聖夜Ⅰgive and take (未完)

小学校の五年か六年の頃だったと記憶しているが、ささやかな蔵書をきれいに整理整頓した数日後、自室に掃除に入った母にごっそりと捨てられた。
ひどいと責めると、「もう、いらないと思って」と言い訳された。
母が不要と判断し捨てた本こそ私が持っておきたかったものであり、なくても構わなかった本は取り残されて放置だった。
それを伝え、「わざとやってるの?」と問い詰めると、母は泣いた。
泣きたいのはこっちだった。

今ははっきり分かる。
母のアレは゛わざと゛だが、母自身がそうと自覚することはできない。
自分より若い女でもある娘に対する嫉妬で、母はたびたび一時的におかしくなるが、感情の記憶は飛んでいる。
おかしな最中のおかしな行動は、母の中で後付けで正当化される。
振り回されてはならない。
おかしいのは母ではなく私の方ではないかと真面目に懐疑したり、母の行動に怒りを覚えるのに罪悪感を持ったりすると、自分の方がおかしくなってしまう。 
母は確かにおかしいが、母娘の関係では゛よくあること゛でもある。
何をフツーとするかは難しいものの、決して良くはないがまあフツーであり世間並と思っておくのは精神衛生上悪くない。
毎日顔を合わせる同居家族の私が母のおかしさに注目してこだわると、母のおかしさは強化され反復され強化されのループに容易に入る。
なので、娘の母親なんてそんなものと、高を括ってスルーしておくのは正しい戦略なのだ。

そんな母の発作的な意地悪をくぐり抜け手元に残ったわずかな中に、二冊のクリスマス絵本があったのは皮肉か、それとも必然であり運命だったのか。
人生は面白い。
絵本には私の知らない女の子の名前の記入と幼稚園名の押印があり、親の知人のお子さんからのお下がりだったと記憶している。
子どもの頃特に感慨もなく眺め、いらないのにどうして私が持っていなくちゃいけないのと疎ましくすら思った本は、二十二歳の私の聖書になった。

『ベツレヘムへの道』は、杖なしでは歩けない子どもが、イエス・キリスト誕生のお祝いとして杖を贈る決心をしたとたん、歩けるようになる、というあらすじである。
もう一冊、『いちばんはじめのおくりもの』は、やはりイエス・キリスト誕生のお祝いに、羊飼いの子どもが自分の友達だった羊をプレゼントし、話はそこで終わっている。
絵本の子どもたちは貧しく、杖も羊も、その子どもにとって「唯一といえる自分の持ちもの」であった。

21世紀の日本で暮らす私は、彼らから見れば信じられないようなたくさんの持ちものに恵まれ、囲まれてすらいる。
それでも彼らの杖や羊に相当する何かを私が持っているとするのなら。
若い女としての身体の他に考えられない。
近眼の私が無人島に持っていくなら眼鏡だが、「かけがえのないもの」とは当然そういう意味ではない。

「処女を捨てる」という表現はしばしば誤解される。
「杖がなければ歩けない」と分かっているつもりの自分は、もしかしたらちっぽけで、何も知らないかもしれない。
そんな風に限られたイメージの自分、自分に対するこだわりを手放し、捨てるという意味で、処女も「捨てる」のだ。

「処女を捧げる」も同様に誤解を受けやすい。
処女の価値に自惚れているなら「処女を売る」だろうが、そうではない。
そうではなく、身体くらいしかないのだ。
何かを「捧げる」とき、自分には唯一その何かしかないという絶望がある。

私は今学生だが、これから先社会人になったとして、出来る仕事はたかが知れている。
なにより、性格がよろしくない。
世の中の役に立とうとするとき、これほどマイナスになるものはない。
そう、むしろ、私は、世界のマイナスになっている。 
しかし、私の人格とは無関係に、私の身体は求められ、その価値があると、確かに信じられる。
なんと尊く、ありがたいことだろうか。

この感覚の経験は、女子にとって特に珍しくもないだろう。
「私には何の価値もない」と、そんなわけはないとアタマでは分かっているのにどうしてもそこに思い至るとき、身体を求められてその価値に気付く。
ここでもし身体を委ねられなければ、罪悪感を抱くことになる。
だって、私がこの世界に捧げられるものは、この身体しかないのだから。

二つの絵本は、「世界に参加したければ、まず、与えよ」と教示しているのだと思う。
自分にはこれしかないと信じる唯一のものを手放す。
すると、その唯一も「自分のもの」ではなかった、財産、身体、精神、言葉、そういった全てが「自分のもの」ではない、この世界に「自分のもの」は何もなく、「自分のもの」と信じていたそれは、この世界の何処かより「私」に贈られたものだったと気付く。
かつての絶望の深さと引き換えの、強いカタルシスとともに。
おそらく、そういう筋書きになっている。

贈与と返礼は単純な交換では決してない。
貰ったのと等価の何かを、くれた人にお返しすることがほとんど叶わないのは、私だけではない、みんながそうだ。
それでも何処かに何かをお返ししなくてはいけないと人は思い、願う。
したがって贈与と返礼は往還して渦となり、世界になる。
渦巻くそれらは誰のものでもないゆえに何処へでも流れていく。

私は、長い間世界を拒否し、自らを閉じようとしていた。
私の「処女」は、そうしていたことのスティグマと云ってよいだろう。
私は、私の身体には価値があっても、処女に価値はないと思っている。
「処女」とは、唯の一度も、誰にも、その身体を委ねたことがない印であり、ただただけち臭く、罪深い存在である。

中学生の頃だったと思うが、新聞にとある老婦人の投書が掲載されていた。
自分が処女であるのを悩んだときもあったが、今となってはずっと゛きれいな体゛であったことを誇りに思っていると、そういう内容であった。
そんな言葉で他人を貶め優越感を得ていることにいい年して無自覚な人が、若い女としての身体が出来た以上の何かを、世の中に役立てたはずはない。
あのとき、こんな女にだけはなりたくないと思った。

なのに私は、このままそんな女になってもおかしくなかった。
歳を重ねれば重ねるほど、受け取る方にとって「処女」は重いだろう。
二十二歳は、もう、ぎりぎりと思われた。
早く処女を捨てなければならない。
これは、ようやく大人として世界に参加しようとする私の、人間らしい義務感による決心だ。

同世代の全ての女性にとってここが瀬戸際でないのは分かっている。
仮に処女だったとしても、別に焦る必要はない方が普通だろう。
しかし私は、おそらく、今後まともな恋愛をすることはない。
そう考慮したとき、私にとってやはり処女は「捨てる」ものであり、事も急ぐのだった。


🍊未完🍊


作中の絵本はこちらの二冊です。

『ベツレヘムへの道』こぐま社 (1975/12)
いっしき よしこ (著), さの ようこ (絵)

『いちばんはじめのおくりもの』、女子パウロ会 (1983/8/10)
なかむら きよこ (著), いもと ようこ (絵)


《あとがき》

未完の状態のアップで失礼させて下さい🙇

『人形はいりませんか?』の主人公の思い込みには確固たるものがありましたが、こちらの主人公は「甘い」せいかお話になりませんでした。
もちろん、主人公が悪いのではなく、私の詰めが甘いのですが。

来年仕上げて、またⅠからよろしくお願いできたらうれしいです。
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲで15000字程度の予定です。

久しぶりに書いてて恥ずかったです。
『人形はいりませんか?』は二万字弱ありましたが、うちpc画面で二行くらいしか恥ずかしくありませんでした。
引かれないかとは心配でしたが。

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