大阪に難波宮があったころ
少し前から大阪の歴史に興味を持ち、
何冊か本を読んでいる。
故郷だけど、これまでは小学生レベルの
知識だけ。
2024年4月17日
大昔の大阪を感じたくなり、実際に歩いてみた。
大昔というのは、この地に人が住み始めたころ。
土地のアップダウンをまず最初に。
コース: 八軒家浜(天満橋)→(上り坂)
→大阪城沿いに南へ→難波宮跡→(下り坂)
→JR森ノ宮駅
上町台地へ北から上陸して東へ。
古代、上町台地は半島状に北へ伸び、半島の東西は海。西側は大阪湾。
東側は初めは海、のちに淡水化して河内湖となる。森ノ宮貝塚では上部は淡水産、下部は海のものという。
半島の北端に石山本願寺、織田信長に滅ぼされた後、秀吉の大坂城が築かれる。
大阪城はその後も徳川時代には幕府の西日本の拠点、明治以降は軍部が使用。一般庶民は長い間、立ち入れなかった場所だ。
半島の北側の水路(現在の大川)、人工的に東西に掘削された「難波の堀江」だったという説がある。
つまり半島の北側は淀川のデルタが広がり幾筋にも分かれて大阪湾へ注いでいた。
明治時代に新淀川へ流れの中心が移って大川の水量が減り、南側を埋め立てて土佐堀通りになったように見える。
八軒家浜は天満橋(大川沿い)にあり、
現在水上バス乗り場がある。
江戸時代には大坂伏見間に三十石舟が往来した。
この辺りに中世は渡辺津があった。
天皇、貴族に人気のあった熊野詣の熊野街道の起点でもある。
江戸時代、天下の台所だった中之島は大川の中洲。
もっと昔に遡ればこの周辺に難波津。
上記の地図の難波津想定地はやや川下である。
地図を見れば見るほど興味が湧いてくる。
日本の歴史から見てもいちばん重要な地点の港だった。
八軒家浜から上り坂。南へそして東へ。
大阪城の堀沿いに南下。
合戦でも、空襲でも多くの人が亡くなったところ。
難波宮跡に到着。
前期・後期2度にわたる難波宮は現在の跡地よりもさらに広かった。
実際には上町台地は幅が狭かったので、
谷を埋めてこの平地を作ったと。
つまり京都や東京よりも古い時代に
大阪には都が置かれた時期がある。
当時は海運が最重要だったから。
難波宮から東へ緩やかに下っていくとJR森ノ宮駅。
この辺りのどこかに貝塚があったそうだ。
現在の森ノ宮は内海に面した場所。
人や物が往来した昔をしのぶとき、大阪湾にひたひたと波が寄せた浜辺、貝を採った人々を想う。
海水から塩を作ったのか。魚や藻を獲ったのか。
大阪の歴史、知らないことが多すぎる。
もっと学びたい。
そして想像の翼を広げたい。
高齢者、学ぶのに遅くはない。
時間を作ってまた歩きます。
今日もすてきな一日をお過ごしください。
地球と宇宙にありがとうございます。
Have a nice time.
Take it easy❤️
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?