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2018年秋アニメ感想 SSSS.GRIDMAN

 『グリッドマン』は『日本アニメーター見本市』で視聴していたのだけど、私は『グリッドマン』を全く知らず……。ニコニコ動画でのコメントは盛り上がっていたのだけど、私はどうにも意味がわからず、終始ぽかーんだった。
 知っている人と知らない人では温度差が大きい。
 『日本アニメーター見本市』での『グリッドマン』は話題となり、そして今年、満を持してのシリーズアニメ化。しかも制作はTRIGGER。放送前から盛り上がりが大きく、「ヒット確定」の良い空気の中、シリーズはスタートした。

 ……のだけど、私はどうにもその空気に付いていけず。え? 有名な作品なの? 『日本アニメーター見本市』の段階でもいまいち乗り切れず、おそらくは本編を知っている人なら定番になっているシーンの再現なんかがあったらしく、燃え上がるところだったのかもしれないけど、そもそも作品タイトルすら知らない私からしてみると「なに? これ??」という感じだった。
 元の『グリッドマン』をまったく知らない私でも大丈夫なのだろうか……不安を覚えながらの視聴だった。

 さて、シリーズアニメ本編だが、こちらはちゃんと完全な初心者でも楽しめるように作られていた(よかった……こっちでもおいてけぼりを喰らうかと)。もしかしたら特撮版『グリッドマン』とリンクするところがあったかも知れないけど、知らなくても楽しめる内容だ。

 物語は記憶喪失の響裕太が目を覚ますところから始まる。自分が何者かも知らないし、自分の家がどこなのかさえも知らない。
 後々、物語世界は1人の人間の願望によってデザインされた世界観であって、登場人物はリアルな人間というよりもまさに“登場人物”という感覚で設定され設計されたものであった……ということが明らかにされるが、まあそうでしょうね、という感じ。どこか不自然で、閉鎖した空気の街、書き割りのような描写……これは恐らく虚構の街で、この赤毛の少年はもしかすると非実在少年で、両親が旅行中で不在というが、そもそも存在していないのでは……虚構の街というのはアタリだったけども、少年の設定はハズレ(両親はちゃんと存在していて、最終回に登場する)。惜しい。
 実は似たような構造の物語を何年か前に構想していて……結局のところ、いつものように実現しなかった構想の1つなのだけど。実現しなかった、というか作らなかった。作らなかった理由は「これ、始まって10分くらいで全部バレるな」と思ったから。『グリッドマン』を見て、やっぱりそうだよな、と気付いた。記憶喪失の主人公で、街の外は存在せず、街の内部も書き割りのような描き方で、怪獣が暴れ回っても再構築される世界……という展開になったら、そりゃ誰かが神様となって作っているんでしょうと答えは出てくる。最近の視聴者はとにかくも勘がいいから、1話でだいたいの物語構造を読み解けたという人は多かったんじゃないだろうか。

 物語構造にあまり関心を惹くものがなかったのだが、作品のフックとなっている部分は“特撮”。グリッドマンに変身し、街の中に現れる。ドスンと着地し、衝撃で車が跳ね飛びなんだかわからないものもパラパラと飛び散る。
 なんともいえない“特撮”感。怪獣を真下からアオリ見る絵もいい。都市のスケール感と巨人、怪獣のぶつかりあい。怪獣はわざわざ“中に人が入っている”ことを前提とした動きになっている。おかげで本当に特撮で作ったものをアニメに置き換えたような、そんなスケール感を持った映像になっている。
 それで後半、怪獣の中から“中の人”が出てきて、特撮では絶対できないようなハイテンションなアクションを繰り広げる。方や特撮ものとしてのスピード感、重力感で動いているのに、もう一方が特撮ものではできない動きで暴れ回る。こういう動きの差を作れるのはアニメーションならでは。
 あと特撮シーンは基本CGで動いているのだが、気合いの入ったアクションほど手書きに変わる。最近のアニメとは逆行する作り方だが、むしろそこがいい。豪快なアクションを手で書いた勢いそのままのものを堂々と見せたい、という作り手の自信を感じさせる。
 こういう画作りは確かにいまTRIGGERくらいしかできない。グリッドマンと怪獣との戦い。この一幕がエンターテインメントとして重しになっている。またあえて“特撮”ものというジャンルカテゴリーのなかに自ら組み込まれることで、むしろ作品を見やすく、親しみのあるものにしているように思える。“戦い”という痛快な一幕が作れるし、特撮ものに対するパロディとしても機能している。

 ただ、展開にややわざとらしい瞬間もあって、第1話、宝多立花が古いパソコンの前で何かをするぞ……という雰囲気を出しているのだが、何をしているのかよくわからない。何となく雰囲気だけで話が進行してしまっている。
 第3話では内海と宝多の対立が描かれるのだが、ああいったネガティブな空気を作るために、展開がわざとらしくなっている。まず電話で確認しろよ、という話だ。雰囲気先行でシーンが作られ、しらじらしさが出てしまっている。
 後半、宝多立花と新条アカネは“設定”で結ばれた親友同士……というちょっと不思議な作りで、そういう設定として作られたからゆえに立花はアカネに執着するのだけど、ここは切っ掛けとなるエピソードがほしかった。最終的になんとなくいい雰囲気になるのだけど、間を埋めるエピソードが特にないので引っ掛かる。
 問題は内海将だけど、物語の最終局面で特に何もしていないキャラクター。役割が薄い。いなくてもいい……というわけではないが、もう少し役割を作って欲しかった。“雰囲気”を出すための存在ではなく。
 気になったのは一部のシーンで、これで脚本の全てがダメ……とはもちろん言わない。むしろユーモアあるシーンはみんな好き。アクションもいい。ただ、ところどころ、肝心なところでシナリオの練り込み不足が見えてしまっている。

 キャラクターについては……pixivにいると宝多立花、新条アカネがずっと検索ランキング1~3位に入っているのを見て、人気があるらしいことは認識している。
 ……見た目を可愛らしく描くって大事だね、とつくづく思った。「せめて小粋に作れ」と私は常々書いているのだが、その通りだなと。
 キャラクター人気については、TRIGGERはここ数作、キャラクター作りで外したことがない。毎回作品を発表する度にpixivの検索ランキング上位に入ってくる。TRIGGERのキャラ作りがいかに強いかがよくわかる。

 『グリッドマン』の裏テーマにあると思われるのは現代の若者の姿。周囲のできごとに無関心。感情も情緒もうすらぼんやりしていて、しかも不安定。社会的な問題よりも、自分の些細な欲求のほうを優先させてしまう。怠い、面倒くさいと思ったら、学校にいかずふらふらする。「こいつ嫌い」と思ったらクラスメイトでも長年の友人でも簡単に切り捨てる。「自分が全て」。淡泊なのにエゴイスト。みんな密かに自分が主人公として扱われることを期待している。
 そのクセに、自分のポジションがどこにあるかを気にする。クラスの中での自分のポジション。友達がどれだけいるか。クラスで盛り上がっている時に自分はその輪の中にいるか、あるいは中心にいるか。「クラス」「学校」という「社会」の中で自分は意味のある立場であるか、これが自身の存在価値の全てとなっている。
(最近は「サイコパス」といった言葉があるが……私はずいぶん時間を掛けて検討してみたが、「サイコパス」とは「普通の人」のことを指している)
 ただただ利己的で自分勝手な今時な若者像。自分1人が「気持ちいい」が全ての今時の若者。自分だけが満たされていたい、他は知らない、と気軽に切り捨てができる現代人像。『グリッドマン』は意識的に、若者を記号化して切り分けようとする。
(日常のシーンでほとんどBGMがなかったのは、若者の漂白したような心情や、虚無を表現するためじゃないかと)
 8話……学園祭のエピソードで学園祭の準備で盛り上がっている学生達と、その盛り上がりから切り離されている裕太や内海や新条アカネ。象徴的に「オタク」を現代のスクールカーストから除外されたはぐれもの、えた・ひにんとして描かれている(ある種差別的な表現だが、事実だ。オタクは人権の対象外と認識されている)。
 女の子でありながら「特撮好き」というオタク気質を持ってしまった新条アカネ。しかも新条アカネは造形作家としての才能を持ってしまっている。が、この知識と才能は学校という社会の中では最底辺中の最底辺。学校という社会から完全に排除され、存在価値を否定されていたであろう新条アカネ(後半、やはり細かいところまで掘り下げられなかったが、アカネの引きこもりのモチーフはそういうことなのだろう)。そのアカネが復讐としてデザインされた世界。アカネは友人がほしかった。アカネは神様としてクラスメイトから崇められる存在であったが、満足していなかった。自分のエゴを受け入れてほしい、自分の本当の姿を知りつつ、理解してほしい……そういう存在を求めていた。
(8話だったか……アカネがベッドの上で裕太に誘いかけるシーンがあるが……。なかなか印象的なシーンだった。アカネは敵対する相手に対して、承認を求めている。性を解放するのもいい。しかし裕太はアカネを拒絶する)

 お話の構造は『うる星やつら ビューティフルドリーマー』に似たところがあって、アレクシスが夢邪気、アカネがラム、裕太たちが諸星あたる、という構図だ。アカネが作りだした夢、幻想を否定し、その登場人物であることを否定し、現実への回帰を目指す。よくある展開なんだけど。
 というお話だと仮定した場合、アカネの願いはどこに行くのだろう? おそらく現実世界には何の救いも望みもなかったであろうアカネ。そのアカネがささやかな希望として作った虚構世界。
 しかしアカネの内面に顧みられることはおそらくないだろう……。アカネは「敵」としうて処理される(理由は「なんとなく」だ)。なぜならオタクという気質を持った時点で、「社会の悪」だからだ。オタクは犯罪を犯してなくても、犯罪者と同じような存在だ。私たちはパワハラ的にその認識を受け入れなくてはならないと社会からの圧力を受け続けているのだから。
(OPのラストで「君を退屈から救いに来たんだ」と新条アカネの前にグリッドマンが現れる。裕太ではなく、アカネの前に、だ。これでアカネを救う物語だとわかる。最終的に、アカネは夢の世界から決別し、現実に帰還する。でもこれで万事解決だったのだろうか……という気はしている)

 私は常々思うのだが、虚構の世界くらい、ユートピアを描いてもいいんじゃない? 現実の世界には希望なんてなにもありやしないんだから。創作の世界では、だいたい「否定」から描かれる。夢が肯定される物語を描いたっていいじゃないか。そういう作品って、本当にないよな……。

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