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辻井最後の詩集、自らの人生を象徴 辻井喬『死について』

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辻井最後の詩集、自らの人生を象徴

辻井喬『死について』

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■辻井喬『死について』2012年7月20日・思潮社。
■2,800円(税別)。
■連作詩集。
■装画 宇佐美圭司(「旅・After Hiroshima」2005年)、装幀 中島浩。
■92ページ。
■2021年6月16日読了。
■採点 ★★★☆☆。

 難解な表現を排し、ほぼ日常的な言葉遣いで書かれた著者・最後の詩集。自身の死を目前に、戦争で死んでいった若者たちのことなど、思いつくままに思いが連ねられていく。
 その筆致はあたかも死から蘇ってきたものの、一旦生を抜けたもののような視線で書かれる。三浦雅士なら「死の視線」というところだろう。
 実際、このあと、辻井は、翌2013年の11月には鬼籍に入るのだが。
 恐らく、集中、長歌に対する反歌に当たるものが、末尾ではなく「二つの間奏曲」と題された二つの詩のうちの二つ目の詩「綱渡り」である。
 この詩集の要約、というよりも、あたかも実業家=堤清二と詩人・小説家=辻井喬という二つの名前、二つの顔を持たざるを得なかったこの人物の人生を見事に象徴する詩に、巧まずしてなっている。その冒頭の一連と最後の三連を引く。

いつも綱の上を歩いていた
地上よりその方が私には安全なのだ
なるべく目的地を意識しないで進む
正義や理想のような雑念を追い払うため
ただ一心に前を見て
言われたとおりに数値の平行棒を操って歩くのだ

(中略)

私もたくさんの死者を送ってきた
むしろ送ることしかできなかったのだ
でも戦死者のために鎮魂曲は歌わなかった
綱の上を歩く自分に資格はないと知っていたから

だから死者と一体になることはなく
その望みも自らに禁じて
ただ均衡を取ることに集中して
渡り鳥の囀りの意味を知ろうとはせず
陸を失った鯨が哀し気に交わす声にも耳を塞いで
いつも自由だった 自由だと思ってきた

それなのにそんな私を呼び出しているのは誰か
まるで終りの時が近付いていると
報せようとしているかのように
(辻井喬「綱渡り」/『死について』p.60,p.p.63-64) 

   三浦雅士の秀逸なる辻井喬論「二つの名前を持つこと」*の触発されて、偶々、買い置いたままで手に取ってなかった本書を紐解き、まさに蒙を啓かれた思いだ。

*菅野昭正編『辻井喬=堤清二――文化を創造する文学者』(2016年・平凡社)所収。


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2021/06/16 18:42

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