【小説】アヴェンジャー・ババア~怒りの中国自動車道~
中田洋子(81)はその日、四年ぶりに我が家を訪問するというひ孫をもてなすため、郊外のショッピングモールに買い物へ行く予定を立てていた。洋子は運転免許を数年前に返納して以来、郊外への移動は決まって路線バスを利用している。その日も洋子は十時三十八分に近所のバスターミナルを出発するために家を出たのであった。時刻は十時二十二分。
洋子の家の近所にあるバスターミナル――鳥鳥駅前バスターミナルは、ゴールデンウィークの中日ということもあり、普段のさびれた様相とは打って変わって、主に大都会オオサカ行きの高速バスに乗り込もうとする人々でごった返していた。洋子はその人の群れの中、普段から乗り慣れた、郊外行きの路線バスが止まる四番乗り場へと足を進めていく。
話は少し変わるが、鳥鳥駅前バスターミナルはいささか古いバスターミナルである。昨今のバスターミナルだと電光掲示板やらユニバーサルデザインに配慮した案内板やらで、非常に親切で利用しやすい設計になっているものだが、あいにくと大田舎である鳥鳥の小さなバスターミナルにはそのようなものはない。そこに普段バスを使わない鳥鳥の純朴な若者たちが大都会オオサカ行きの高速バスを求めて導線を無視した動きをするとどうなるか。賢明な読者諸君ならもうお分かりであろう。
しっちゃかめっちゃかである。さらにそこに洋子のようなシニアたちも加わるので、その日の鳥鳥駅前バスターミナルはまさに戦場のような様相を見せていた。
そのような状態であるから、洋子の足はなかなか四番乗り場へたどり着かない。そしてさらに不幸なことに、洋子はその事実に全く気が付いていなかったのであった。このくらい歩いたからいつも通りこのバスに乗ればいいやと、洋子は四番乗り場の隣、三番乗り場にちょうど止まっていたバスに乗り込んだ。あれ、普段乗るバスってこんなきれいな三列シートだったかしら? と少々の違和感を抱きつつ……。時刻は十時三十九分になろうとしていた。
その日の洋子はいささか疲れていた。ひ孫のリクエストした料理の下ごしらえをしながら普段の家事をこなす。数十年前なら鼻歌を歌いながらこなせていたそれらのタスクも、もう一つ一つをこなしていくので精いっぱいであった。近所のご婦人たちから「鉄の洋子」と呼ばれていたのも今や昔。疲れが抜けきらないまま、その日を迎えていた。
そんな状態であるから、バスに乗った洋子はすぐにうつらうつらとし、二分としないうちに夢の中へといざなわれていく。不穏な車内放送をBGMにしながら。
「えー、本日はN交通高速バスをご利用いただき誠にありがとうございます。このバスはカワバラインター経由大都会オオサカ行きです。このバスは途中、ヤストミパーキングで三十分程休憩のため停車いたします。それでは狭い車内ではありますが、どうぞおくつろぎください……」
不幸というものはときに連鎖するものである。まず三番乗り場は本来別の路線バスが発車する乗り場であるのだが、ゴールデンウィークということもあってその日だけは増便した高速バスの臨時乗り場として使用されていたのである。また、普段なら高速バスというものは入口で乗車券を確認してから乗車するのだが、その日はいかんせん乗客が多く、またその多くがキャリーバックを持っているものだから本来乗車券をチェックしなければいけない運転手はそちらの対応に追われ、洋子がバスに侵入していくのを見落としていたのだった。さらに本来なら満席で洋子のような予想外の闖入者の席などあるはずがないのだが、たまたま当日のキャンセルで洋子の座るスペースができてしまったのである。かくして洋子は誰もその事実に気づくことなく身柄が大都会オオサカへと運ばれていくのであった。
バスの発車から一時間が過ぎ、洋子のまどろんだ意識は少しずつ覚醒していく。それは同時に、洋子に対して恐ろしい事実を突きつけるのとイコールでもあった。
目が覚めた洋子はまず、自らの頬をつねった。痛い。それだけでは夢から覚めないのねと思い今度は頬を何度も叩く。やっぱり痛い。車窓から見える景色は路線バスの何倍ものスピードで過ぎ去っていく。
「あのー、お兄さん。このバスって、北イ○ンに行ったりしませんよね?」
「はい?」
「いや、このバスどこまで行くのかなあって思って……」
「どこって、大都会オオサカまでですけど……」
一縷の望みをかけて隣に座る大学生らしき若者に尋ねてみたが、やはり洋子が最も恐れていた答えが返ってくる。そこでようやく洋子は自らが置かれた状況を理解した。
ひ孫はお昼過ぎには洋子宅に到着する。それまでにはひとまず自宅まで帰りたいが、パニック状態に陥った洋子には、どうやってもその方法が思いつかない。
バスから飛び降りる? いや、ただでさえ老体なのにそんなことをしたら家に着く前にあの世に着いてしまう。
運転手さんに行ってどうにかしてもらう? いや、ほかの乗客の、それも若い人たちに迷惑はかけたくない。
じゃあやっぱり窓から飛び降りてみる? いや、でも……。
洋子の思考は堂々巡りを繰り返し、いつまでたってもまとまらない。そうやって洋子が頭を抱えてうんうんうなってから十分ほどが経った十一時五十二分。
車内に一発の銃声が鳴り響いた。
「おい! 全員静かにしろ! このバスはたった今から俺たち『正義執行団』が乗っ取った! 俺たちの要求をこの国の腐った役人どもが飲むまで、このバスとお前らは全員人質だ!」
数人の男が席を立ち、その中でもひときわひょろりと背の高い男はそう言うと、右手に携えた拳銃をまるで見せびらかすようにゆっくりと上に掲げた。
「いいか、騒いだり、逆らったりした奴はこいつ一発であの世に送ってやる! せいぜいいい子で座ってるんだな!」
「なあ、シズウチ。とりあえずバスを乗っ取ったはいいが、ここからどこに向かって走らせる?」
「そうだなあ、とりあえずドライバー! 別に俺たちはどこに行ってもいいんだがなあ。ホッカイドウのエベツなんかいいかもな。ちょうど昨日テレビでやってたし、そこまで頑張って運転してくれよなあ、ギャハハハハハハハ」
部下らしき男の問いに拳銃男はそうニヤニヤしながら答える。そのあとは仲間同士での下品な高笑い。その一部始終を呆然と眺めていた洋子の中に、ある一つの感情が芽生えようとしていた。
怒り。
洋子は八十一年間の人生の中で一度たりとも「怒り」という感情を抱いたことすらなかった。良き妻、良き母、そして良き女としてあろうとし続けた洋子にそのような感情が芽生える隙間などなかったのである。
しかし、今、洋子はそれらすべてを脱ぎ捨てて、自らの中でぐるぐると強烈な「怒り」を膨らませていく。
それは誰に対しての怒りなのかも洋子にはもうわからない。バスを乗り間違えた自分? 手間暇など考えず「おばあちゃんの作ったエビの天ぷらとローストビーフが食べたい」などとのたまうひ孫? 狼藉の限りを尽くすひ孫に何も言えない孫? 近くに住んでいるはずなのに手伝おうともしない娘? 自分は生きたいところに行けずバスから飛び降りる寸前まで行ったのに訳の分からない動機で訳の分からない土地へ他人を連れていこうとする目の前の男たち? そんな男たちに我が身可愛さで何も言えない運転手と乗客たち?
それとも、その、すべて?
洋子の中で怒りが攪拌されていく。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる――。
そして洋子の中で何かがはじけた。
座席に座った状態で洋子の体が大きく跳ねる。強烈なジャンプでバス通路を飛び越えバス前方へ着地。
「おい、なんだこのばあさ……」
まずは一番手近にいた男の頭を掴み、床へ叩きつける。
「いかれババア! 何しやがる!」
拳銃男の隣に立つ男が洋子めがけて殴りかかってくる。大ぶりな右ストレート。洋子はそれを難なくかわすと、男の顔面に強烈なカウンターをたたき込む。
ひとり座席に座っていた男は、手にしていたノートパソコンで殴り掛かってくる。がら空きのボディにハイキックが一閃。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ひとりの老婆に自らの仲間たちがなすすべもなく倒されていく。そんな現実離れした状況を目の当たりにし、拳銃男はパニックに陥った。そして手にした拳銃で洋子に弾丸を打ち込んでいく。
しかし、激烈な「怒り」という鎧をまとった洋子の前にそんなものは無力であった。弾丸は洋子をかすめることすらなく、放たれたそばからぼとぼとと力なく地面に転がっていく。
洋子はひるむことなく拳銃男に近づき、男の顎めがけて今日一番の、いや八十一年間の人生で一番のパンチをたたき込んだ。拳銃男が地面に倒れ、車内は静寂に包まれる。一瞬の間のうち、老婆の勇気ある行動に車内は歓喜の声で包まれ――。
「黙れ!」
歓喜の声は洋子の鋭い声で打ち消された。
「今からこのバスはイ○ンへ向かってもらう。運転手さん、バスをこの先で一番近いパーキングで停めてくれ」
洋子のあまりの迫力に、運転手はただただ頷くほかなかった。
バスは近くのパーキングエリアに停められると、洋子一人がバスを降りた。そして大きく一つ息を吸うと、洋子はバスを持ち上げ、宙へ放り投げた。そして洋子も、八十一歳とは思えないジャンプ力で宙へ飛びあがると、宙を舞うバスへと飛び乗った。
そう、まるで桃白白のように――。
その後、洋子は無事にイ○ンに到着し、ついでにバスを大都会オオサカ方面に放り投げてから、ひ孫の喜ぶ顔を想う浮かべながら穏やかに買い物を済ませましたとさ、どっとはらい。
(2023年6月執筆)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?