014『西日本を歩く9(完結)~滋賀・愛知・エピローグ~』
014『西日本を歩く9(完結)~滋賀・愛知・エピローグ~』
文:守屋佑一
2010年9月20日
12日の深夜に小田原を出発し、兵庫・岡山・広島・山口・福岡・大分・宮崎・鹿児島・熊本・佐賀・島根・鳥取そして滋賀と旅してきたが、ついに最終日が訪れてしまった。
この前日に泊まった琵琶湖のふもとの漫画喫茶で無料サービスのモーニングを食べて、琵琶湖を少し見て、ちょうど帰り道だし名古屋にでも寄って帰るかという話になったのだったか。
印象に残ることや場所が多く、毎日の車内のこともけっこう覚えているのだが、この日ばかりはあまり印象に残っておらす、車内のこともなぜかこの日だけあまり覚えてない。
最終日の寂しさにみんな口数が少なくなっていたのだろうか、
昼前に名古屋につき、並んで名古屋の味噌カツの有名店、矢場とんで味噌カツ丼を食べた。この日は祭日ということもあり、とても混んでいた。
そういえば、矢場とんで並んでいると、自分たちより前に出てきたお客さんが見覚えのある人で、よくよく見ると中学の野球部の2学年上の先輩たちでびっくりつつ挨拶をしたことを覚えている。
そのあとは名古屋城を見て、小田原を目指した。ほとんど下道で来たこの旅だったが、この時は東名高速に乗った。
連休最終日ということもあり、だらだらと続く渋滞。それでも、確実に車は進み、足柄SAで少し休憩し、ついに我らが故郷の小田原にとたどり着いた。
早く帰りたい気持ちと、旅が終わってしまう寂しさが心に同居していた。
非日常は終わり、あっという間に日常に戻った。
ただいま。小田原。
エピローグ
長いようで短くて、やっぱり長かった九州弾丸旅行。
いまでも、このときの仲間と会うとたまにこの話になる。
今回、この物語を書くにあたって、当時の写真をちゃんと見返した。
補足として一緒に旅に行ったTYとSのTwitterを読んだ。
僕は一度Twitterのアカウントを変更してしまっているので、残念ながら記録が残っていなかった。
けれど、デジカメは本当に便利で撮影した日にちも、時間も記録されているから、写真を見返すことで余計に鮮明に記憶が蘇った。デジタル時代万々歳。
記憶には自信があったつもりでも、細部の事がだいぶ自分の記憶とは違っていた。
また、書いたあとになって思い出したこともたくさんあった。例えば、九州に入ってコンビニで求人の張り紙を見て時給が500円台だったことに心底驚いたことや、僕の生まれ育った青森が一番の田舎だと思っていたが、それよりも田舎があったこととか。
それと、しっかり記録されていない思い出のなかにも印象深いエピソードはたくさんある。どこかのコインランドリーでは、世話を焼いてくれるおばちゃんが常駐してた。正確にはどこだったのか思い出せない。あとは途中で資金が尽きそうになり、賃金手渡しのプールの監視員バイトの給料を預かってもらってる友人に振り込んでもらおうと思ったが、失敗に終わったり・・・他にもいろんなエピソードがあった気がするが、なにぶん断片的にとか、あとから思い出したりばかりなのでしょうがないが。
この旅以降も、数多の弾丸旅行を繰り返したが、これ以上に期間が長かった旅は未だない。そして印象深い旅も。この旅はこの後の僕の思想にも大きく影響を与えた。とくに観光に対する考えだ。さまざまな場所の雰囲気を吸収し、いろんなものを見て、ものを買って。なんとなく小田原をどうするべきかも考えることができた。そのこともあって、僕はこの数年後に梅丸を活用し、復活させたり湘南ゴールドのぷっちょや吉田島サイダーを企画したり。5年経ち、社会人としての経験ができて実現できることが増えた結果だ。いろんなことがあった5年。大きな災害があり、みんなの意識が変わりつつある5年。誰しも小さな宇宙を手に持ち、どこにいても、すぐにでもなんでも知れるようになった5年。
5年前はなにを調べるにも今より不便だったが、不便と思えず、ガラケーだって満足だったはずなんだけど。
仕事のために旅をしているわけではないが、今後もこの旅で培ったものをいろんなところへフィードバックしていければいい。
この旅に一緒に行ったTとSとはその後もいろいろなところへ共に旅をした。
もちろんいまでも一緒に旅することもある。
しかし、それもだんだんと少なくなっていくのだろう。
5年後の僕らはどうなっているのだろうか。
また、5年後にでも、違った形でこの旅を振り返ってみるのも面白いかもしれない。
これからもいろんなところを歩いてみよう。
長きにわたる駄文にお付き合いしていただいた方々にも感謝申し上げます。
2015.9.22
『西日本を歩く』
完
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