パンまつりは突然に


数年前、わたしはレストランで働いていた。

この店では注文受けをシェフに伝える際、数をイチでなくワン、ニでなくツーと言う決まりがあった。シェフが決めたらしいが、今までそういう小洒落た店で働いたことのないわたしにとって、少しだけ気恥ずかしい決まりでもあった。
客席から厨房へ向い、シェフに注文を伝える。「魚ワン、肉ワン、パスタツーです!」聞き取りやすくハキハキと。毎回ちょっとだけ緊張する。
ランチはライスかパンか選べるようになっていたので、パンが何個いるのかまでをシェフに伝える。伝えた数だけシェフがパンをオーブンに入れるので絶対間違わないように伝えなきゃいけない。しかしワンツールールのため、パンが2個いる場合は「パン、ツーです」と言わないといけなくなる。わたしはそれが「パンツです」と言ってるようでイヤだったので、そのときだけはしれっと「パン2個です」とシェフに伝えていた。

バタバタと汗だくになりながら動き回る。ランチタイムは水を飲む暇もないくらい忙しい。
パンが焼ける前にオーブンの側に皿を並べる。これが出てないとシェフが熱々のパンを握ったままと鬼のような目で見てくるので絶対忘れてはいけない。パンを皿にいれてもらったらすぐに運ぶ。目がまわりそうな忙しさ。ピリピリした空気。パンをどのテーブルに運ぶのかは事前に確認済みだ。無駄な動きは許されない。ササっとテーブルへ向かう。
「お先にパンをお持ちしました」
パンを2個置く。自分の中で精一杯にすました顔をして「失礼します」と言い厨房に戻った。

厨房に戻り、伝票に赤ペンでチェックをいれようとして気がついた。
「ま、間違えた…」
わたしがパンを運んだのはライスを注文したお客様だったのだ。
「やべえ…」と思いながら横目でシェフを見る。いつも穏やかで静かなシェフがあまりの忙しさにドタバタと殺気立ちながら調理をしている。わたしは震えた。

物影からそっとさっきのお客様を見る。パンには全く手を付けていない。わたしが間違えて運んだことを晒されているような気がして恥ずかしい。
厨房に戻りシェフを見るとパスタを炒めたフライパンをシンクに投げ飛ばしていた。話しかけるのも恐ろしい。こんな状況でこんな凡ミスするなんて…はああ…。

しかし、わたしがパンを間違えて運んでしまったことにより、本来パンを注文していたお客様に対するパン不足が発生していた。
これ以上びびっている時間はない…。震えながらシェフに言う。
「シェ…シェフ…すみません!!パ…パンを間違えて…運んでしまいました…!」
シェフは「いいよ。」とポツリと言い、「結局パンは何個足りないの?」といつもより低い声でわたしに聞いた。この時ばかりは「パン2個です!」というと怒られそうだったので「パンツーです!!!」とはっきり言った。

お客様が全員帰り片付けもボチボチ終わる頃、バイト仲間と話していると自分の右の足首あたりになんとなくぬくもりを感じた。ん?なんか靴下長いの履いてきたっけ?とズボンの裾を整える。ん?と思いながらも話が盛り上がっていたため、わたしはそれ以上気にせず話を続けた。

帰りにスーパーに寄る。晩ごはんはなんにしよう。悩みながら歩き回り、野菜売り場に辿り着いた。ふと足元に違和感を感じ、目をやる。するとピンクのなにかが足首に引っかかっていた。一体なんだかわからなくてよく見る。パンツだ。ピンクのパンツだった。でっかい「?!」マークを頭に浮かべたあとハッとする。今朝バタバタと着替えているときにピチッとしたズボンを履いたのだが、パンツのラインがガッツリ出てしまいシームレスのパンツに履き替えたのだ。そう。これはその時に脱ぎ捨てたはずのピンクのパンツだった。わたしは急いでピンクのパンツをズボンの裾の中に押し込み、なにも買わずに外へ出て車に乗り込んだ。
わたしは今日1日、パンツを裾に詰めてパンのオーダーを取り「パンツー」と伝え、パンを受け取りパンを運んでいたのだ。ライスのお客様に間違えてパンを運んだ時にパンツを飛び出させていたら…と思うとゾッとした。突然のパン祭りの開催にお客様を混乱させてしまうところだった。よかった。野菜売り場で。よかった。寂れたスーパーで。

あの時「パンツーです!!」と言わなくちゃいけなかったのはもしかしたら神様のお告げだったのかも知れない……と「春のパン祭り」と書いてあるピンクのシールを見ながらそう思った。


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