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Q,頑張らない私に価値はある?(10/24の日記)

昨日は朝8時に起きて朝食を食べ、そのあとうとうとと何度か寝たら12時半だった。何人かフォロワーが配信を開いていたので潜りつつ、そこで、「私ってそういえば病気とどう付き合っているのだろう」と思い、色々と考えたことがあるので今回はうだうだと書き連ねたいと思う。

まず、私の病気との付き合い方について。

大前提として、私は「うつ病」という自分の病をあまり「病気」として捉えていない。どちらかというと私を構成する要素のひとつでしかないと思っている。そして、それは治る、治らないの話ではなく、私という生き方のひずみから来るものだと思っているのだ。生き方、すなわち私の考え方を見直さないとこの悩みや苦しみは楽になんてならないし、このまま薬を飲み続けても、いわゆる「寛解」には至らないのではないかと考えている。

そしてそもそも私は、この病をあまり治そうと思っていない節がある。なにせ死にたい気持ちは小学生低学年の頃からあったし、それはもはや希死念慮というより私の死生観に問題がある気がする。死にたい気持ちと共に私は成長してきて、光と影のようにずっと一緒に過ごしてきたのだ。それをいきなり手放せ、まっとうに生きろと言われても私は正直困ってしまう。「死にたい私」も、私にとっては一括りに、当たり前に存在する私なのだ。 それゆえに、私はそれを治すことなんて不可能なのではないかと思っている。死にたい気持ちとは共存の道を歩むほかない気がするのである。

ここで、私という生き方のひずみについて説明したい。私は幼少期より完璧主義で、他の人の100パーセント、いや、120パーセントの努力をしないと自分のなりたい自分にはなれないと思っていた。中学の頃の定期テストはどの教科も大体90点は取っていたし、高校受験も偏差値を10上げて行きたい高校に入った。なにか自分がやりたくて、かつ努力で解決できることはいつもなんだってやった。高校の時も、自分の理想とするステージが作りたくて、寝る間も惜しんで部活に勤しんだ。ただ、時にはその努力が及ばないことや人より出来ないことももちろんあり(当たり前なのだが)、その時は酷く落ち込んで「これが達成出来ない自分には価値がないんだ、死にたい」と自分を責めた記憶がある。要するに私は0か100か思考で、なかなか中間の自分を認められなかったのだ。物事は中間の方が多いに決まっているのに。

こんな不器用な私を見て、よく「適当に」とか「肩の力を抜いて」だとか、大人たちが私にそう言うのはとても簡単だ。でも、それを私が実践するのは難しい。私は人生をフルスロットルで生きてきて、その生き方しか分からない人間なので「楽に生きる」なんてことは想像がつかなかった。1度エンジンがかかったら焼ききれるまで頑張ってしまうのだ。このやり方は自分にとって良くないことなんてとうの昔に知っているが、それでも、頑張らない(頑張れない)自分に価値はあるのか?と思ってしまう自分がいた。
こう文に表していると、心底これこそが「私という生き方のひずみ」なのだろうなと思う。


とまあ、そんなことをずっと考えていたある日、カウンセラーさんに言われたことがあった。
今思えば、これが私の転機だったと思う。それはこの一言である。


「偉くても、偉くなくても、○○さんは○○さんなのよ」


こう言われた時、なんだか心の深いところで私は納得したのだ。今まで「頑張ってなくて偉いんだよ」と言われることはあったが、なかなか自分の中で「本当に……?」としっくり来なかった(だって私の中では頑張らない=偉くないなので)。でも、頑張っていても、いなくても、そして偉くても偉くなくても私は私なのである。これは変わりようのない事実だと思った。そこで編み出した考えがこちらである。

Q.頑張らない私に価値はある?

A.価値はないかもしれない。でも私は私なことに変わりはない。

そもそも論点が違うのだ。自分に他者から見ての価値を求めている時点で間違っている。だって所詮私は、私以上でも私以下でもなく、誰でもない「私」なのだから。私が私であることそのものにきっと価値があるのだ。
そこで私は少し、ほんの少しだけ、自分の生き方を見直せたのである。どんな私も私なのだから、好きに生きたっていいじゃないかと。

纏まらなくなってきたので今日はこの辺りで。
ではまた明日。

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