマンドゥで待っていたら、ジャナクプルで過ごす時間がなくなってしまうからだ。
「ミスター、やっぱり行くんだな、ジャナクプルへ」リマルさんは首を振る。
「道が荒れているから危険だと聞きました。そのくらいなら、大丈夫です。ジャナクプルに何日かいるだけですから。でも、カトマンドゥの人たちは親切ですよね、道が荒れているくらいで心配してくれるなんて」
「道が荒れていると聞いたのか?」リマルさんは笑う。「オーケイ、僕が解説しよう。危険なのは道そのものじゃない。マオイストだ。過激派は今でも活動しているんだ」
 出た、マオイスト。
 もとは毛沢東主義者のグループのことだが、この国では旅行者や通行者を襲う山賊のような連中を意味する。ものの本によれば、彼らは金品を奪ったあとで領収書を発行し、それを持っていれば、別の場所で再び襲われたときに強盗を免除されるというシステムをとっているらしい。領収書を発行する強盗など、世界的に見てもネパールにしかいないのではないか。
 でも、彼らは何年か前に議席をとったはずだ。
「マオイストは議席を持っているんでしょう? そんなことって、ありますか?」議席を持っていることを英語でどう表現するのか分からず、試行錯誤しながら伝えた。
「イエス。それでも危険なんだ。一部の過激派がバスを爆破する事件は、今でもある」
 ついでに言うと未遂事件はもっと多く。数日前にも、カトマンドゥに入ってくるバスの中から爆弾が見つかったらしい。
 僕の中で、何かがすーっと沈んでいった。
「他にも危険な理由はある。ネパールには九十六の民族がいるが、大ざっぱに分けると山の人間は真面目だ。だがタライ平野は違う。あそこは北インドの文化圏で、手癖の悪い連中が多いんだ。盗難事件なんか頻繁に起きていると聞くよ。これは最近の話じゃないが、僕が手配したお客さんの一人が、暴行を受けたことがあったんだ」
 僕は愕然としていた。リマルさんの説明には説得力がある。ジャナクプルは北インド文化圏、おまけに国境を接しているのは、インドの中でも最貧地帯と言われるビハール州だ。外国人が狙われるのは、当たり前のことに思われた。
「ミスター」リマルさんが言った。「それでもキミはジャナクプルへ行くのか? 行くならエアチケットをとってあげよう」
 僕は、少し検討すると言って店を出た。

 翌々日の朝、ノルリン・ゲストハウスのロビー付近で、どうしたものかと考えていた。Wi-Fiが部屋ではつながらないので、ロビーのソファに座ってネット検索をしていたのだ。
 個人の旅行記をつづったブログサイトをいくつか見てみると、過去にジャナクプルを訪れたことのある旅行者が見つかった。だが、治安情報については特に書かれていなかったうえに、投稿の日付を見ると三年も前だ。それだけあれば、状況なんて変わってしまう。
 どうしようかと考えあぐねていると、厚い眼鏡をかけた東アジア系の男性がロビーに現れた。レセプションに行くところで僕に気づき、こっちへやってきた。
「チャイニーズ?」と声をかけられ、「ノー、ジャパニーズ」と答えたら、彼もまた日本人だった。
「どこへ行っても中国人と間違えられるんですよ。やっぱり多いんですかね、中国人の旅行者」僕は言った。
「最近は特に増えましたよね。でも、ここは仕方ないですよ。中国人宿ですから」
 そうだったのか。そういえば、中国人の宿泊客が多いと思った。
「知りませんでしたよ。中国人宿と分かっていてここに泊まってるんですか?」
「僕は日本人宿が苦手なんです。ここは雰囲気も良いですから」
 彼は静かに、時間をかけて笑顔になった。
 この男、並の旅行者ではないと見た。知性的なしゃべり方、落ち着いた雰囲気、あえて中国人宿をチョイスする渋さ、そして、オシャレより実用性だけを考えたかのような服装と風貌。って、最後のは失礼だが、バックパッカー同士は、雰囲気だけで何となく旅行歴が計れてしまうのである。
「カトマンドゥは長いんですか」僕は言った。
「ついたのは昨日の夜なんですよ。これからどこかへ観光にでも行こうと思います」
 僕はこの二日、時間を持て余してしまったために、代表的な観光地を回っていた。チベット寺院のボウダナート、火葬ガートのあるパシュパティナート、山のてっぺんにあるスワヤンブナートはもちろん、南部のパタンや、少し離れたネワール族の町、キルティプルも訪れた。今なら先輩面して色々とアドバイスできるかもしれない。
 と、そこへ宿の従業員がやってきて、ネパール語で彼に話しかけた。彼は笑って、ネパール語で返していた。
 僕は絶句してしまった。
 何者なのだ。
 従業員が戻っていったあと、僕は言った。
「ネパール語ができるんですか?」
 ははは、と彼は笑った。
 してやったり、というよりは、照れくさそうな感じだった。そこがまた、並の旅行者とは違う。
「ネパール語はできません、て彼に言ったんですよ。僕がネパール人だと思って話しかけたみたいです。日焼けしちゃってるからですかね」
「でも、流暢に聞こえましたけど」
「知っているのはほんの少しですよ。ネパールに長いこといますからね」
「住んでいるんですか?」冗談のつもりでそう言った。
「JICAです。青年海外協力隊。知ってます?」彼は言った。「農村部に住み込みで、農家を手伝っているんですよ」
 ほおお、と僕は驚いた。同時に、先輩面しそうになったことを恥じた。
「農業技術の研究か何かをされていたんですか」
「いやあ、違いますよ。農業に関してはずぶの素人です。配属がたまたまこうなっただけなんですよ」
 聞いてみたいことは山ほどあった。ネパール農村部の話なんて、そうそう訊けるものではない。でも、僕には今、時間がなかった。ネパール滞在者なら、この質問しかない。
「実は、南部のジャナクプルに関する情報を集めているんですよ。行ったことはありますか?」
「行ったことはないですけど、あまり良い話は聞かないですね」
「というと?」
「僕らの場合、休暇のときはどこへ行くのも自由なんですが、タライ平野だけは上からの許可が必要なんですよ。詳しいことは分かりませんが、それだけ危険なんだと思いますよ」
「マオイストですかね」
「ですね」
 やはり、バス爆破事件や、爆破未遂事件のことが話題にあがった。ついでにもう一つ、タライ平野からカトマンドゥにやってくるバスが、カーブを曲がりきれずに崖下に転落した事故もあったという。
 転落事故は、事故だ。しかし、爆破や爆破未遂がそれほど横行しているということは、爆弾を持ったやつが南部にうろうろしているような気がしてしまう。
 僕は「へえ」と興味深げな笑みを浮かべていたが、その実、青ざめていた。この二日間、ただぼんやりとカトマンドゥを観光していたわけではない。明日を待っていたのだ。デイパックの中には、飛行機のEチケットの写しが入っていた。行き先はもちろん、ジャナクプルだった。

 トリブヴァン空港の国内線ターミナルで働いているのは、どう見てもパートのおばさんたちだった。てんでバラバラのサリーを着てチェックインを受けつけている姿は、空港というより田舎のスーパーのレジを連想させる。
 チェックインカウンターの横には、銭湯の脱衣所にあるようなアナログの量りがおいてあり、まさかと思ったら、やはりそれで機内預かりの荷物の重さを量っていたのだった。荷物を置くと、針が回転してふるふる震えるアレだ。
 チェックインを終えて待っている間、僕はうろうろしながら同じ便の乗客を観察していた。危険だ凶悪だと各方面からお墨付きをもらったジャナクプルの方々は、一体どんな悪人顔をしているのだろうか。乗客がみんな「ジャナクプルへ帰る人々」だとしたら、もう油断はできないことになる。ここはまだカトマンドゥの空港だが、実質的にはジャナクプルと同じなのだ。
 ところが、悪人顔は見つけられなかった。サリーを着たご婦人がたは笑っているし、若い男はウォークマンを聴きながら身体を揺すっている。ビジネスマンらしき男もいれば、不安そうな面持ちで時計や売店に目をやっている若い女もいる。どこにでもある待合の光景であり、あえて言えば、自分が一番悪人顔だった。
 とりあえず、飛行機は大丈夫だろう。
 僕は搭乗券を片手につまみながら、じっと待つことにした。
 これから乗る国内線は、イエティ・エアという。イエティはご存知のとおり、ヒマラヤ山脈でときどきチラ見される雪男のことだ。他の国内線航空にはブッダ・エアというものもあり、ネパールの空は未確認生物が飛んでいたり悟りを開いた人が飛んでいたりと、すごいことになっているのだった。
 例えば、各航空会社の社員の集まる席があったとする。そこではきっと、「初めまして、イエティの大友です」とか、「ブッダの田中です」みたいなことになるに違いなく、自己紹介だけで何だか豪華絢爛だ。
 という、下らないことを考えているうちに定刻を一時間も過ぎ、ようやく搭乗が始まった。
 イエティ・エアのカトマンドゥ―ジャナクプル線は、席が三列しかない小さな飛行機だった。脚立みたいなタラップを上り、搭乗と同時にCAさんに飴と脱脂綿を渡される。
 脱脂綿?
 何に使うのかまったく分からないが、何か重要な役割があるに違いない。
 飛行機がぐーんと離陸して水平飛行に入ると、通常はお菓子とドリンクの時間だ。咽がからからに渇いていた。飛行機にはペットボトルは持ち込めないと思って、搭乗前の早い段階で飲み干してしまっていたのだ。ところが持ち込みは自由で、みんなそれぞれ持参した飲み物を飲んでいた。
 離陸してから四十分が過ぎた。もうすぐ着陸の時間だ。ということは、お菓子もドリンクも出ないという気配が濃厚であり、あのCAは、搭乗時に飴と脱脂綿を配った以外、何もしていないのであった。
「チャイニーズか」と通路を挟んで隣の男に声をかけられた。
 ビジネスマン風のおじさんで、あまりに大柄なため、シートに座っているというより、シートを背中に貼り付けているように見えた。
「ジャパニーズです」
「おお、ジャパニーズが。ナイストゥミーチュー。ジャナクプルへ行くのか?」
「イエス。ミティラー画を見に行くんです。知っていますか?」
「もちろん知っているさ。英語ではハウスペインティングの方が通りが良い。三千年も前から伝わる我々の文化だよ」
「町へ行けば見られますかね?」
「当然だ。町の南郊か、もっと先の村へ行けば見られるはずだよ」
 それを聞くと、心配や不安を追い抜かして、楽しみが先頭に躍り出てきた。が、不安が一度、先頭に戻ってきた。
「ジャナクプルは危険だと色んな人が言っていました。実際はどうなんですか?」
「カトマンドゥの連中とは気質が違うからな。私に言わせれば、山の人間は真面目すぎるんだよ。そういう連中の中には、南部の人間を嫌う人もいるのかもしれない。でも悪い奴がいるのはどこでも同じだろう? 気をつけて入れば大丈夫だ」
 そうだ、その言葉が聞きたかったのだ。気をつけていれば大丈夫。現地人にそう言われたのだから、大丈夫なのだ。
 いよいよミティラー画がすぐそこに迫っている。僕は今すぐにでも飛行機を飛び降りて、ミティラー画の描かれた家を探したくなってしまった。
 おじさんはメモ帳に何か書きつけ、こちらに寄こした。
「私の連絡先だ。何か困ったことがあったら、電話するか、この住所を町の人に見せなさい」
 イーサー、と名前が書いてあった。
「ジャナクプルに住んでいるんですか?」
「イエス。生まれも育ちもジャナクプルだ。アイ・ラーヴ・ジャナクプルだ!」と笑った。
 僕はお礼を言って、連絡先をしまった。
 ついでに、訊いておきたいことを質問した。
「すみません。これ、何をするものですか? 手ふきの代わり?」と脱脂綿を見せる。
「これか? これはこうだ」と、ちぎって耳の穴に突っこんだ。
 どうやら、耳栓だったようだ。

 日差しの突き刺さる湿地帯に、きーこきーこと錆びたチェーンの音が揺らぐ。
 リクシャーは牛、山羊、豚がうろつく草原の道を、ゆっくりゆっくり移動していた。リクシャワラー(車夫)のおじさんが力いっぱいペダルをこいでも、ちっともスピードに乗らない。地面が、雨のうがったとおりに凸凹になっているからだ。無理に進もうとすると、振動でリア・シートが傾いて、ずり落ちそうになった。
 まだ空港からいくらも来ていないが、真っ黒に日焼けしたリクシャワラーのおじさんの首筋では、汗の玉が結合を繰り返して滑り落ちていた。
 窪地を通るたびに、リア・シートの幌が軋む。ゆったりとしたリズムを刻むチェーンの音とあいまって、眠りに誘われるようだった。
 インド菩提樹が枝を張っている。その下で、男たちが何人も集まって座り込んでいる。みんな日陰に避難しているのだ。リクシャワラーのおじさんがネパール語で怒鳴った。向こうからも怒鳴り声が帰ってきて、お互いに笑い合う。このおじさん、悪人面なので何をやっても怒っているように見えてしまうのだ・・・・・・いや、本当は普通の顔だったかもしれないが、僕には悪人面に見えていた。
 ジャナクプル空港の田舎度は、ロケーション、規模、アクセスの三項目において、僕が経験した中ではどれも堂々第一位だった。
 滑走路は今にもジャングルに飲み込まれそうになっているし、ターミナルの建物は、ずっと昔に廃校になった小学校みたいだった。
 交通のことを言えば、バスもタクシーもなく、タイやラオスのようにトゥクトゥクもない。もちろん乗り合いのミニバンもない。飛行機から降りていった人々は皆、家族の出迎えのバイクか、リクシャーに乗って去ってしまった。最後に残ったのが、木陰で昼寝していたリクシャワラーだった。後ろに座席をとりつけた自転車でしか行き来できない空港なんて、なかなかないだろう。
「町の安宿へ行って下さい」おじさんにそう言うと、彼はリクシャのシートから起き上がり、にやりと笑った。
「宿の名前は?」
「分かりません。安い宿へつれていって下さい」
 おじさんは、乗れ、と首を横に倒した。
「ちょっと待った。いくらですか」
「ファイブ・ハンドレッドだ」
 聞き間違いかと思った。五百ルピーといえば、カトマンドゥの中心部から空港までのタクシー代とほぼ同じだ。粘って値切ればもう少し安くなるくらいだろう。それなのに、こんな僻地で人力車に五百ルピーは、ない。
「オーケー、それなら他を当たります」と言って、僕はおじさんのリクシャーから離れた。
 が、すぐ立ち止まってしまった。目の前にあったのは巨大なインド菩提樹と、曲がりくねったあぜ道と、あとは無人の空間だった。ところどころに森があるせいで、どっちが町なのか見当もつかない。
 他のリクシャーはいないかと見回したが、もう残っているのはこのおじさんだけだった。
 へへっ、とおじさんは笑った。
「ミスター、ファイブ・ハンドレッド」
「そんなに遠いんですか?」
「イエス、ヴェリファー。へへっ」
 無意味な質問だった。確かめようがないのだ。
 水田と道の区別が曖昧な景色の中を、リクシャーはきーこきーこと進んでいく。広い草地の真ん中に、大型バスの臓器と思われるものが転がっていた。まるで皮を剥がれ、食べられるところだけ寄ってたかって持って行かれた大型動物の死骸のようだ。残骸の周りを、ティーシャツしか身につけていない子供たちが歩き回っていた。
 三十分くらいたっただろうか。平屋の建物が増えてくると、人どおりも牛どおりも豚どおりも多くなって、にわかに町の雰囲気が濃くなった。祭りの準備も架橋だ。ヒンドゥー教らしい色鮮やかな装飾の谷間を抜けて、リクシャーは進んだ。
「ここがホテルだ」
 おじさんは足を止め、リクシャーを惰性走行させながら指を差した。高い塀に囲まれた、いかにも高そうなホテルだった。
「オススメ?」
「イエス、みんなここに泊まる」
「高そうだね」
「イエス、エブリバディだ」
「ええ?」
「セキュリティーもグーだ」
「いくらか知ってますか?」
「八百ルピーだ」
 八百ルピーと言えば、日本円で八百円くらいだ。
 日本なら即決で投宿して良いくらいの値段だが、ここの相場からすれば中の下くらいだろう。僕の探しているのは下の中か、下の下だ。相方のいない旅なのだから、良いホテルである必要はない。
 僕はもっと安いホテルへ行ってくれと指示をした。おじさんは意外にも、あっさり承諾した。
 リクシャーは目抜き通りをひた走る。と言っても、子供が駆け足をした方がまだ速いようなスピードだった。
 サモサを揚げて売っている露店が路肩に並び、ニンニクやタマネギの混じった香ばしい煙が、鼻から入って胃を掴んでくるようだった。インド系の人種らしい眼光の鋭い人々が、僕をにらむように見つめてくる。しかし、少し手を振ってみると照れたように笑った。最初は警戒、そのあと懐柔というのは、外国人が珍しい地域の特徴だ。確かにここは、首都カトマンドゥとは人種も雰囲気も違う。
 銀行のある十字路を左に折れ、さらに五分ほど進むと、道が冠水していた。水道管が壊れたのではなく、道ばたの草地からしみ出しているようだ。空港からここまでの間に、同じような現場をいくつも見た。町全体が湿地帯に作られているようだった。
 二つの目のホテルは、町の目抜き通りからずいぶん離れていた。リクシャーのおじさんも値段を知らないようなので、レセプションへ行って直接聞いてみる。
 レセプションのおじさんは、英語がまったく通じなかった。それでも、あたふたしながら意思疎通を図ってくれたので、僕は外で待っているリクシャーのおじさんを連れてきて、部屋を見せてもらえるよう通訳してもらった。一番安いシングルルームにはエアコンがなかったが、天井のファンは回る。ホットシャワーも熱々ではないものの、問題ない。ゴキブリはシャワールームに生体が一匹だけ。まあ、良いだろう。
 二百ルピーまで値切って、キーを受けとった。部屋に入り、さて鍵をかけようとしたところで気がついた。鍵は、鍵穴から向こう側が見えるタイプのものだった。実際、部屋の中からは廊下が見え、廊下からは部屋の中が鍵穴の形に切り取られて見えた。クラシックな推理小説に出てきそうな鍵なのだ。
 ――南部の連中は悪い。十分気をつけた方が良いぞ。
 カトマンドゥの人たちの言葉を思い出し、僕は旅の必需品、ガムテープを取りだして鍵穴に目隠しをした。少なくともこれで、中の様子を探られることはあるまい。

 リクシャワラーのおじさんは、再び僕を乗せて重たそうなペダルを踏み込んだ。
 町を渡る風は、牛糞の匂いだ。
 さっき通ってきた銀行のある十字路を、南の方に曲がる。自転車屋があり、サンダル屋があり、サイバーカフェがあり、写真屋があり、町の人々がそれぞれ目的の店に集まっているようだ。少しは町らしくなってきたと思ったら、あっという間に風景は湿地帯になり、早くもミティラー画の描かれていそうな集落に入っていた。
 僕はもう、とろとろと進むリクシャを飛び降りて、自分の足で一軒ずつ見て回りたい衝動に駆られていた。
「ミティラーペインティングはこのヴィレッジですか」
 リクシャーのきーこきーこという音に負けないよう、大声で訊いた。
 おじさんはこちらを振り返りもせず、ノー、と手を振った。
 しかし、覗いてみたい。なにも家の中にずかずか入ろうというわけではないのだ。ミティラー画はふつう、外壁に描かれている。少し止まって、近づいてみても良いではないか。
「ここも少し見たいです」
「イエス、ミティラーペイティングはもう少し先だ」と、止まる気配がない。
「僕はここを見たいと言っているんですよ」
「ノープロブレム、テンミニッツだ」
 薄々勘づいていたが、おじさんの英語は通じるときと通じないときがある。通じるのは主に、金の話のときだ。
 少し、心配になってきた。
 投宿したラーマホテルを出るとき、僕はおじさんを半日チャーターした。空港からのぼったくり料金を考えるとあまり好きにはなれないが、新たに英語ができるリクシャワラーが登場する確率は、この町ではかなり低そうだと思ったからだ。
 おじさんには、ミティラーペイティングの村を、夕方までにできるだけたくさん回りたいと伝え、彼の方も「オーケーだ」と言った。
 あまりにあっさり伝わったので、不安になって念押しまでしたのだ。
「良いですか? 伝統的にミティラー画を描いている村ですよ。それをいくつも回って欲しいんですよ」
「オーケー、オーケー、アイ・アンダスン」
 というわけでリクシャをこぎ始めたのだが、早速最初の集落をスルーしている。雇い主の要望を無視だ。
 が、まあ良いだろう。僕はミティラー画を見に来たのだから。
 リクシャーが一台通れるだけの小径は、ところどころ冠水していた。くぼんだところが自動的に小川になり、村童が錆の塊みたいな鍋を洗っている。鶏と子豚が別の村童に追われて逃げ回っていた。
 しばらく行くと、森を抜けて広大な水田地帯に出た。どこが水田で、どこが畦道なのか分からないほど雑草の茂った道を、おじさんは迷いもせずに進んでいく。人の姿がまったく見えなくなったのは、今回の旅では初めてだったかもしれない。
 晴れ渡ったタライ平野に、チェーンの軋む音だけがリズミカルに聞こえる。やっぱりここに来て良かった、と思った。もう少しでまどろんでしまいそうだった。
 おじさんが、畦道の途中にある一軒の邸宅に向かって曲がった。明らかに、これまで通過してきたような村とは違う建物だった。ぐるりを外壁で囲ってあり、誰かの別荘といった雰囲気だ。
 門の外にリクシャーを止めると、おじさんは降りるように言った。
「ここはどこですか?」
「ノープロブレムだ」
 おじさんはそう言って、さっきまで僕の座っていたシートを蓋みたいに開けた。くしゃくしゃになったペットボトルを取り出すと、透明とは言えない水をがぶ飲みした。
 門には、現地語と英語で案内が書かれている。
 NGO、という文字が見えて、嫌な予感がした。
 門は開いていた。中ではフルハウスのミシェルとステファニーみたいな女の子たちが遊んでいて、もう少し年長の男の子が面倒を見ていた。
 僕に気づくと寄ってきてお菓子をねだった。日本から持参したあずきキャラメルをあげると、包み紙をその場に捨てて、にこにこと噛み始めた。
 敷地内にはいくつも平屋の建物があったのだが、どれも鍵がかかっていて入れない。外壁には、いかにもテーマパークのようなわざとらしさで、民族調の彫り物が施されていた。
「おじさん、ここはヴィレッジじゃない。僕が見たいのは、ヴィレッジのミティラー・ペインティングなんですよ」
 そう言うと、おじさんは「ウェイト、ウェイト」と言ってどこかへ行ってしまった。
 十五分後、にこやかなおばさんをつれて戻ってきた。ずんぐりしたおばさんは鍵の束を持っていて、その中から該当するものを探し、ドアを一つ開けた。
「今日は本当はお休みなのよ。でも、わざわざチャイナから来たって言うでしょう? 家がすぐ近くだから特別に開けてあげるわね」おばさんが流暢な英語で言った。
 僕はさりげなくジャパニーズだと訂正しながらお礼を言った。
 おばさんの説明では、ここはJanakpur Women's Development Center、略してJWDCであった。「生活の足しにするために、伝統のミティラー画を商品化して流通させよう」という女性支援の組織だ。
 当然、建物の中にあったのは、大量のミティラー画グッズだった。紙に描いたものはもちろん、コーヒーカップやソーサー、トートバッグにクッションカバーと、明らかに「商品」になっていて、こんなものを探しに来たわけではないぞ、ふざけるな、と思いつつ、エスニック雑貨好きの僕は興奮してしまっていた。
 しかし、こういうものならカトマンドゥの大型書店にもあったし、雑貨屋にもあった。もちろん、日本にもある。流通させるために作ったものなのだから当然だ。
 せっかく本場まで来たのに、どこにでも売っているようなものなんか見たって仕方ない。と、思って出ようとしたそのとき、土色のコーヒーカップに描かれたミティラー画の魚が、こちらを見上げているような気がした。
 連れてって、と魚が言っている。
 僕はコーヒーカップを手にとった。
 よく思い出してみるのだ。これと似たようなものが、カトマンドゥの書店や土産屋にあっただろうか。書店にあったのは、ポストカードや手漉き紙で作った写真立てなどだ。土産物屋には、ミティラー画の紙箱で包装されたネパール茶やカレンダー、何年も陳列されていたようなミティラー画キーホルダーだった。日本のエスニック雑貨店でも、このようなものは見たことがない。
 しかし、カトマンドゥの人々の反対を押し切って遠路ジャナクプルにやってきたのは、ミティラー画グッズを買うためではないのだ。だいたい、そんなものを買ったら荷物になる。荷物になれば、盗まれはしないかとか、壊れたらいけないとか、よけいに気をつかうことになり、旅の自由度が低下してしまう。
 それで僕はこう結論を出した。
 ――ここにしかなさそうなものだけ、ここで買っておこう。
 三十分後、僕は両手に余るほどのミティラー画グッズを買ってJWDCを出たのだった。

 おじさんはきーこきーことリクシャーを漕いで、来た道を引き返していく。
 一軒目でいきなり荷物が増えてしまったのは遺憾だが、気分はほくほくしていた。やはり、エスニック雑貨は欠かせない。どうせ買おうと思っていたのだから、カトマンドゥに流通しているものより、現地で買ったほうが種類も豊富だ。次の村からは外壁の写真を撮り、一番気に入ったミティラー画のある家で長居させてもらおう。
 そう自分を納得させていたら、リクシャーはジャナクプルの街中に戻っていた。
 ん? ミティラー画があるのはジャナクプル南郊ではなかったか?
 おじさんは中心部を越えて、北上している。
「ミスター、僕はミティラー・ペイティングをできるだけ多く見たいと言ったのだよ。北に向かっているようだけど、こっちにもあるんですか?」
「ノープロブレムだ、心配するな」
 おじさんは先ほど井戸で満タンにしたペットボトルの水を飲んだ。
「夕方までのチャーターだよ。覚えていますか」
「アイ・ノウ、アイ・ノウ!」
「次の村までどのくらい離れているんですか」
「ノープロブレムだ、心配いらない!」
 おじさんはそう言って、ラーマホテルにリクシャーをこぎ着けた。
「休憩?」
「へへっ、ミスター、四百ルピーだ」
「フィニッシュじゃないですよね? まだ三時にもなってない!」
「フィニッシュだ」
「冗談じゃないよ。できるだけ多くの村って言ったじゃないか」
「へへっ」
「あんたが連れて行ったのはお土産屋だよ。僕はホンモノを見たいと言ったのに!」
「ミスター、四百ルピーだ」
 頭に来てレセプションの誰かを味方につけようとしたのだが、そこにいたのは英語が一切できないおじさんであった。
 僕はしぶしぶ四百ルピーを払った。
「ミスター、ワンウェイで四百だ。帰ってきたんだから八百ルピーだよ」
「おまえ! いい加減にしろよ!」と日本語で声を上げると、おじさんはにやにやしながら「冗談だよ」と言った。
「トゥモローは何してる? またチャーターするか?」
「もうしないよ。チャーターはナシ! グッバイ!」と言って、ホテルのロビーから追い出した。
 これだから、「タライ平野の連中は手癖が悪い」だの、「あいつらはほとんどインド人」だの言われてしまうのだ。
 ため息をつくと、種田山頭火風の自由律俳句が一句ができた。

 値切っても値切ってもインド

 ミティラー画は一体どこにあるのだろうか。
 ジャナクプルまで来たというのに、全然見つからないではないか。少し歩けばいくらでもあると思っていただけに、あせりは募る一方だった。
 散策と夕飯のために町を歩いていたら、ほとんど一分おきくらいにガイドを名乗る男に声をかけられた。彼らは、ガイドを名乗るところまでは英語が話せるのだが、それ以降は全然ダメだった。予習が甘いったらないのである。
「なるほど、それではガイドくん、ミティラー画はどこに行けば見られる?」
「イエス、ここがジャナクプルで一番大きな寺院です」
「ミティラー画はどこかと訊いているんだよ」
「イエス、ラーマーヤナに出てくるラーマとシータがいます」
「英語、分かってる?」
「もちろん。モンキーのハヌマーンの像もあります。へっへっ」
「グッバイ」
 と言うと腕を掴んで止められ、「ミスター、ガイド料をちょうだいよ」という流れになる。
「ガイドなんかしていないじゃないか」
「それじゃ、ドネイション(お布施)だけでも」
「グッバイ」
 これだから、うかつに歩くと面倒なのだった。
 そうかと思えば、今度はやけに英語の流暢な若者が自転車に乗って現れた。「魔女の宅急便」に出てくるトンボみたいなノリの青年で、ナムスディンだと名乗った。
 彼の英語なら大丈夫かもしれない。
 僕はミティラー画のことを尋ねた。
「キミはミティラー画を見に来たの?」
「イエス。日本からね。どこへ行けば見られる?」
「もちろん、ジャナクプルだ。ミティラー画と言えばこの町だよ」
「でも、どこにあるか分からないんだよ」
「列車に乗れば良い。一駅か二駅乗って降りれば、ミティラー画がたくさんある村に行けるよ」
 なるほど、良いことを聞いた。

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