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5月29日 『嫌儲』という思想がちょっと前まであってじゃな……ネット老人の思い出語り

 とあるラジオを聴いていて、
「昔は儲けようとするとネットの人にものすごい嫌われたんだよなぁ……」
 みたいな話をしていた。

 あー、あったな。『嫌儲』思想。「昔」といっても、何十年も前……ではなく、10年くらいまでは『嫌儲』思想が中心だった。モノ作りをやっている人が、儲けようとすると、ネットからバッシングされていた。
 私はその当時から「いや、待て待て。モノ作りをやっている人がちゃんと儲けを出さないと、次の新しいものを作れないだろ」……とブログで書き続けていたけど……まあ全部スルーされてたなぁ。
 クリエイターが自分から儲けよう、利益を出そうとするのは「汚いからダメ」「クリエイターはお金のことなんか考えるな」「そもそも、そういう話もするな!」みたいな感じだった。
 当時のアニメファンは例えばアニメのDVDやグッズを買うと、それが作り手のご飯になり、次回作の予算になる……というイメージが全くなかった。作り手はそれとはまったく別の、よくわからないところからお金をもらって作るものだとみんな思い込んでいた。アニメグッズを買うのは、「作り手のため」ではなく、あくまでも「自分とアニメキャラクターの関係性」のために買うもの、という認識だった。
(ある程度年のいったアニメファンは、まだ「アニメグッズのお金が作り手に回る」というイメージは持ってないかも知れない。少なくとも私の知っている人は、このイメージは絶対に持っていない)
 その一方でアニメファンの多くは「アニメーター低賃金問題」を口にする。一方で「儲けるのは汚い」と言いつつ、一方で「アニメーター低賃金問題」で大騒ぎする。アニメファンの大多数は「自分たちがDVDやアニメグッズを買ったお金と、アニメーターがもらう金は別」だと思っていた。

 それがいつしか、「自分の好きなコンテンツにちゃんとお金を払わないと、そのうち終了してしまう」ということに気付き始めた。やっと自分たちがグッズを買うのに払ったお金がクリエイターの元へ行く……ということに気付き始めた。
 それは喜ばしいことだけれど……なぜなんだろう?

 よくわからないけれど、一つにはクリエイターが目に見える場所に現れてきたから……かも知れない。
 今まで「クリエイター」と呼ばれる人はどういう世界にいて、何を食べているのかわからない。いや、いっそ存在するかどうかもわからない……という感覚だったんじゃないだろうか。『ワンピース』は好きだけれども、尾田栄一郎という人は存在するかどうかわからない……という感じ。「漫画は好きだけど、漫画家の名前なんて見たことない」なんて漫画読みは世の中にいくらでもいる。

 でもそれがYouTuberの時代に入って、クリエイターと直接交流できるようになった。動画の向こうに、作り手が確かに存在する。そういう人への支持の表明として、お金を出すということが正しい……とどこかの段階で気付いた。そういう感じじゃないだろうか。
 私はブログで『嫌儲』思想に反対して、商品を買えばクリエイターにお金が入る……と説明してきたけれど、結局のところ、そういう説明なんかでは誰も理解しない。その本人が表舞台に出てくることのほうが一番インパクトが大きかった。

 もう一つ考えられるのは、スマートフォンゲームかなぁ。スマートフォンゲームは基本的にオンラインで、収益が少なくなってくるとサービスが終了してしまう。全てアルゴリズムで生成されるのではなく、ゲームの向こう側に人がいて、調整したり新サービスを提供したりしている。ここでお金を出しておかないと、いつかサービスが終了してしまう……このことに直面して気付いた、という人もいるかもしれない。

 この変化はほとんどの場合は良いことなのだけれど、ちょっと引っ掛かるところもある。というのも、YouTubeみたいなところでたくさんの人が支持をしているのは、実際の「作り手」ではなく、「プレイヤー」のほうだ。
 例えばゲーム実況者は、別にゲームを作っているわけではない。でもそういう人が制作者以上に注目され、場合によっては制作者以上に稼いだりする。
 いや、待て。ゲーム実況者をいくら支持しても、そのゲームを作った人のところにはお金は回らんぞ。そのゲームの新シリーズが作られることもない。
 でもその肝心のゲームの作り手は、相変わらず顔が見えない場所にいる。顔が見えないから、支持できないし、もしかしたら今でも多数派のユーザーには認識できていないかも知れない。(人間の認知能力は、非常に低いから……)

 そんなふうに考えると、やっぱり漫画家もアニメーターもゲーム制作者も顔を出さなきゃいけないのかも知れない。顔を出さないと、存在を認識してもらえない。「その人にお金を払おう」というふうに思ってもらえない。
 しかし、私も含めてだけど……クリエイターという存在ははっきりいえば口下手だ。喋りが下手。言葉で場を盛り上げたり、とかができない。クリエイターが得意とするのはあくまでも紙の上での表現であって、それに特化した存在であって、そこに特化したがゆえにパフォーマーの能力が低い。
 もしもクリエイターが顔出しして喋っているのを見ると……見た目はパッとしないし、ボソボソと何を喋っているのかわからない様子を見ると、多くのユーザーは幻滅して、「こういう人にお金を出すのはやめよう」とか思われるかも知れない。
現代人はその人がどんな能力を持っていて、何を成しているか……ではなく見た目が綺麗か、イケメンか、美人か、ということのほうを重要視する。美人じゃなかったから、もうファン辞めるわ……みたいな感覚の人も多い。この歪みが、現代人が陥ろうとしている「ホワイト社会」だ。そういう「見た目」で選別することを、現代人、さらにはこれからの人は「正義」として考えていくようになるだろう)
 私だってそうだ。こんなふうに文章は書けるけれど、喋りはまったくできない。貧乏くさい服しか持ってない。こういうのをYouTubeで顔を出して喋ることができればね……とは思うけれど、無理なものは無理。私が顔出しするのはマイナスでしかない。
 できないことは、やらないほうがいい。

 顔を出さないと存在を認識してもらえない。でも顔を出すと逆にマイナス要因になる……。
 うーん、難しい。いい解法はないだろうか。

 今の時代、「セルフプロデュースできない作り手はダメ」みたいな風潮になっている。でもそういう考え方って、どうなんだろうな……という気はしている。
 私はアニメーターだったわけだが、その当時の経験で言うと、現場の隅っこで誰とも会話せず、もくもくと絵を描いている人が一番いい仕事をする……というのを見ている。「本当にいい仕事をする人」、というのはその仕事に全集中するから、どうしても地味でダサい見た目になるんだ。着ている服が、とか、髪を整えて……というのを二の次、三の次にして作品に集中する。そういう人が一番いい仕事をする。
 ところが、現代人は見た目がダサい人が、優れた仕事をこなす……というギャップに耐えられなくなっている。「良い仕事をする人は、見た目も綺麗」……が現代人が一番シックリする感覚だ。
 人間にはスキルポイントというものがあって、それを人生のうちにどこに振り込むかで将来が決まる。アニメーターをやっている人、というのは絵を描くだけに特化させてしまった人。絵を描くことにとことん特化させてしまった人……というのが実際の現場にはいた(だから絵を描くこと以外はまったくのダメ人間……そういう人はいくらでもいた)。本当なら、そういう寡黙でいい仕事をする人こそを称賛すべきじゃないか――と私は考える。
 しかし現代は「セルフプロデュースできない作り手はダメな奴」という考え方がスタンダードだ。本当にいい仕事をする人ほど埋もれてしまう。

 すると結局のところ、「そこそこの実力」で、「そこそこ見た目が良く」、「そこそこ喋りがうまい」奴が一番……ということになっていく。「いい仕事」よりも「パフォーマーとしての才能を備えた作り手」のほうにみんなの目線が集中してしまう。
 実力よりも人気が大事。そっちのほうにどんどん特化してくんだろうね。
 それも時代か……。
 それで、かえってモノ作りのクオリティが落ちなければいいけど。
 「モノを見る目」はしっかりと養わないといけない。パフォーマーに惑わされずに、ね。


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